本性を見せる

 広間から連れ出されたエリーゼは、廊下をしばし歩くと小さな部屋に通された。先ほどまでヴォルフといた控室と似たような広さと調度──でも、一緒にいるのは彼ではない。夫以外の男性とふたりきりになる事態も恐ろしいけれど、マクシミリアン王子に囁かれた名前の方も怖い。


(大奥様が、私に何の御用なの……)


 ヴォルフに関わること、そして、彼のためにならないことだろうということだけは想像がつく。何か、悪いことにエリーゼを利用しようというのだろう。彼女が従うことを疑いもせず、当然のように命令を下してくるのだろう。

 ギルベルタの、エリーゼを見下して貫くような視線を思い出すと、怖い。逃げられないようにマクシミリアン王子に腰を抱かれていてなお、足が竦んで動けなくなりそうなほど。まるで、かつてのエリーゼに戻ってしまったかのような。


(でも、それではいけない……!)


 叱責や杖で打たれるのがもっとも恐ろしいことではないと、エリーゼは既に知っている。淡々と、穏やかな顔で復讐者の刃を受けようとしたヴォルフを見た時こそ、彼女の人生で一番恐ろしい瞬間だった。彼の命が陰謀で潰えてしまうことを思えば、ギルベルタの勘気も、コンラートの暴力も、王子の陰謀でさえ何ほどということはない。

 怯んではいけない。自分に言い聞かせて、エリーゼは小部屋の中で王子を待っていたらしいギルベルタを直視しようと努めた。トラウシルト家にあっては女王のように振舞う女傑、今宵の装いも一分の隙もなく気品と威厳に満ちている。それでも、ただの年老いた女性なのだ。そして、ヴォルフの敵だ。敵を前にして、縮こまっている訳にはいかない。エリーゼは、戦うと心を決めたのだから。


「お待たせしたね、ヒルシェンホルン夫人」

「貴い御身を煩わせるなど、申し訳ないことでございました」

「貴女相手では、この方は怯えて逃げてしまいそうだったからね。役得でもあったから構わないよ」


 さすがに王子相手とあって、「あの」ギルベルタも慇懃な言葉遣いと態度を保っている。とはいえ、エリーゼを見る眼差しは刃のように鋭く、彼女を切り刻もうとしているかのようだった。でも、かつてのように頭を下げてやり過ごすようなことはもうしない。エリーゼは、しっかりと顔を上げて、ギルベルタの表情を観察することができている。あくまでも対等に、へりくだり過ぎることなく。夫ある女が、実家の者に再会した、その程度の態度で臨むのだ。


「──ご無沙汰をしております、ヒルシェンホルン夫人」

「な──」


 大奥様と、ではなく、ギルベルタを初めて称号で呼ぶのに、声が震えないようにするのは一大事だった。口の中も乾き切って、無様に舌がくっつきそうになってしまったほど。それでも、ギルベルタを絶句させることができたのは、確かにエリーゼの「戦果」と呼んで良いだろう。「奇襲」の成功は、彼女に微笑む余裕さえ与えてくれる。


「本来ならば、ご挨拶すべきでしたのに。王太子殿下のお招きとはいえ、失礼をしてしまって申し訳ございません」


 エリーゼは、ヴォルフリート将軍の妻としてこの場にいる。夫がいないのは王子の強引な招きのせいだ。丁寧な挨拶と見せて、切り返すように視線に力を込めて背筋を正す──と、マクシミリアン王子は軽やかに声を立てて笑った。


「貴女の驚く顔は貴重だな、夫人」

「驚くなどと──殿下の御前での無作法に、言葉が出なかっただけでございます」

「それを驚いたというのでは?」

「いいえ!」


 揶揄うように首を傾げた王太子に、ギルベルタは杖の頭を苛立たしげに指で叩いた。王子の前で、音高く床を打つようなことはしなかったけれど。もしも彼がいなければ、トラウシルト家でしたようにエリーゼを打ち据えていたに違いない。


「この者は大変な思い違いをしております。将軍の妻などとはとんでもない、獣を宥めるための生贄に過ぎないというのに……! 何を吹き込まれたのかは存じませんが、身の程を弁えないこと甚だしい! 我が家の恥でございます」

「だが、役に立った。貴女のご自慢の令嬢たちよりも、よほど」


 眉を吊り上げたギルベルタに軽く手を振ると、マクシミリアン王子はエリーゼに微笑みかけた。椅子に座るようにと促されたのは分かるけれど──コンラートのように甘く美しい微笑を、信じることなどできるはずもない。


「お言葉ですが、殿下」


 だからエリーゼは、腰を下ろすことはおろか、微笑み返すことさえしなかった。今の王子の言葉は、ヴォルフを陥れるためにエリーゼを利用しようとしていると告白したのも同じことだ。何を命じようとしているのだとしても、絶対に頷いてなどやらないのだ。


「私風情がお役に立てることなどございません。たとえ命じられたとしても、夫に害を及ぼすことに加担する訳には参りませんもの」

「無礼なだけでなく愚かな娘が……! お前が口を開く必要はない。お前の考えなどないに等しいのだから」


 かつて、コンラートの葬儀の場でエリーゼ自身が口にしたことを、ギルベルタは繰り返した。恐らくあてつけるつもりなどなく、心の底から思ってのことだろう。違う、と反駁しようとしても、エリーゼが息を吸う間にマクシミリアンが訳知り顔で口を挟んでくる。


「私は役に『立った』と言っただろう? 貴女は本当に何もする必要がなかった。ただ、あの獣の傍に、奴を憎む女性がいる形にできれば良かった」

「私は、あの方を憎んでなどおりません!」


 この部屋にいる方たちの言うことひとつひとつを、正していかなければならないようだった。ギルベルタとマクシミリアンとに、代わる代わる抗議するのに忙しくて、憤りのために頭に血が上って、エリーゼは眩暈を感じるほどだ。


「それは、お前が冷たく情のない娘だからというだけだ! コンラートを殺されたからには、あの男を憎まねばならぬ」


 それでも、コンラートの名を聞くと、冬の寒空の下に薄着で追い出されたような心地になった。彼にされたこと、言われた言葉、抱いた思い──人の死を切に願い、そして事実彼が悲惨な死を遂げたこと。いずれも恐ろしく、エリーゼの呼吸を乱れさせる。よろめきそうになって、でも、エリーゼは踏みとどまった。良い機会だ、と思うしかない。


(私は、コンラート様を愛していない……!)


 エリーゼにも心があって、考えもするのだとギルベルタに伝えるのだ。コンラートが、一族の者が思うような美しく朗らかなだけの青年ではなかったことも。ギルベルタでさえ、何もかもを見通すことはできないのだ。コンラートを見誤っていたのだとしたら──エリーゼだって、この老貴婦人が思うような小娘ではない。それを、突きつけたかった。


「コンラート様は……私に、とても口にできないようなことをなさいました。あの方が発たれる、前日の夜のことです!」


 マクシミリアンの耳を憚って、さすがに声は低く落としたけれど。それでも、聞き取れなかったということはないだろう。ギルベルタの眉がわずかに動いたことで、エリーゼは意図が伝わったことを知った。怒りや苛立ちだけでない、戸惑いと動揺を引き出すことができたのを見て、エリーゼの声にも力が増す。


「獣というならヴォルフリート将軍よりもあの方でした。私は……あの方が戻らないことをずっとずっと祈っていました!」


 ギルベルタたちに命じられるまま、彼の無事を祈る振りで。そう、その意味でも、誰もエリーゼの本性を見通すことができなかったのだ。

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