忠誠の誓い
「妻に何をなさいましたか」
ヴォルフの背に庇われる格好になって、エリーゼの頬は熱くなる。それに、今、妻と呼んでくれた。結婚するかもしれなかった王女殿下の目の前で! 王女や伯爵の真意を質さなければいけないのは分かっているけれど──でも、はしたないけれど、喜ばずにはいられなかった。
「何も。ダンスを教えてあげただけよ。ねえ?」
「は、はい」
アポロニア王女の揶揄うような視線も、くすぐったくて堪らなかった。もちろん、この方が現れた理由が少女めいた好奇心だけのはずはありえないのだけど。親しげな態度を、簡単に信じてはいけないのだけど。でも、この方は味方になってくれるのかもしれない。そんな一筋の希望が、エリーゼの胸を照らしてくれた。
元通りに椅子とテーブルを並べ直した応接室は、かつてなく高貴な客人を迎えることになった。王女と聞かされて、茶を淹れるミアの手もさすがに震えていた。伯爵を睨むように見つめるヴォルフがいなかったら、エリーゼも隠れたいと思っていただろう。
「アポロニア様がどうしてもと仰られれば、断れない。分かるだろう」
「だが、せめて俺がいる時にして欲しかった。先日のことがあったばかりで──」
「でも、私はエリーゼに何もしなかった。これで、私を疑うのは止めてもらえるかしら」
アポロニアが優雅に菓子を口を運ぶのは、とても不思議な光景だった。だって、ミアと一緒にその菓子を焼いたのはエリーゼなのだから。将軍や伯爵に出すのだと思っただけでも恐縮したというのに、本当に、しばらく前には予想もしなかったことばかりが続いている。
「エリーゼさえいなければ、なんて……そんな短絡的なことはしないわ。どうせ私が疑われることになるのだもの」
「王女殿下が手を回したことではない、と? 失礼ながら、お人柄を存じ上げないものですから」
「でも、お兄様のお人柄は知ってるでしょう。あの方、そういうのが好きなのよ。人を上手く操って、争わせたり競わせたり。王とはそういうものだと思っていらっしゃるの。貴方にも心当たりがあるでしょう、将軍?」
疑わしげに目を細めるヴォルフと、兄君を思い浮かべてか軽く眉を寄せたアポロニアと。ふたりを交互に見比べながら、エリーゼは必死に会話についていこうと頭を働かせていた。
襲撃の時、ヴォルフが王女の名誉に関わること、と言っていた意味がやっと分かった。彼は、伯爵の背後にいるアポロニアが刺客を差し向けたのではないか、と考えていたのだ。ヴォルフリート将軍の妻の座を空けるために。でも、それが策だとしたら確かに安直だ。エリーゼが殺された直後に王女と将軍が再婚したとしたら、醜聞にもなっていたかもしれない。
(では、王子様がそう仕向けようとして……?)
もしそうだとしたら──国を負う立場にある方がすることとは思えない。妹姫を追い詰めるために、女に刃を向けるのだなんて。でも、それなら名もない兵に、残酷な作戦の責を負わせるのも同じことだ。ヴォルフの言葉を信じるなら、マクシミリアン王太子の性根は貴公子の麗貌にまったく相応しくない。薔薇のようだと思った王子の印象は、エリーゼの脳裏で枯れたようにどす黒く陰っていく。
「……はい。あの方がされたことでも驚きはしません」
「そう。分かってくれて良かった」
不本意そうに唇を噛んでから、ヴォルフも苦々しげに頷いた。多分、人柄を掴み切れない王女に従うことへの躊躇いがその表情をさせたのだろう。でも、生き延びるためにそうしようと、ふたりで話し合って決めたことだ。彼が耐えてくれるよう、アポロニアが信頼できる人柄であるよう──祈りを込めて、エリーゼは膝の上で拳を握った。この場で話をするのは王女と将軍であって、彼女は見守ることしかできないのだ。
ヴォルフは、椅子を立つとアポロニアの前に跪き、頭を垂れた。
「王太子殿下はもはや俺を切り捨てようとなさっている。……殿下が兄上と対立されているというなら、微力ながら尽くさせていただきたいと思います」
「アンドレアスを通じてではあったけれど、何度も誘ったはずだけど。どうして今まで返事をしてくれなかったの? お兄様に忠誠を誓う、奇特な人かと思いかけていたのよ。それか、
