「……まさか」


 一瞬絶句したあと、ヴォルフはそっとアンドレアスから目を逸らした。顔の半面を覆う仮面、その隙間からほんのりと赤く染まった目元が、彼の指摘が正しかったことを物語る。臆病な小鳥か子兎のような夫人をあれほど懐かせているというのに、この幸せな男はいまだにその偉業のていどをちゃんと知らないらしい。


「相応しいというか……いや、俺もエリーゼもまだまだ下手だから」

「そうだ。ふたりともまだまだだ。だからこそ、妙に力が入っていると見ていられない」

「そうか……?」


 どこか不服げな相槌を打ちながら、ヴォルフはまた夫人を目で追っている。あんなに美しいのに何が見ていられないのだ、とでもいうかのように。


「君は男女の組で舞踏の良し悪しを見ることにも慣れていないのだろう。それは、君の奥方は美しいし、君よりは今のお相手の方がそれはステップには危なげがない」

「…………」


 ヴォルフが少し傷ついた気配を漂わせるのが実に新鮮だった。「狼将軍」は、残虐さと同時に勇猛さでも名を馳せていたものだ。危険な戦場でも退くことなく兵を鼓舞した逸話は、その気になればいくらでも聞こえて来た。だからこそアンドレアスの血を沸かせたのだろうに。出自に関わらず、軍の先頭に立って戦う者、怯えを見せることがない者は男に尊敬の念を抱かせるものであって。──こんな、恋を知ったばかりの少年のような表情を間近に見ることになるとは思ってもみなかった。


 幻滅した、などということではない。憧れた相手に、友人として近づくことができた幸運を喜んでいるだけだ。さらに言うなら、ヴォルフに教えてやれることがあるのが、ひどく嬉しい。


「だが、組として見るなら君らは夫婦で踊っている時が一番似合っていると思う。愛し合っているのだから当然なのだろうが」

「アンドレアス……どうした、急に」

「君が自信なさそうな顔をしているからだ。──ほら、奥方が空いたようだぞ」


 アンドレアスはヴォルフを突くと、夫人がこちらに歩み寄ってきているのに気付かせた。軽く息を弾ませた彼女は、舞踏と明るい音楽に酔っているのだろう、化粧によらず赤く染まった頬が愛らしかった。


「エリーゼ。楽しかったか?」

「ええ。でも、疲れてしまったから次の曲で最後にしようと思って」

「そうだな、無理をしない方が良い」


 夫人に応えたヴォルフの声も眼差しもとても優しかった。だが、同時にもどかしいほど気が利かないものでもあった。夫人もアンドレアスと同じことを感じたのだろう、形の良い唇がほんの少しだけ尖り、頬には一層の朱が上った。


「だから……最後は、貴方と」

「あ──」


 女性から誘わせる非礼にようやく気付いたのだろう、慌てて夫人の手を取ったヴォルフの姿を横に、アンドレアスとしては笑いをこらえるのに苦労させられた。あからさまに表情を緩めては、友人とはいえ気を悪くさせてしまうだろう。


 ヴォルフと組んだ夫人は、薔薇の微笑みを再び浮かべて踊り始め、先ほどのアンドレアスの言葉を裏付けた。──彼ら夫婦は、互いと踊っている時が一番似合う。うっとりとした眼差しで夫を見上げる夫人はほかのどのような表情より美しく愛らしいし、多くの男女が行き交う広間で、妻を庇いながら踊るヴォルフが獣などとは誰も思わないことだろう。


「まったく、本人たちに見せられないのが残念だな……」


 ひとり壁際に残ったアンドレアスは、微笑んで手元の酒杯を干した。友人が幸せな結婚をしたと確かめられて、酒精や音楽に頼らずともひどく良い気分だった。彼は決まった相手もいないことだし、今宵は幸せの余波というか余韻というか、お零れを味わって過ごそうかと思ったのだが──


「あら、貴方がひとりなんて珍しいわね、アンドレアス」

「アポロニア様……!」


 不意に、彼にとって声で呼びかけられてアンドレアスは小さく跳ねた。いつの間にか、アポロニア王女が彼の間近に忍び寄っていたのだ。地上に太陽が降りたかのように華やかな雰囲気を纏う方なのに、いったいどうやってそのようなことができたのかさっぱり分からない。


「王女殿下こそ、お相手する栄誉を誰もが待っているでしょうに」


 何しろ王女は若く溌溂として愛らしく、王位を狙っての駆け引きの材料とするために婚約者もまだいない。舞踏の相手を口実に近づこうとする者は、将軍夫妻以上に多いだろうに。


「そうね、その栄誉とやら、ひと通り与えてあげたわ。二巡目を望む図々しい人はさすがにいないでしょう」


 悪戯っぽく微笑み、小首を傾げて彼を見上げる王女が何を仄めかしているのか──にわかには、信じがたかったが。だが、夫人に対して驚くべき鈍感さを見せたヴォルフの姿を目撃したばかりだったから、その轍を踏んではならない、と思うことができた。


「──僭越ですが、私はまだその栄誉に浴していません」

「あら、そうだったかしら?」


 アンドレアスが恐る恐る手を差し伸べると、アポロニアは驚くほど素早くそれに応じた。常に優雅であるべき王女にしては、少々浮ついているかもしれない。あるいは、彼の方こそ浮ついてまともな判断ができないのかもしれないが。どちらなのか彼自身にも分からないまま、アンドレアスは王女を腕の中に収めて踊り始めていた。


 将軍夫人とは違って、アポロニアはもちろん舞踏の名手だ。様々な身長や体格の相手と踊るのにも慣れている。アンドレアスが踊るのにぴたりと呼吸を合わせられるのも、もちろん相手がだから、という訳ではないはずだ。


 ステップに従ってくるくると回るアンドレアスの視界の隅に、将軍夫妻が入り、そして過ぎていった。目まぐるしい回転の中での一瞬のことでもはっきりと分かる。彼らは最高の相手を得たのだと。


 王女の伴侶などと大それたことは望まない。せめて側近や友人としては良き存在であれるように──そう願って、アンドレアスは今はアポロニアを独占する幸福を噛み締めた。

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