王太子マクシミリアン

「仕上がったようだな。急ごしらえでも大分化けるもの……」

「大奥様……」


 ギルベルタも、エリーゼの顔色には頓着していないようだった。客の立場で婚礼に出席する老貴婦人は、豪奢な装いを既に整えて満足げに微笑んでいた。この方が少しでもエリーゼを褒めるようなことを口にするのは初めてかもしれない。


(本当に、私で良かったのですか……?)


 ギルベルタの珍しい上機嫌を損ねるのが怖くて、エリーゼはやはり恭しく顔を伏せることしかできない。口を開いて内心の疑問を述べることなどもってのほかだ。

 どうして夫になるはずのヴォルフリート将軍と一度も会わせてもらえないのか。将軍は、エリーゼのような不出来かつ不名誉な娘を押し付けられることに納得しているのかどうか。王女を望んだのに、貴族どころか私生児の娘が妻に選ばれるなんて。婚礼の後は将軍の屋敷に移るようにとだけは聞かされているけれど、その屋敷がどこにあるのか、どのように暮らしていけば良いかも分からないままだ。


「馬車が待っている。用意は、良いな?」

「は、はい。旦那様……」


 でも、ギルベルタや、トラウシルト家の当主も堂々と自信ありげな笑みを見せている。エリーゼに手を差し伸べて、ついてくるように命じてくれる。従うべき命令があるということは、彼女の経験からすれば比較的安心できる状況のはずだった。逆らいさえしなければ、仕える者たちの機嫌を損ないさえしなければ、痛い思いや怖い思いをしなくても良いということだから。


 コンラートとの婚礼でも、エリーゼが口出す間もなく全てが整えられるのは同じだっただろう。でも、夫になるのが幼い頃から見知った青年だったなら、少しは不安も小さかっただろうか。今となっては、分からなかった。




 婚礼の式典が執り行われる大聖堂は、王宮の広大な敷地の一角に位置する壮麗な建造物だ。一族の令嬢たちと違って、王宮の夜会などに出席したことがないエリーゼは、これまではせいぜい遠目に尖塔の先が煌くのを仰ぎ見るだけだった場所に、今日は主役として招かれてしまうのだ。大聖堂での婚礼を許されるのは、本来は王族やそれに近しい大貴族に限られるはず。トラウシルト家でも、歴代の当主や、よほど高位の家から伴侶を迎えた者くらいだ。たとえば、ギルベルタとか。将軍の功績と、もしかしたら王女が花嫁になっていたかもしれないという経緯から、エリーゼもその光栄に浴することができたのだ。


「獣と娼婦の婚礼に大聖堂を使わせるとは、まったく嘆かわしいのだが」


 ギルベルタは、杖の音を高く鳴らしながら馬車を降りた。機嫌が少々陰っているのは、自身の輝かしい記憶をエリーゼのような存在が汚すことへの憤りだろうか。そのエリーゼは、初めて足を踏み入れる大聖堂の煌びやかさに身が竦み、ずっしりと重い花嫁衣裳に窒息しそうな思いを味わっているのだけれど。

 婚礼の場所を聞かされてから、ギルベルタにも一族の貴婦人や令嬢たちにも、何度となく言われてきた。決して思い上がるな、と。王女の身代わりの花嫁だからこそ、大聖堂に足を踏み入れることが許されただけ。娼婦の血を引く娘が聖なる場所を汚すことがないよう、くれぐれも振舞いには注意するように、と。


 そして何より、王子に対して無礼を働いてはならない、と。オイレンヴァルトの王太子たるマクシミリアン殿下は、近頃は病床にある国王に代わって国事を取り仕切っているという。父王の心労にもなりかねない事態に心を痛めていたという王子は、妹姫を救う娘が現れたことにいたく感激し、式が始まる前にエリーゼと顔を合わせることを望んだのだ。


