反撃
飛び込んで来た兵士を見下ろすマクシミリアン王子の表情は、怜悧な王太子そのものだった。
「何があった。報告せよ」
エリーゼを
「申し訳ございません。夜会の客に、暴徒が紛れ込んでおりました。王女殿下が狙われ、庇った者には怪我をした者も出ましたが──幸いなことに、王女殿下は傷ひとつなく……」
「その暴徒とやらは?」
「王女殿下の大事とあって、手加減をする余裕がございませんでした。申し訳ございません」
「いや、妹が無事なら何より。よくやってくれた」
マクシミリアン王子は、兵士の傍らに膝を突くとその肩を軽く叩いて労った。寛容で、兵士想いで妹想いの王子にしか見えない。でも、兵士が告げた言葉を聞いて、エリーゼは悲鳴のような詰問の声を上げずにはいられなかった。
「──ご自身の手の者を、見殺しにされたのですか……!?」
「殿下、この方は──」
兵士の疑問に、マクシミリアン王子はほんの一瞬だけ顔を顰めた。エリーゼが余計なことを言ったからだ。けれど本当に一瞬だけのこと、王子はすぐに真剣な表情を繕うと、兵士の顔を間近に覗き込む。
「今回の件の黒幕はヴォルフリート将軍だ。この方はそれを打ち明けに来てくれたのだ。少々動転しておられるが──早く行け。奴を逃がしてはならぬ!」
「ははっ」
「嘘よ! あの方に何もしないで! ヴォルフは悪くない!」
激高して叫ぶエリーゼに戸惑いと哀れみの一瞥をくれてから、兵士は入室した時と同じ勢いで退出していった。ヴォルフを捕らえるか、もっとひどいことをしに行くのだ。
咄嗟に、兵士の後を追って駆け出そうとするけれど──
「落ち着きなさい。貴女が行ってもできることはない」
腕を掴まれて、止められた。次いで頬に走った衝撃に、平手で打たれたのだと知る。じわじわと這い上がる痛みと熱さは、けれどエリーゼを怯ませはしない。マクシミリアン王子は、口封じのために自らの配下の命を奪わせたのだ。目的のために手段を選ばない──悪名高いヴォルフリート将軍の策略は、この方が考えたものだと、今なら確信できる。
「目的のために民の命さえ踏みにじる……それが、王になる方のなさることですか!」
「私は何も知らないのだが……」
マクシミリアン王子は、無辜の罪に戸惑っているとしか思えない表情で、首を傾げた。エリーゼの腕を、痛いほどに掴んだままで。
「だが、たとえ将軍が無実だとしても──例えばヴォルフリート将軍を憎む者は多いのは貴女もご存知だろう? 彼に故郷や家族を焼かれた者が、あの獣が王女の庇護を得てのさばり続けると知ったら、自らの権勢のために、獣を利用しようとする者がいると知ったら……? その者も許せないと思うかもしれない。そこまでは、私が責任を負えることではない」
「そうだとしたら、殿下がそのように信じ込ませたのでしょう。私の命を狙った人のように……!」
弟をヴォルフリート将軍に殺された恨みを、エリーゼに向けた男のことだ。一介の平民が将軍の屋敷に辿り着くことができたことは不可解で、黒幕がいるだろうと思われていた。ヴォルフは最初、アポロニアやヴァイデンラント伯爵を疑っていたけれど、王女はそれを否定している。疑いを招いて評判を下げるようなことはしない、と。ならば、王女に悪い噂が立って得をする者が「本当の」黒幕なのだろう。マクシミリアン王子は、あの日の襲撃を知っていると、たった今仄めかしたのだから。
「さあ、何のことだか」
エリーゼがあの時殺されていれば、ギルベルタもきっと満足したのだろう。折角与えた妻をみすみす死なせたと、ヴォルフを責める口実にできたのだから。そうしてこそコンラートの仇を討ったことになると。本当に、エリーゼは都合の良い人形でしかなかったのだ。──でも、もう違う。
「離してください。夫のところに行かなければなりません」
「どうやって? 奴は、爆薬の隠し場所に逃げ込んで、そして焦って手元を狂わせた──と、世間には知らせることになる。先ほどの爆音を聞いただろう? あの男は既に瓦礫の下だ」
マクシミリアン王子は、事実と企みを混ぜ合わせて語っている。既に起きたこと、これから起きること、そうあるべきだと期待されていることも、曖昧に混沌として境目が判じ難い。それをどうにか見極めようと、エリーゼは薄く微笑んだ王子の顔に目を凝らした。
(全てが終わったのではないはず……アポロニア様もいらっしゃる……!)
