夜会の陰で

華やかな戦場へ

 エリーゼは、二度目に王宮を訪れていた。あまりにも輝かしく栄誉に満ちた場に、再び立ち入ることを許されるなど思ってもみなかった。将軍の妻になっておいて社交のことが頭から完全に抜け落ちていたのは、思えばおかしなことだったけれど。それだけ、トラウシルト家にいる間の彼女は人形でしかなかった──自分の頭で考えることを、全くしてこなかったということだろう。


「緊張しているのか」

「は、はい……」


 ヴォルフに問われて、エリーゼはぎこちなく首を頷かせた。控室として与えられた部屋はまだ限られた空間だからどうにか耐えられる。部屋の隅にはミアも控えているから、慣れてきたヴォルフの屋敷だと思い込むこともできなくはない。でも、間もなく夜会が始まれば、広間に行かなければならないのだ。ヴォルフリート将軍が、「奥方」を連れて初めて社交の場に出るのだ。トラウシルト家でしていたように、息を潜めてやり過ごすことはできない。「夫」の評判を落とさないように、堂々と振舞わなければならないのだ。


「とても美しいから不安になる必要はない」

「そういう訳には──」


 ヴォルフは、まだ社交の場にも慣れているだろうから、良い。震えを表に出すまいと、痛むほどに全身に力を入れているエリーゼの手を引いてくれる余裕があるから。彼がいてくれなければ、エリーゼはまともに歩くこともできなかったかもしれない。

 ヴォルフが褒めてくれた装いも、自信を持たせるというよりはエリーゼを押し潰す枷のよう。何しろ、彩の華やかさといい質の良さと言い、婚礼の時の花嫁衣裳のさらに上を行くものなのだから。


「……私には、もったいないですし」


 アポロニア王女は、約束通り彼女の衣装や宝石を惜しみなくエリーゼに貸し出してくれた。青い絹の生地に、繊細な金の刺繍が施されたドレス。アポロニアが纏えば陽光の輝く青空の雰囲気を醸すだろうけど、エリーゼだと冴え冴えとした月夜の風情になってしまう。どうにも衣装に着られている気がしてならないけれど、とにかく、トラウシルト家の令嬢たちでさえ纏ったことがないであろう最上の品々だ。触れるだけで冷や汗で汚してしまうのではないかと恐ろしいのに、分不相応に着飾って人前に──きっとギルベルタもいるのだ! ──出ることを思うと、気が遠くなりそうだった。


「そんな調子で踊れるか? 俺は、楽しみにしているのだが」

「本当に?」

「ああ。貴女という妻を得たのだと、見せびらかしたい」


 揶揄われているのを疑って唇を尖らせると、夜会の客を恐れさせるのを避けるため、仮面の下に隠れたヴォルフの目が笑っている。見ようとすれば、たかだか金属の板一枚で彼の思いを全て遮ることなどできないのだ。なのに、今夜会う人々は、多分誰も彼の目を真っ直ぐに見ることはしない。それを思うとエリーゼには悔しかった。そして、大切な夫の姿を見て気付かされることもある。


(ああ、だから私が怖がっていてはいけない……)


 エリーゼが怯えた表情を見せていたら、夜会の客たちは彼女が結婚に不満なのだと思ってしまう。餓えた狼の生贄にされて、夫の隣にいることが恐ろしくて堪らないのだろう、と。そんなことを信じさせてはならない。堂々と──そして、にこやかに笑っていなくては。彼女は幸せで、ヴォルフに出会えたのを心から喜んでいると、見せつけるのだ。この方を血に飢えた獣だと思っている人々の目を開かせなければならないのだから。


