婚礼の当日
「ま、だからこそ我が家の出番という訳だ。王女様をお救いし、成り上がりの乱暴者に礼儀を教えてやらねば。願いは全て叶う訳ではないのだ、この程度で我慢しておけ、とな」
当主がごく軽く言ったのを聞いて、エリーゼはそっと両手を握りしめた。そうしないと、膝が崩れ落ちてしまいそうだったから。今は、いけない。彼女は、花嫁衣裳の仮縫いの真っ最中なのだから。将軍の手柄がいかに大きくても王女を与える訳には行かない。けれど、英雄に妻がいないのも収まりが悪い。将軍の忠誠心を刺激しつつ、決して平民出身の者に対してへりくだり過ぎたとは見えないような――エリーゼは、まさに良い程度の存在だったのだ。
「我が家の忠誠を示すことができるのだ。恥晒しを今日まで養った甲斐があるというもの」
滑らかな絹やレースで縛られたようになっているエリーゼには、茶菓を囲んでいる面々の顔は見えない。仮縫いの様子を見に来たはずの当主でさえ、彼女を放って令嬢たちとの会話に興じている。でも、ギルベルタの声音からして、厳格な貴婦人も満足そうに笑っているのだろうという気がした。
(家のためになるのだから……仕方ない、のよ)
ギルベルタは、エリーゼを王女の身代わりの生贄にして、王家に恩を売ったのだ。傲慢で計算高い表現になってしまうけれど、そういうことだ。でも、彼女に異を唱えることなどできはしない。娼婦が産んだ娘を、今日までトラウシルト家の屋敷で育ててもらったのだから。先代の馴染みの娼婦が、トラウシルト家の一族に多い銀の髪の赤子を産んだと聞いて、ギルベルタは大金を詰んでエリーゼを買い取らせたのだ。エリーゼが成長した時に、高貴な血を引く
エリーゼは、母と揃ってこの家に散財を強いてしまったのだ。しかも、身体を売りものにすることなく生きてこられたのもすべてトラウシルト家のお陰。だから恩返しができるのは喜ぶべきだ。葬儀の日にギルベルタが言っていた通りだ。だから――恐ろしいなどと思っては、いけないのだ。
「でも、エリーゼで王女様の代わりになるのですか?」
「あの子は私生児なのに。ねえ、獣は怒らないかしら」
決意を固めようとしても、令嬢たちの声にすぐ揺らいでしまうのだけど。彼女たちは、多分エリーゼを脅すつもりも貶めるつもりも全くないのだ。ただ、純粋な疑問を年長の者に尋ねているだけで。でも、だからこそエリーゼを怯えさせる。当然の疑問だと、彼女自身も思うからだ。王女との結婚を望み、それが実現しかけたというのに全く別の娘を押し付けられるなんて。将軍が噂通りの人だというなら、快く思うはずがないだろう。
「エリーゼ様……」
衣装に待ち針を刺していた侍女が、エリーゼの震えに気付いて声をかけてくれた。それに対して、エリーゼはそっと首を振る。大丈夫、と言いたいのか、単に諦めを表明しただけなのか、自分でも分からないまま。こんな形で、望まれない相手に嫁ぎたくはない。でも、彼女が嫌だと言ったところで聞いてもらえるはずがない。どうせ同じことなら、我が儘を言うことで叱られたり打たれたりするのが怖い。だから――黙って従うしか、ないのだ。
「ならば、お前たちの誰かが代わってやるかい? 陛下の御前で、大聖堂での盛大な婚礼で、代父は王子殿下だ。王女様も深く感謝してくれるだろう」
「嫌だわ、小父様!」
「意地悪を仰らないで。そんなこと、できるはずがないじゃない!」
楽しそうに悲鳴を上げる令嬢たちは、当主が決してそんなことをさせないと知っているから笑っていられるのだ。王女の身代わりは、何もエリーゼでなくても良かったはずだけど、娘を
「でも小父様、王子殿下にはご挨拶したいわ」
「ええ、とても素敵な方ですもの」
「無論。我が家の可愛い娘たちのことを覚えていただかなくてはな」