「それでも、妻は夫と共にあるものです」
「愚かな……!」
視界の端で、ギルベルタが眉を吊り上げたのが分かった。コンラートに操を立てるのは嫌でも、ヴォルフが相手ならば躊躇わない。エリーゼの態度は、この老女には理解しがたいものなのだろう。そして多分、マクシミリアン王子にも。
「本当に動転されているのだな。訳の分からないことを言う。……慰めて差し上げても? ヒルシェンホルン夫人?」
身体を引き寄せられ、完全にマクシミリアン王子の腕の中に収まる格好になって、そして背から腰を撫で下ろされて。エリーゼは彼が言うところの「慰め」の意味を悟った。
「──止めてください!」
「そのような者で役に立つことがあるならば、ご随意に」
身体を強張らせ、引き攣った声を上げたエリーゼと対照的に、ギルベルタの声はごく平静だった。エリーゼの肉体を、夫でもない男に与える権限があると疑ってもいないのだ。
「これは、妹のドレスだね? 見覚えがある……興が削がれることこの上ないな。すぐに着替えた方が良い」
「やめ──っ」
エリーゼの脚の線を探るかのように、マクシミリアン王子の指はドレスの襞に沈み込む。おぞましさに彼女の肌は粟立ち、怒りと──認めたくはないけれど──恐怖によって、喉が詰まる。やはり、この方はコンラートに似ている。
(嫌……このままでは、駄目……!)
男の人の力は強く、身体は重い。エリーゼの細腕では、どんなに抗っても押さえつけられるだけだ。コンラートの時に、そうと教え込まれた。忌まわしい記憶は身体にも刻まれているのか、背中は嫌な汗で濡れ始めている。手足も、震えて言うことを聞いてくれそうにない。
「貴女と貴女の一族の忠誠には篤く報いよう」
「臣下として当然のことをしたまででございます」
まともに動けそうにない、けれど──今しか、ない。マクシミリアン王子の注意がギルベルタに向けられた、この瞬間をおいてほかに、エリーゼが逃れる機会はない。錆びついたように固まってしまった身体に、エリーゼは強い意思で持って動け、と命じた。
「離して……っ!」
舌と、それに、腕も応えてくれた。叫びながら、マクシミリアン王子の胸を両手で突く。足を踏ん張りながら身体を翻して、反動を思い切り使って跳ぶ。
(やった、動けた……!)
コンラートの時はできなかったこと、全力で、諦めずに抗うことを、今こそしなくては。
「な……!?」
エリーゼが跳んだ先にいるのは、ギルベルタだ。年老いた彼女では、エリーゼと、ドレスの布の質量を避け切ることはできない。エリーゼともろともに、床に倒れる。
「無駄なことを……!」
床に這うエリーゼには、マクシミリアン王子の声はいまや高みから降るかのようだ。初めて怒りを露わにし、大股で──恐らくは一歩か二歩で、エリーゼを再び捕らえてしまう。だから、その前に──
「はあっ!」
ギルベルタの手から杖を奪い、振り回す。マクシミリアン王子の腕が届く前に。何度か鈍い感触が伝わり、呻き声が聞こえる。それでも更に何度か、訳が分からず、目に入るものをきちんと見ることができないままに。硬い杖で、召使を罰するように、高貴な方を打ち据える。そして──
「ま、待て──」
ギルベルタの制止を背に聞きながら、床に身体を丸める王子を目の端に見ながら、エリーゼは部屋の外へと駆け出した。
ギルベルタが狼狽える声を聞くのは初めてだった。乱暴なことをするのも。そんなことができる自分に驚きつつ──同時に、心の片隅では確かな高揚と満足も覚えていた。エリーゼは抵抗できたのだ。きっと、もっとずっと前にやっていても良かったのだ。
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