人形は糸を断つ

「私は……コンラート様が死んで嬉しかった! 全然、まったく! 悲しくなんてなかった!」


 エリーゼが叫ぶたびに、ギルベルタの顔は紅潮しては青褪め、また赤くなる。忙しく顔色が変わり最後にはどす黒くなる様はいっそ愉快だとさえ思えた。


「何ということを……!」


 ギルベルタが非難の目を向けてくるのは、正しい。エリーゼはちゃんとコンラートに抗うべきだったのだ。あの夜の前から、曖昧に微笑んでやり過ごそうとするのではなく、あの方と対等な夫婦になろうとして良かったのだ。コンラートも、多分エリーゼに心があるとは知らなかったのだから。──でも、それはもう過ぎたこと。エリーゼは自らの力でギルベルタの糸を断ち切ることはできなかった。彼女がやっと人として生き始めたのは、ヴォルフに会ってから。彼女に初めて真っ直ぐに向き合い、彼女が初めて心を許せたのはヴォルフだったのだから。だからエリーゼは高らかに誇らかに宣言する。


「私はヴォルフリート将軍の妻です。私をコンラート様から救ってくださった方のために、生きると決めました!」

「娼婦風情が……!」


 ギルベルタが唇を歪めて怒鳴った。それこそ狼が牙を剥くような形相は、王子が臨席していることを忘れたのだろう。杖の尖った先が宙に上がり、剣のようにエリーゼを襲った。脇腹を突いて、腕を叩いた。


「お前など、そもそも無料の娼婦でしかなかったのだ! コンラートが道を外さぬよう、欲望を受け止める肉であれば! その役目を求められたのをありがたく思いこそすれ、恨むとは……見当違いも甚だしい!」

「大奥様……!」


 杖の先と、ギルベルタの言葉がエリーゼの胸を抉った。老女の枯れた腕とはいえ、怒りに任せて思い切り杖を振るわれた肉体の痛みに、女として耐え難い苦痛と屈辱を顧みられなかった心の痛みが重なる。ギルベルタは、エリーゼの言葉など何ひとつ聞き入れるつもりはないのだ。あくまでも間違っているのはエリーゼであって、ギルベルタは無謬でなければならないのだ。いかに気丈に隙なく卒なく振舞って、はっきりと思いを述べたとしても、ギルベルタにしてみれば犬猫が口をきいた程度のことでしかないのだ。


「お前は本当に……恩知らずで、恥知らずで……!」

「それくらいにしたらどうかな、ヒルシェンホルン夫人。綺麗な方に可哀想なことを」


 マクシミリアン王子は、特段にエリーゼを哀れんだ訳ではないだろう。ギルベルタを制したのは言葉でだけ、それも、杖が何度も彼女を打ち据えてからのことだったから。声の調子も相変わらずどこか芝居でも眺めているかのように愉しげで、エリーゼを案じる思いは欠片も聞き取ることができなかった。兄を王として戴きたくないと語ったアポロニアの言葉が思い出された。


「弱々しげな見た目で同情を引くのがこの類の者の手管でございます。殿下までも毒されるとは嘆かわしいこと……!」


 ギルベルタは、王子の冷淡さを意に介していないようだった。それだけエリーゼへの憤りが強いのだろうか、杖の先が絨毯を突いて、細かな毛を舞い上げた。語調こそ少しばかりは収まったものの、老女の裡に荒れ狂う激情は、全く静まっていないのだろう。とはいえ、エリーゼも言われるがままに畏まるつもりは全くない。これくらいでは、彼女の心も身体も屈したりはしないのだ。

 ギルベルタとエリーゼは、睨み合うように真っ直ぐに視線を交わし合う。それ自体が不敬だとでもいうように、老女の色の薄い唇が歪んだ。


「自らを律することができぬのならば、私が正してやらねばならぬ。本来そうであるべきように──コンラートの、仇を討つのだ」

「私は、そのようなこと──」


 しない、と。言い切ることは許されなかった。エリーゼの声を遮って、轟音が響いたのだ。何かが爆発する音が──よりにもよって王宮の只中で!


