宴は途絶えて

「その女を捕らえろ!」


 転がるように廊下に出たエリーゼの背を、マクシミリアン王子の声が追いかける。王子の声に答えて参じたらしい、従者だか兵だかの声も。


「殿下、これはどういう……!?」

「あのご婦人が、何か?」

「ヴォルフリート将軍の妻だ! 夫を逃がそうとしての悪あがきだ。早く──」

「将軍閣下が、何をなさったと仰るのですか!?」


 息を弾ませて駆けながら、漏れ聞こえるやり取りと王子の罵声に、エリーゼはほんの少しだけ笑う。マクシミリアン王子は策に溺れ過ぎたのだ。それこそ動転しているのもあるのだろうけれど。自らが考えたはかりごとを、誰もが知っているかのように思ってしまったのだ。


 ヴォルフリート将軍が王女襲撃の黒幕であり、王宮を爆破した犯人である、と──世間に明らかになるのは、せめてこの夜が明けてから、詳しい「調査」の結果によって、なのだろうに。エリーゼさえ抑えておけば、彼女が告白したことだと言い張ることもできたかもしれないけれど。先ほど王子が直々に言葉を与えた兵や、王子の企みに参画した者たちならともかく、その辺の従者だかを捕まえて命じても、すぐに話が通じないのは当然だった。


(だから私を捕らえようとしている……だから捕まる訳にはいかない……!)


 王子の混乱のお陰で、数秒は稼ぐことができたはずだ。重いドレスも高い踵の靴も、走り辛いことこの上ないけれど。せめて、広間まで戻れば人目もあるはず。何も知らない貴顕の前で、エリーゼをゆえなく取り押さえることはできないはずだ。


(アポロニア様もいらっしゃるはず……!)


 襲われたという王女のことを思うと、エリーゼの胸は息苦しさのためだけでなく痛んだ。王子に報告されたように、本当にあの方には傷ひとつないのか。ヴォルフが差し向けた刺客だなどと、誤解されてはいないか。今の状況は、ヴォルフの居場所は──あの方に、助けを求めることはできるだろうか。


「奥様、失礼を──王子殿下のお召しです」

「駄目、来ないで……!」


 それでも、ドレスを引きずって走る──つもりの──エリーゼはいかにものろい。広間の扉は目前だというのに、背後から呼びかける声は思った以上に近かった。


「お願──」


 握りしめたままだったギルベルタの杖を、悪いと思いながら、無駄とは思いながら振り回さなければならないか、と覚悟しかけた時だった。広間の扉が開き、そこから伸びた腕がエリーゼの身体をしっかりと抱え込んだ。


「悪いが、この方には王女殿下が先に御用がある」

「──伯爵様……!」


 エリーゼが上げかけた悲鳴は、驚きの声に変わった。エリーゼを抱えた人の声、腕の中から見上げる顔も、よく知っている人の──ヴァイデンラント伯爵のものだったのだ。王女に近しい人の無事の姿に安堵するうちに、伯爵は、王子の追手から隠すようにエリーゼの前に立ちはだかっていた。でも、もちろん、相手も簡単にすぐに引き下がりはしない。


「ですが、マクシミリアン殿下には何と──」

「アポロニア様のお言葉だと伝えるが良い。ご友人の無事を、早くご自身の目で確かめたいとのお望みだ」

「……は、はい……!」


 追手は、何か言いたげではあった。空手で戻った時の、王子の叱責を恐れてもいるのだろう。でも、結局は頷くと、エリーゼたちに背を向けて去った。ひとまずの安全を知って安堵する暇もなく、伯爵はエリーゼに向き直る。恐ろしいほど真剣な緑の目が、貫くようにエリーゼを睨んでいた。右の上腕は、白い包帯に覆われている。アポロニア王女を守って戦った証だろうか。戦いの確かな痕跡を目の当たりにして、エリーゼの肌が粟立った。そこへ、伯爵の唇から鋭い声が発せられる。


「ヴォルフは一緒ではなかったのですか。あいつは、貴女を探しに広間を出たのですよ」

「いいえ……私は、ずっと王子殿下と一緒で、彼のことは……」


 詰問のような問いかけに怯み、相手の求める情報を知らない申し訳なさに首を振り──そして、エリーゼは気付く。問われているだけでは、いけない。彼女の方こそ、聞きたいことが山ほどあるのだ。


「何が起きているのですか!? アポロニア様は、本当にご無事なのですね!?」

「ええ。……今のところは、ですが」

「そんな──」


 問いを重ねようと口を開いたエリーゼに構わず、伯爵は彼女の腕を取った。マクシミリアン王子と違って、庇ってくれる意図を感じるから、どうにか身体を強張らせずに済んだ。


「貴女のことも探していました。声が聞こえて、良かった。──とにかく、来てください」


 それにもちろん、言われたことに否やはない。エリーゼはヴァイデンラント伯爵と共に、再び広間の扉を潜った。




 広間からは、先ほどまでの賑わいが消え失せていた。華やかな衣装の貴婦人たちはおろか、楽団の姿もなく、趣向を凝らした料理も、それを載せた食器の数々も床に散らばっている。しかも、それらの幾らかは赤黒い水溜りに沈み、汚れているのだ。言いようのない生臭い臭いでも分かる、血の痕だ。アポロニア王女を狙った刺客は、全て打ち取られたという。つまりは、誰かが確かにこの場で死んだのだ。ヴォルフをさいなむ戦場の悲惨にはほど遠いのだろうけど、間近に見る死の気配は、重くエリーゼにまとわりつくようだった。


 貴族たちに代わって、煌びやかな装飾の広間には兵士たちがたむろしている。王女の護衛に駆け付けたにしては人数が多いし、雰囲気も物々しい。ヴォルフを捕らえるために集められた兵だと思うと、うるさいほど心臓が高鳴って息が詰まりそうだった。


「エリーゼ! 無事だったのね!」


 張り詰めた空気を裂くように、高い声が響いた。伯爵と同様に聞き馴染みがあって、エリーゼの神経をほんの少しだけ和らげてくれる、力強い声だ。


「アポロニア様も……!」


 エリーゼが答えると同時に、良い香りが飛び込んできた、と思った。彼女の姿を見て駆けてきたらしいアポロニア王女が、その勢いのままに抱きついてきたのだ。温かく柔らかい身体に王女の無事をやっと実感できて、エリーゼはようやく息を吐く。欲しくて仕方なかった情報も、教えていただけることができるだろう。


「何があったのですか。あの、恐ろしい音が聞こえて……!」

「武器庫が爆発したそうね。幸いに人気の少ないところだから良いけれど、火の手が上がったり、また爆発があったりしたら一大事。だからほとんどの者には帰ってもらったわ」


 言いながら、アポロニアは兵たちをかき分けるようにして壁際に設えられた長椅子にエリーゼを導いた。そのドレスに、先ほどまではなかったどす黒い色の染みができている。王女が返り血を浴びるほどの近くにまで、争いが迫ったのだ。それを気付かされて、エリーゼの心臓がまた一段と重く沈む。そんな彼女を座らせて、手を握りしめて──高貴な王女は深く頭を垂れた。


「エリーゼ、ごめんなさい。私が迂闊だったわ。私がヴォルフリート将軍と手を組んだのも、お兄様には知られていたようなの。きっと、私への牽制のつもりでこんな大掛かりなことを……!」

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