「そなたがエリーゼ嬢か。妹のために名乗りを上げてくれたことに、心から感謝している」

「王家のためとあらば、身命を賭すのが臣下の務めでございますから」


 生まれの悪さが露呈することがあってはならないからと、エリーゼはその高貴な方の声を深く頭を垂れたままで聞いた。ギルベルタよりもトラウシルト家の当主よりも尊い方と直に顔を合わせるなど、私生児風情には許されないことなのだ。でも──


「顔を上げておくれ。貴女には礼を言わなければならないと思っていた」

「あの……」


 言われておずおずと顔を上げると、王子は同情に満ちた目でエリーゼを見下ろしていた。トラウシルト家の令嬢たちが、夢見るような表情で語っていたのも頷ける、美しい貴公子だ。華やかで甘い顔立ちは、コンラートにも通じるだろうか。


「美しい。なのに憂いに沈んで悲しげで、気の毒なことだ」


 そう言いながらエリーゼを舐めるように見つめる視線も、かつての婚約者に少し似ている。コンラートやこの王子だけでなく、一族の殿方や、時には使用人からも向けられることのあるねばつく目線は、蜘蛛の糸のようにエリーゼを絡めとる。貴人の目の前にいるからというだけでなく、身動きひとつできなくなってしまうほど。エリーゼの顔を隠してくれるはずのヴェールも、王子の視線の前にさほどの役には立ってくれない。


 とはいえ、エリーゼがマクシミリアン王子の視線に晒されたのはほんの数秒にも満たない間のことだっただろう。微笑めば薔薇が咲いたようにも見えるであろう美貌を陰らせつつ、王子は端正な唇から溜息を漏らす。


「妹と同じくらいに、この方も助けて差し上げたいとは思うのだが」

「とんでもないことでございます」


 エリーゼに代わって、ギルベルタが淀みなく答えてくれた。一族の恥であるところの娘は、清らかな花嫁衣裳を纏っていても、やはり王子の言葉に直接応じてはならないのだ。マクシミリアン王子の方も、彼女から視線を外してギルベルタの方を向いてくれたから、エリーゼは内心で安堵する。たとえ美しくても、たとえ高貴な方でも──男の人というのは、恐ろしいものだ。そう、エリーゼはコンラートに教えられている。


「かの将軍には、私も目をかけていたのだが。いつの間にこれほどに増長したのか──いや、貴女に聞かせても詮無いことではあるのだが」

「…………」

「増長と言うなら妹も、なのだが。誰に何を吹き込まれたのか、猛獣使いの真似事をしたがっているのは困ったものだ」


 マクシミリアン王子は、エリーゼではなくギルベルタたちに言ったようだった。トラウシルト家での日常と同じこと、彼女にまともな受け答えができることは誰も期待していないのだ。


「まことに。王女殿下が御身を獣の牙の前に晒すなどとんでもないことでございます」

「まあ、あれも人のものに手を出すほど我の強い娘ではないと思いたいな」

「本来は聡明な方でいらっしゃいますから。きっと兄君の御心を分かってくださいますでしょう」


 王子たちが何の話をしているのか、エリーゼにはまったく分からなかった。だから彼女は従順に目を伏せて、何も聞いていない、分かっていない振りに徹した。それに、何も不満など抱いていない、と。満足している訳では決してないけれど、少なくとも、彼女よりも尊く優れた方々に対して、訴えることなどあるはずもない。疑問を態度に表したりしては、きっと良くないことが起きるのだから。

 幸いに、微笑を取り繕う時間はごく短く済んだ。哀れな生贄の娘に一通りの言葉をかけて、マクシミリアン王子は同情心を満足させてくれたらしい。美しい貴公子は、気を取り直したように晴れやかな笑顔を浮かべると、エリーゼの手を取ったのだ。


「とにかく、貴女の献身を無駄にはしない。これほど美しい花嫁だ、ヴォルフリート将軍の野心も収まることだろう」


 そして、彼女は花婿という役割の狼の前に引き出される。もはや決まったこと、変わりようがないことだから、少しばかり哀れみの言葉をいただくことができただけで、過分の配慮と思うべきなのだろう。

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