「国のため、勝利のためにと命じられていました。『ヴォルフリート将軍』は命令によって産まれた存在です。たとえ自らの滅びに向かう命令であっても、従うべきだと考えていました」
そして、ヴォルフ自身も終わりを望んでいたのだ。残酷な命令に従った報いを、いずれ必ず受けるのだと。だから、王子と王女の政争に身を投じてまで生き延びようとはしなかった。
彼の心中は、アポロニアには想像しづらかったのかもしれない。青い目に煌めくのは今や好奇心だけではなく、迎えようとする臣下を試し、推し量る鋭さも見えた。エリーゼたちが王女と会うのにかなりの心構えをしたように、アポロニアの方でもヴォルフリート将軍を恐れたり疑ったりしたのだろうか。
「考えを変えたのはなぜ? 怖くなったからではないのよね。彼女が──エリーゼが、いるから?」
「はい。最初は、ヒルシェンホルン夫人の意を受けているのかとも思いましたが。エリーゼは、トラウシルト家の駒ではありません。守るべき存在であり、支えて欲しいと思う存在です。その彼女が、俺に生きて欲しいと望んでくれました」
「貴方の本当の飼い主は彼女と言う訳ね」
アポロニアの視線を受けて、エリーゼもヴォルフの隣に膝をついた。彼女自身も口にしたことがある喩えではあるけれど、彼を獣に喩えるのを聞くのは心が痛い。たとえ冗談であっても、今後はそのようなことがないように、はっきりと伝えておきたかった。
「この方は狼でも犬でもありません。人間です。そのように扱ってくださる方にお仕えして欲しいと思っています。……妻としての願いです」
無礼を恐れつつも、エリーゼは真っ直ぐにアポロニアの目を見上げた。同じ青い目を持つふたりの視線が絡み──そして、見下ろす方の青が、微笑んだ。
「私をお兄様と同じにしないで。あの人が王様だなんて寒気がするから、女だてらに王位を狙っているのよ」
応接室の長椅子が、今は玉座のようだった。跪くヴォルフを前に宣言するアポロニアは、女王に相応しいとさえ思える威厳と気高さを備えていた。
「国のために戦った者を亡き者にするなど、そもそも私は反対だった。私の庇護のもと、ヴォルフリート将軍にはこれまで通りに軍を率いてもらいたいと思っています。もちろん、策の方はこれまでとは全く逆に。私に従ったからこそ餓狼の将軍が人の心を取り戻したのだと、世間には見てもらいましょう」
「ありがとう、ございます……!」
エリーゼが安堵し、ヴォルフも肩の力を緩めたのを他所に、ヴァイデンラント伯爵だけがやや不満げな表情をしていた。
「アポロニア様の守りを固めるという意味では、婚姻をもって結び付けておきたいところでしたが──」
「でも、私の夫の座を手札として取っておけるのは良いでしょう。幸い、エリーゼも無欲そうだし」
夫、と聞いた瞬間に、伯爵は眉を顰めていた。王女に名を呼ばれる近しい関係だけに、もしかしたら特別な想いもあるのだろうか。ヴォルフとの結婚を勧めたのも、王女を託すつもりだったのかも。もちろん、エリーゼには立ち入って聞くことなどできないけれど。伯爵は、多分王女もヴォルフも大切に思っている。それは、間違いないような気がした。エリーゼに険しい目を向けてくるのも、きっとそれが理由なのだ。
「一度会っただけで判断なさるのですか?」
「さっき色々話したから大丈夫。女の勘を信用なさい」
「色々、とは……?」
舞踏の特訓の間に吐き出させられた「色々」を思い出して、エリーゼは慌てて腰を浮かせた。けれど、アポロニアは慈悲深いことに伯爵やヴォルフに詳しいことを語らないでいてくれた。代わりに、彼女には常のものらしい悪戯っぽい笑みを浮かべると、その場の者たちを見渡して、胸を張る。
「夫婦そろって仲良くできていると見せつけられるのも、好都合。エリーゼには私のドレスや宝石を貸してあげるの。王女との繋がりの、何よりの証明になるでしょう?」
そして、その言葉によって、エリーゼは王女の衣装を借りることになるのにやっと気付いた。アポロニアの表情からして、辞退することなどきっと許されないのだろう。
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