おまけ

甘いひと時

 エリーゼが寝込んでいる間に、ヴォルフの屋敷の住人はだいぶ増えていた。将軍の奇禍を、それに王女の庇護を聞きつけたかつての使用人──多くの場合、同時にヴォルフの戦友でもある──が戻ってくれたこともあるし、アポロニア王女が将軍の立場に相応しい暮らしを維持するように、信頼できる執事だとか会計士だとか料理人だとかを送り込んでくれたからでもある。

 何しろこの家の主であるはずのヴォルフもエリーゼも、貴族の生活というものを正しく思い描くことができていない。エリーゼは、名門トラウシルト家で育ちこそしたけれど、ギルベルタを始めとした女主人たちが何に心を砕き、屋敷の諸々をどのように取り仕切って来たかは知らなかった。そのようなことはいずれ良家に嫁ぐ令嬢たちが教わることであって、使用人に混ざって立ち働く彼女が関心を持つべきことではなかったのだ。


 王女が紹介してくれたのは、使用人であると同時に教師とも呼ぶべき人たちでもあった。何かとものを知らないエリーゼたちに、人の使い方や命令のし方、頼もしく堂々と構える術を教えてくれるのだ。きっと呆れることも多いだろうに、彼ら彼女らは辛抱強く根気強く、未熟な主を諭してくれる。そんな人たちに「偉そうにする」のもなかなか難しいことではあるのだけれど──ヴォルフと共にあるため、彼を守るためには必要なことだと自分に言い聞かせて、エリーゼは日々に励んでいるところだった。




 住人が増えたのに伴って、屋敷も明るく賑やかになった。それぞれの職分によって、ある者は朝早くから、ある者は夜遅くまで働いてくれている。一方で元からいる者たちにとっては仕事の負担は減っているし、共に働く者同士でのやり取りも生まれているから、慌ただしいとか騒がしいということではなく、活気に満ちていると評するのが良いだろう。


 それでも、日没からの時間よりも日付までの時間の方が短いような、そんな深夜になると、灯りをともしたままの部屋は稀になる。夜の闇の中にほのかに輝く数少ない部屋のひとつ──ヴォルフの書斎に、エリーゼは足音を忍ばせて向かっていた。屋敷の中では既に眠りに就いた者ばかり、女主人として彼らの夢を妨げてはならないのだ。


「ヴォルフ──開けてくださる?」


 ごく抑えて尋ねた声でさえ、暗い廊下には思いのほかによく響いた。夫以外の者の耳にも届いてしまったのではないかと、居心地の悪い思いを味わったのはほんの一秒かそこらだろう。中から衣擦れの音が聞こえたかと思うと、書斎の扉はすぐに開けられ、エリーゼの愛する夫が顔を見せてくれたのだ。


「エリーゼ。すまないが、今日はまだ──」

「ええ、だから差し入れを持ってきたの。根を詰めては身体に良くないもの、少しは休憩しましょう?」


 夜更かしを咎められたのだと思ったのだろう、開口一番に断りの言葉を述べようとしたヴォルフに、エリーゼは笑って持って来たものを軽く掲げてみせた。彼女が扉を叩かなかったのは、銀の盆で両手を塞がれていたからだ。その上に乗っているのは燭台と、菓子を並べた皿。小さな空の杯がふたつ。それに、仄かに湯気を立ち上らせる銀のポットだった。


「良い香りだな。こんな時間に、焼き立てを……?」

「あいにく、お菓子は作り置きなの。この香りは飲み物の方よ。ショコラーデ──貴方は飲んだことがあるかしら」

「いや。聞いたことはあるが」


 書斎の中に入り、卓に盆を置きながら尋ねると、ヴォルフは首を振った。エリーゼが思った通りだった。ごく最近になって出回り始めたショコラーデは、高価かつ珍しい食材だ。ヴォルフなら望めば入手することはできただろうけれど、彼はきっと流行りのものにはさほど興味がないだろうと考えていたのだ。


「私も、実家で見たことがあるだけだったの。アポロニア様にそう言ったら届けさせてくださって。厨房でも、仕事が終わってから扱い方を試したかったということだから──だから、この時間に持ってこられたということなの」


 あえて贅沢を望まないのはエリーゼも同じ──でも、せっかくのいただきものを、夫とふたりきりで味わうのは幸せな時間になるだろう。ヴォルフには休憩が必要なのも事実だし。だからエリーゼは手際よく杯にショコラーデを満たした。銀のポットから注ぐ、とろみのある茶褐色の液体が、トラウシルト家の令嬢たちが揃って歓声を上げていた高級菓子だというのは不思議なことだ。


(そういえば、ちゃんと見るのは初めてね……)


 辛うじてその甘い香りは知っていても、トラウシルト家でのエリーゼの務めといえばせいぜいポットや杯を運ぶまで、だった。高価なショコラーデを主たちの注ぐ役目は、もっと信頼された侍女に任されるものであって、私生児風情はさっさと裏方に戻らなければならなかった。


「さあ、どうぞ」


 ヴォルフは机から立って、来客用の長椅子に腰を下ろしている。この屋敷に迎えられた夜に、エリーゼが座ったのと同じ場所だ。狼将軍と呼ばれる人と、ふたりきりで閉じ込められたようでどれほど恐ろしく思ったことだろう。それが今では、ふたりきりになる時間を待ちわびているのだから何が起きるか分からない。──何もかもに怯えていた彼女が、こんなに幸せになれるなんて。ヴォルフが、こんなに寛いだ笑みを見せるようになってくれたなんて。