「……見せびらかしていただけるなら、とても嬉しいですわ」


 ミアの目と耳を憚って、小さく俯いて呟く。でも、ヴォルフは恥ずかしがる様子もなくエリーゼの耳元に唇を寄せて囁いた。


「もちろん。嫉妬されるのは初めてのことだからな。どんな気分がするものか、楽しみだ」

「もう……!」


 ヴォルフが言葉通りに浮かれているだけなはずはないだろう。ギルベルタや、あの女傑が仕えているらしい王太子は、送り込んだエリーゼの様子を気に懸けているはず。あの方たちが何を企んでいるかはまだ知れない。彼らの企みがどのようなものであれ、ヴォルフリート将軍が王女にくだったと見て取れば、不穏な手段に訴えることも考えられる。ただでさえ、ヴォルフリート将軍は不遜な野心家と見られている。今宵の行動がどのような結果を招くのか、誰も──ヴォルフ自身も、アポロニアでさえ知らないのだ。


「さあ、肩の力を抜いて。それでは上手く踊れないだろう」

「ええ……」


 手袋を嵌めたヴォルフの手がエリーゼのそれを取り、舞踏の時の構えを取らせた。彼の左手とエリーゼの右手を軽く握り合い、彼の右手は彼女の背に、彼女の左手は彼の右の二の腕に。疲れで肘が下がってしまっても、肩が上がって首が埋もれてしまっても見苦しいと、アポロニアには厳しく指導された。優雅なようでいて、舞踏はなかなかに激しい運動でもあるのを、エリーゼは初めて知った。

 復習のように、控室の限られた空間の中でエリーゼとヴォルフは幾つかのステップをさらった。鍛えあげた彼の身体を間近に感じ、彼と手を触れ合わせる幸せを噛み締める。そうすると、いくらか緊張もほぐれていくようだった。


「……私も、嫉妬されるように振舞います。笑って、はしゃいで──他のご婦人方に羨ましいと思っていただくようにします」


 身体が温まったころあいで手を離すと、エリーゼはふわりと自然に微笑むことができた。彼女にできることといったらそれくらいだと、だからこそしっかりと務めようと心に決めたのだ。ヴォルフは恐れるべき餓狼などではなく、心優しい殿方なのだと、彼女が態度で示さなくては。きっとそれは、エリーゼにしかできないことでもある。確たる身分も後ろ盾もない彼女は、将軍に媚びても得るものがないから。ギルベルタが怒るなら怒れば良い。トラウシルト家がエリーゼを見捨てた時こそ、彼女が打算も企みもなく、望んでヴォルフの傍にいると分かるはずだ。


「俺のこの顔では、説得力がないだろうに」

「そんなことはありません。私の旦那様は、とても素敵なのですよ」


 ミアの方をちらりと伺うと、礼儀としてか見ていられないのか、そっぽを向いていてくれた。それに密かに安堵してから、仮面に覆われたヴォルフの頬を掌で包む。すると、彼は心地よさそうに目を閉じて頭を委ねてくれた。その心地よい重みを感じてやっと、エリーゼも心を落ち着けることができそうだった。




 広間への扉が開くと、光と色の奔流がエリーゼの目を射った。婚礼の時に彼女を怯えさせ竦ませた眩さに、今宵は人々の笑いさざめく声と、楽団の奏でる音楽が加わっている。視覚だけでなく聴覚も揺さぶられて、よろめきそうになったところをヴォルフが支えてくれる。


「大丈夫か」

「はい。──戦場ですもの。ちゃんと、戦います」


 ヴォルフリート将軍の来場を見て取って、目ざとい貴顕が波のように押し寄せようとしている。彼らに挨拶をしなければならない、ほんの数秒の隙を縫うように、エリーゼとヴォルフは言葉を交わした。社交は女の戦いとはよく言うけれど、エリーゼはそのような覚悟も準備もないままに生きてきた。彼女は家の名誉も繁栄も背負わされていなかったから。誰にも期待されていなかったから。でも、今はヴォルフがいる。誰に命じられたからでもなく、彼女自身が望むまま、夫の未来のためにこの場の全てに立ち向かおう。微笑んで、幸せな顔を社交界中に見せつける。


 それこそが、か弱い彼女にできる唯一の戦い方なのだ。

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