芽生える疑問
けれど、礼儀を守って従順を示したはずなのに、将軍の渋面は変わらなかった。疑い深く目を細め、エリーゼを問い質してくる。
「……信じていないのか? 貴女の婚約者は名誉ある死を遂げたに違いない、と? 平民風情が述べる嘘偽りに、惑わされたりはしないとでも言いたいのか?」
「いいえ! あの、きっと、仰る通りだったと思います……」
高慢で、血筋を誇り、血気に逸る──ヴォルフリート将軍が語った無謀な若者は、確かにエリーゼが知るコンラートだった。そういう人だったからこそ、エリーゼを助けるつもりで妻にする、などと言い出したのだ。自身のすることは常に正しく、褒めそやされるものだと思って疑いもせず、自信に溢れた人だった。だから、誰もが彼の笑顔ばかりを記憶しているのだろう。「あの後」のエリーゼにさえ、てらいなく微笑みかけたくらいなのだから。
エリーゼの記憶も感情も嵐のように渦巻いていて、言葉にすることはとてもできなかった。ほんの数語を発して慌ただしく頷いたくらいでは、当然のように将軍は納得などしない。火傷を負った恐ろしい顔が、再びぐいとエリーゼに迫る。
「貴女は俺が憎くて嫁いできたのではないのか? 俺は彼を見殺しにしたと言ったのだぞ。……今は、絶好の機会だと思うのだが」
将軍が言わんとすることにやっと気付いて、エリーゼは目を見開いて喘いだ。この人は、彼女が婚約者の復讐を心に抱いてやって来た。あるいはギルベルタにそう命じられて送り込まれたと思っているのだ。
「いいえ! あの……私は、何も分かりません。何も言いつけられていないのです」
咄嗟に首を振ってから、気付く。彼女が何を言っても将軍は信じないだろう。何より、疑いのままに責め殺された方が怖い思いをしなくて済んだかもしれない。信じてもらえるように言葉を尽くすよりも、黙って耐える方がよほど楽だ。何を言われても頷いてしまえば良かったのだ。逆らうなと、ずっと言い聞かされてきたというのに。
「ですから……あの、どうか命じてください。何でも従います。お心に適うように努めますから」
失敗してしまった。混乱と恐怖のあまり、エリーゼは何よりも恐ろしいはずの将軍に対し、図々しく強請りごとをしていた。命じられていないという状況に、彼女はあまりにも慣れていなかった。何を尋ねられても、彼女には答えるほどの中身などないのだ。でも、ああしろこうしろと命じてくれれば、不調法なりに何かしらできるかもしれない。
必死の願い事だというのに、将軍は不思議そうに首を傾げた。試すように、エリーゼの顔を目を細めて眺めながら。
「分からないな。命じれば何でも従うはずはないだろう。俺を愛せと言われたらどうする気だ?」
「ご命令ならば、そのようにいたします」
不可能だろうと言外に言われていた。でも、エリーゼは迷うことなく頷いた。妻が夫を愛するのは当然のことだから、この命令は分かりやすい。将軍を満足させることができなくて怒りを買うかもしれないけれど、それはまた別の話だ。とにかく今は、全霊を込めて頷かなくては。
「では、憎めと言われたら?」
間髪入れずに重ねられた問いには、目を瞬いてしまったけれど。
「それは……あの」
将軍の黒い目が、彼女を真っ直ぐに見つめていた。愛せるか、と聞いた時はまだ冗談めかした空気もあったけれど、今度は真剣そのものに見える。火傷を負っていない方の、自由に表情を浮かべられるはずの左頬も仮面のように固まって、じっとエリーゼの答えを待っている。
エリーゼは薄く繊細な衣装の生地をぎゅっと握りしめて、真剣に考えた。この方を憎むことができるのかどうか。彼女は、誰かを恐れたことはあっても嫌ったことはない、と思う。だから憎むという感情がどういうことなのか分からないのだ。ヴォルフリート将軍がコンラートの最期をあえて聞かせたのは、彼女の憎しみを煽るためだったのだろうか。復讐を望んでいるのか、とは、詰問や尋問ではなく――そのように、期待していたとでもいうのだろうか。でも、そんなことがあり得るとは思えない。