純白の絹に、一点の染みができた。エリーゼが堪えきれなかった涙が、ひと粒零れてしまったのだ。今回のことは、トラウシルト家に多くをもたらすはずだ。だから良いことなのだろう。でも、そのためにエリーゼを生贄にするのに、誰もそれを気にしていないようで、不意に耐えられなくなったのだ。涙の染みが広がってしまう前に、侍女は素早くふき取ってくれる。
「エリーゼ様、とてもお綺麗ですわ」
「……ありがとう」
その言葉が慰めのために絞り出したのでなく、心からの祝福だったらどれだけ良かっただろう。コンラートのための装いだったら、エリーゼもまだ心穏やかでいられただろうか。細やかなレースのヴェールは、エリーゼ自身が編み上げたものだ。衣装を飾る刺繍の幾らかも、彼女が自ら針を取って仕上げた。少なくとも、コンラートなら彼女が美しく装えば喜び満足してはくれただろうに。エリーゼは顔も知らない人のために白の衣装を纏うことになってしまった。
夫となる人についてエリーゼが知っていることは本当に少ない。祖国のために戦った英雄。コンラートを死なせた殺人者。栄達のために非道に手を染める残酷な男。王女を妻に臨む野心家。それらの情報が結ぶ像はひたすら黒く、どろりとした怪物のような何ものか。きっとエリーゼは、その怪物に食い殺されてしまうのだ。
婚礼の日は、恐ろしいほど早くやって来てしまった。将軍への「褒美」を渡すのは、早いに越したことはないということだろう。エリーゼの方も、コンラートが無事に戻れば婚礼を挙げる予定で準備が進められていたのだ。彼女の心の準備は――コンラートの死を受け入れるのも、花嫁という名の生贄の立場を受け入れるのも――全く、整っていなかったけれど。
毎夜、エリーゼは目覚めることがないよう祈りながら眠りにつき、毎朝無事に目覚めては絶望した。そして婚礼の当日、花嫁衣裳を纏った自身の姿を鏡で見せられて、エリーゼは死んだ顔色をしている、と思った。もともと彼女の肌は白いし、――食事を抜かれる罰も珍しくなかったから――しばしば痩せぎすの小娘と揶揄されることもあったのだけど。濃く化粧を施されても、青褪めた頬を隠しきることはできていなかった。銀の髪には霜が下りたよう、青い目は凍りついた水面のよう。葬儀を待つ間、棺に氷を詰めて置いておかれる死体はこんな表情をしているのではないだろうか。
「本当に、私生児にはもったいない衣裳だわ」
「でも相手は獣よ。生贄を飾り立てているだけよ」
「平民風情に価値が分かるのかしら」
「だからこそ派手にしてやらねば」
「見た目には申し分ない。あとは閨次第では?」
彼女の周りに集まったトラウシルト家の面々が口々に言い交しては笑う言葉も、エリーゼにとってはどこか遠い世界から聞こえる異国の鳥のさえずりのようだった。
「エリーゼ様、どうかお笑いになって。せっかくの日なのですから……」
気休めのように侍女がかけてくれる言葉の意味も、分からない。銀糸の刺繍に、宝石の煌きを添えた衣裳は確かに美しい。彼女にはもったいない、あまりにも豪奢な装いだと思う。でも、妬ましげに睨んでくる令嬢たちが言う通り、生贄の見栄えを良くするためのものでしかない。なのに、どうして笑うことができるだろう。
「ひと言も口を利かないようになさい。それに、転んだりしないように」
「お前はただそこにいるだけで良いのですから」
ヴェールを被せながら言い聞かせられる、もう少し年配の一族の女の言葉はまだどうにか理解できた。いつも通りだから。エリーゼの考えなど必要ない。目障りにならないように、場を乱す振る舞いをしてはならない。コンラートの葬儀の日の黒のものよりは薄く軽いけれど、花嫁のヴェールだって彼女の顔を隠してくれる。母親に似て男を惑わすと言われる顔を。
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