「ああ。どんな味なのかな、楽しみだ」

「私もよ」


 ふたつの杯を満たすだけのわずかな量に、砂糖やクリームや香辛料がふんだんに使われている。非常に高価な飲み物だというのは間違いないだろうけど、いったい味の方はどのようなものなのか。乾杯の時のように、エリーゼとヴォルフは杯を合わせ、それぞれの口に運んだ。──そして、数秒の後に、ほう、とどちらからともなく小さな溜息が漏れ、夜の静寂を乱す。


「甘い……が、少し苦味もあるんだな。気分転換の目覚ましにはちょうど良い」

「ええ、頭をすっきりさせる……薬のような効果もあるのですって」


 甘く、濃厚で香り高い。初めて味わうショコラーデの味は、確かに珍重されるに相応しいものだった。味の邪魔をしないように、菓子は甘さを抑えたものを用意して良かったと思う。ショコラーデが冷めてしまわないうちに、ふたりは温かな甘さを堪能した。

 そして──空になった杯を机上に置きながら、ヴォルフはふと口を開く。


「エリーゼ。貴女は、火はもう怖くないのか」


 彼の目は、エリーゼが携えてきた燭台に注がれていた。彼女が燭台を手にするのも、何なら厨房が空いた隙を見計らって菓子を作るのも、これまでにも何度もあったことだ。の後でさえ。でも、ヴォルフとふたりきりの時には初めてだったのかもしれない。だから、彼はふと心配になったのだろう。炎の中に飛び込んで、ひどい傷を負った記憶が、妻をまだ苦しめてはいないのかと。


「火事にでも遭ったらどうかしら。でも、必要なことなら大丈夫。貴方にお菓子を焼けるし、お茶も淹れられるし、燭台を持って歩くのだって──できなくては、困ってしまうもの」


 エリーゼは軽く笑うと、燭台の蝋燭、その炎の揺らめきに指先をかざしてみせることさえした。光源のためのほんの小さな炎だから怖くない──とは、実は言い切れないのだけれど。もしも、この瞬間にも大きく炎が燃え上がって襲ってきたらどうしよう、なんて。埒もない不安と恐怖によって、背中を冷たい汗が流れてしまうのだけど。でも、そんな怯えはヴォルフに見せない方が良いだろう。身体の傷のことさえ、彼はとても気にして案じてくれているのだから。


「そうか……ありがとう。貴女はやはり、強いな」


 エリーゼの笑みで納得してくれたのかどうか、ヴォルフはしみじみと呟いて頷いてくれた。彼の言葉にやけに実感がこもっているような気がしてならなくて、今度はエリーゼの方が心配になる。


「……ヴォルフは、怖かったの? あの……戦場では、きっとよりも激しいのでしょうね。熱も、炎も、爆発も……」

「それこそ必要なことだったからな。将軍が先頭に立たないのでは格好がつかない」


 ヴォルフがこともなげに口にするのは、もう終わった過去の話ではない。これからも、きっと何度も起きることだ。彼がこれほど夜遅くまで書斎にこもっているのも、最新の戦術だとか武器だとか、周辺国の地理や情勢について学ぶためなのだ。これまでのように与えられた策に従うのではなく、彼自身の力で兵を率いなければならなくなるから。


「──そんな顔をしないでくれ。前のような危険な作戦は、もうないだろう。俺は、ことは、もうしない……」

「ヴォルフ……」


 頬を夫の掌で包まれて、エリーゼは顔を上げた。いつの間にか俯いてしまっていたらしい。ヴォルフがいずれはまた戦場に赴くということ──頭では分かっていても、現実のこととして思い浮かべるのは恐ろしく思ってしまう瞬間もあるのだ。


「必ず貴女のもとに帰ると言っただろう? 信じてくれ」

「信じているわ。疑った訳ではないの。ただ──」

「分かっている」


 言葉にできない漠とした不安は、ヴォルフの口づけによって摘み取られた。彼の唇に残ったショコラーデの甘さとほろ苦さが、エリーゼの心を溶かしてくれる。きっと、砂糖の甘さではなくて──彼の優しさが、暗い想いを解きほぐしてくれるのだ。


「……もう少しだけ、待っていてくれるか。そうしたら、一緒に休もう」

「ええ、朝までだって待っているわ。貴方を見ていれば時間なんて気にならないもの」


 だから、唇を離した時には、エリーゼはもう微笑むことができるようになっていた。彼女の夫は素敵な人だ。真剣な表情で本に目を落す姿も格好良くて、いつまでも見蕩れられるだろう。かつてとは違って、彼のそんな顔にもはや憂いや罪悪感の影は落ちていないのだから。


「朝まで貴女に触れないでいるのは俺が耐えられない。──すぐに、きりが良いところまで読んでしまうから」


 ヴォルフは悪戯っぽく微笑むと、エリーゼにもう一度口づけた。そして本を広げたままの机に戻る足取りはやけに急いでいるようで。本当に、待つ時間はほんの少しで済むのかもしれない。


(どちらでも良いわ……すぐでも、そうでなくても)


 夫の姿を見つめるのだって、夫と共に眠るのだって。どちらも、エリーゼにはこの上なく幸せで甘い時間なのだから。その甘さに比べれば、どんな菓子の味も霞んでしまうだろう。

 口づけの余韻に浸って、エリーゼはそっと唇を撫でた。



■□━━━━━・・・・‥‥……



 バレンタイン間近ということで、チョコレートを使ったエピソードにしてみました。本作はドイツ語ベースなのでSchokoladeショコラーデになりますね。

 本話をもって、改めて&本当に完結とさせていただきます。番外編までお読みいただき、誠にありがとうございました。カクヨムコン6に応募した作品でしたが、沢山の方にお読みいただき、大変嬉しく思っております。ご意見ご感想などありましたらお聞かせくださいますよう、どうぞよろしくお願いいたします。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

狼将軍の生贄の花嫁 悠井すみれ @Veilchen

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