「……本当に、そのように命じられるのでしたら。でも……とても、難しそうですから」
できれば違う命令を、と。考えた末に、エリーゼはおずおずと答えた。命じられることをえり好みするなど、どうしようもなく図々しいことだとは分かっていたけれど。
叱責を恐れて首を縮めていると、深い溜息がエリーゼの耳に届いた。
「思っていたのと違う……というか、俺の方がひどい思い違いをしていたようだ」
「は……?」
将軍が顔の右側を覆っていた。多分、利き手を使ったというだけなのだろうけど、火傷が手の影に隠れたことで、彼の顔はほぼ普通の――傷跡のない人と同様に見えた。眉を顰めた憂い顔の、精悍な顔立ちの青年に見つめられる状況は、エリーゼの胸を少しだけ騒めかせる。
「ひどいことを言ってすまなかった。顔を掴んでしまったのも。許せ、とは言えないが――決して、本意ではなかった」
「は、い……?」
名前の分からない胸のざわめきは、すぐに驚きと困惑に変わったけれど。すまないと、この方は確かにそう言ったのだろうか。エリーゼに何を謝るというのだろう。コンラートの話を聞いて恐ろしさに震えたのは事実だけれど、それは半ば以上、彼の記憶に怯えさせられたのだ。将軍は教えてくれるつもりで言ったのではなかったのだろうか。それを謝るとしたら――
(わざと、恐ろしい言い方をしたの……?)
だとしたら、何のためにそんなことをしたのだろう。しかも、その上で謝るだなんて。エリーゼが首を傾げていると、さらに驚くべきことが起きた。将軍が、彼女に対して深々と頭を下げたのだ。
「いや、まずは誤解で貴女を迎えてしまったことについて謝らなければ――本当に、悪いことをしてしまった」
「いいえ……!」
大の大人の男性が、地位も名誉もある人が頭を垂れている。目の前の光景が信じられなくて居心地が悪くて、エリーゼは思わず腰を浮かせた。花瓶を置いた卓を避けて、かさばる衣装に足をもつれさせながら、将軍の傍らに駆け寄り跪く。そうして目線を合わせて――というか、下から窺う体勢になってやっと、少しだけ安心することができた。なのに、ヴォルフリート将軍は、まだ彼女を揺さぶり戸惑わせ続けるのだ。彼女自身も答えを知らない問いかけを投げることで。
「面倒な事態に巻き込んでしまったが、できるだけ迷惑が掛からないようにしたい。貴女はなぜこんなところに送られた? これからどうしたい? 貴女の望みを、教えてもらえるだろうか」
「私は……何も……」
エリーゼの望みなど、聞かれても存在しないとしか思えなかった。あえて言うなら、衣装を脱ぎ捨てて眠りたい、というくらいだろうか。でも、問われているのはそんな目先のことではないだろう。
呆然として目を瞬かせていると、ヴォルフリート将軍は困ったように笑った。狼が牙を剥くような、脅すような表情ではなく、もっと柔らかな自然な笑みだった。この方は、もしかしたら感情も表情も意外と豊かなのかもしれない。だからといって、親しみを覚えることもできなかったけれど。
「……すぐに決まらないというなら、考えておいて欲しい。多少の無理なら利く――というか、利かせよう。貴女への罪滅ぼしをさせてくれ」
だって、将軍は無理難題を撤回してくれるつもりはないようなのだから。何かを望む、なんて。そんな大それたこと、エリーゼはこれまで一度も考えてこなかったのに、この方はどうしても彼女に強欲の罪を犯させたいようなのだ。
「……はい……」
そして、エリーゼはまた頷くことしかできなかった。
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