「始まったな」


 ごく冷静に、微笑さえ浮かべて呟いたマクシミリアン王子を、エリーゼは睨んだ。


「何事か、ご存じなのですか」

「ヴォルフリート将軍を名乗る獣が、我が妹アポロニア王女を手にかけんと刺客を放ったのだ。王女を妻に、などと──大それた望みだったというのに、叶えられなかったのがよほど悔しかったらしい」

「な──」


 度を越えた怒りは、言葉を忘れさせ舌を凍らせるのだと、エリーゼは初めて知った。ギルベルタの杖で打たれた痛みさえ、一瞬にして感じ取れなくなってしまっている


「しかし、安心なさると良い」。


 絶句するエリーゼの顎を捕らえ、マクシミリアン王子は笑う。耳元に唇を寄せて、囁く。指先の感触も耳に感じる吐息も、蛇が這うようにおぞましい。


「エリーゼ嬢、『貴女が事前に知らせてくれたお陰で』妹を守ることができたのだから。今の音は、陰謀の失敗に焦った獣めが、得意の仕掛けを使ったのだろう」


 マクシミリアン王子の声は平坦で、芝居の台詞をなぞっているかのようだった。事実、彼はあらかじめ決めていたことを読み上げているだけなのだろう。アポロニア王女がヴォルフの屋敷を訪れていたのが、兄王子の耳にも入ったのか──いつからかは分からないけれど、ヴォルフリート将軍を夜会に引っ張り出すという王女の動きは逆手に取られて利用されたのだ。


「私は何もする必要がない、とは……そういうことですか……!」


 先ほど言われた言葉をやっと理解して、エリーゼは呻いた。


 コンラートの仇を討つ、というのも。エリーゼが何をしようと何を考えようと、あるいは何もせず何も考えなくても。王子たちの企みには何ら支障がなかったのだ。エリーゼが今日の夜会に出席するのはあらかじめ知られていたこと、王子が誘えば応じざるを得ないのも分かり切ったこと。夜会が始まった時には、全てが動き始めていたのだ。

 エリーゼの狼狽ぶりを見て、ギルベルタは機嫌を直して軽やかに嗤う。


「お前は命じられたことさえまともにできそうにない。だからごく簡単な役割にしてやったのだ」

「ヴォルフに……将軍に、何をなさったのですか!? あの方はご無事なのですか!?」


 マクシミリアン王子と、ギルベルタと。代わる代わる睨んで問い詰めると、王子はこともなげに肩を竦めた。


「あの男は、かつても『やり過ぎて』『失敗した』のだろう。あの醜い傷痕……! 今度こそ命を落としたとしても、不思議ではない」

「あの方がやったことではありません! 前の時も、今も!」


 マクシミリアン王子は、ヴォルフを自らが仕掛けた爆薬によって死ぬような愚か者として葬ろうとしているのだ。彼に火傷の痕を刻んだ炎は、彼以外の者が操っていたというのに。ヴォルフリート将軍を作り上げたのと同じ手管で、王子たちはその偶像を叩き壊そうというのだ。もう用がなくなったから。王子の企みを知る者は、この地上にいてはいけないから。


 杖で打たれた痛みも忘れて、憤りに呼吸を荒げるエリーゼを見下ろして、マクシミリアン王子は痛ましげに眉を寄せた。


「貴女は、あの男に騙されているようだ。人は、自分に都合の良いことだけを言うものだからな」

「ええ、今の殿下のように!」


 確かにエリーゼは最初、この方の言葉を信じ込んでいた。ヴォルフリート将軍は恐ろしい獣で、分不相応な野心を抱いている危険な人物だと。そして、ヴォルフに対しても──直接ではなくても──きっと同じことをしたのだ。残虐な策は、国のために必要なこと、誰かがやらなければいけないことだ、と。だからこそ、ヴォルフは狼の仮面をつけ続けた。罪悪感に苛まれ、裁きを待ち望みながらも。


 人の心を操って、功績だけを掠めとるのがマクシミリアン王子のやり方だとしたら、確かに未来の王として崇めることなどできそうにない。


「お前──」


 敵意も露わに王子を睨みつけるエリーゼに、ギルベルタが叱責の杖を振り上げかけた、その時だった。扉が勢いよく開き、兵士と思しき男がマクシミリアンの前に跪いた。


「殿下! こちらにおられましたか!」

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