コンラートの最期

 何も言わないエリーゼに苛立ったように、将軍は身を乗り出した。赤黒い火傷が目の前に迫り、エリーゼの喉から声にならない悲鳴が上がる。それにも構わず、将軍は詰問のような口調で続けた。


「……彼のことはよく覚えている。美しく快活な青年だったな。彼に嫁ぐのなら貴女も幸せだったのだろうが。戦場にあってさえも、華が咲いたような存在だった」

「私は……あの、聞きたくありません……」


 ギルベルタから死を望まれていたという事実を受け止めるのに精いっぱいで、エリーゼは力なく首を振った。将軍を怒らせないようにとか、名家の者らしく礼節を守ってとか、そんなことに気を遣う余裕はもうなかった。コンラートの後を追うべきだというのなら、今がその時なのかもしれない。将軍が彼女の態度に激高してくれれば、恐怖も不安ももう感じなくて済むようになるかもしれない。


「前の方、ですから。今は、もう――」


 それに、聞きたくないというのも本当だった。コンラートに想いを馳せるのは、悲しくはなくても辛く恐ろしく、エリーゼの心を痛ませる。きっと彼女は、この痛みから逃げるためにコンラートのことを考えまいとしていたのだ。まして戦場での恐ろしい最期なんて知りたくはなかった。


「俺への遠慮か? ならば不要だ。当の夫が聞かせたいと言っているのだから」


 けれど、はっきりと嫌とは言えないエリーゼが首を振ってもいかにも弱々しく力なく、ヴォルフリート将軍が取り合ってくれることはなかった。言葉通りに今の夫への遠慮だと思われているのだろうか。どこか彼女を痛めつけようとするような――ギルベルタと同じような気配を感じてしまうのは、気のせいだろうか。彼女を見据える将軍の目から逃れようと、しても、顎を捕らえられて正面を向かされる。花束を見つめて気を紛らわせることも、もうできなかった。


「――相続する財産のない貴族の若者が、軍に居場所を求めるのはよくあることだ。だから、『彼』もそうなのだろうと思っていた。だが、貴女のためだったのかもしれないな。妻を迎えるためにも、目立った功績が欲しかったのだろうか」

「分かりません。私にはそのような価値はありません」


『帰ったら一緒に暮らそう。ずっと、ふたりで──』


 コンラートの声が、エリーゼの耳に蘇る。愛している、と囁かれた時の熱い吐息も。そして、彼はエリーゼを強く掴んで押し倒したのだ。それから──


 蘇りかけた記憶から逃れたくて、必死に首を振る。将軍の手の中でほんの少しもがいた、というだけでしかないけれど。「あの時」と同じで、男の人の強い力は怖かった。将軍の気まぐれで、彼女の細首など折られてしまう。そうなっても構わないと思っていたはずなのに、いざとなると痛みに震えてしまうのが浅ましい。


「そうなのか?」


 エリーゼにしては珍しいほど、はっきりときっぱりと否定したはずだった。なのに、将軍は全く信じていないようで、わずかに首を傾けるだけだ。その仕草で、高い軍服の衿に隠れた首筋にも赤黒い火傷の痕があるのが見えた。この人の身体にはどれほどの傷跡が刻まれているのか――地獄の業火から生まれた怪物、だとか。あり得ないはずの噂が、ついエリーゼの脳裏を過ぎってしまう。


 そのような埒もない妄想に耽ることができたのも、今の状況から目を背けるためでしかないのかもしれなかったけれど。将軍は容赦なくエリーゼを追い詰めてくる。怯える子兎を前に舌なめずりする狼のように。もともと火傷によって引き攣れていた唇の端が、一層持ち上がって獰猛な笑みを形作る。


「――だが、とにかくも彼は勇敢だった。危険を顧みず戦っていた。――俺の命令を無視して、敵陣に斬り込むほどに」

「え――」


 エリーゼが兎だったとしたら、喉元に牙が刺さった瞬間はこんな感覚がするのだろうか。あまりの衝撃に言葉もなく、息をすることさえ忘れて目を見開くことしかできない。耳から入ってくるのは、彼女の肉が裂かれ骨が砕ける音なのだろう。それくらいに、エリーゼは怯え切っていた。なのに、耳を塞ぐこともできないで、聞き入るしかない。


「個人の勇をたのむのも貴族にはありがちなことではあるが。平民の命令など聞きたくはなかったのだろうな。火薬や大砲を使うのは卑怯者のすることだとでも考えていたのだろう」

「そう……なのですか……」


 エリーゼの反応は、ヴォルフリート将軍には物足りなかったのかもしれない。彼女は感情を押し殺すことにあまりにもなれていて、そして将軍はそれを知らないから。だから、なのだろうか。軽く眉を寄せた後、彼は唇を歪めて牙を剥くような表情をした。エリーゼをもっと脅かそうとするかのように。彼女が既に心底震え上がっているのも知らないで。


「退却の命令も聞こえなかったようだから、敵もろともに焼き滅ぼすことにした。草原に見えて、たっぷりと油を染み込ませた火薬を仕込んだ罠だ。敵を誘い込んだら火を放つから、ほどほどで退くようにと言っていたのだが。聞いていなかったか忘れたようだ、貴女の婚約者は。あるいは、貴族たる身が焼かれることなどないと高を括っていたのか。いずれにしても愚かなことだ」


 ヴォルフリート将軍は、炎の悪魔。死体を薪にし、敵味方の区別なく焼き尽す。噂として聞くだけでも恐ろしいと思っていた。けれど、エリーゼはあくまでも物語として聞いていたに過ぎなかった。遠い国や別の時代の、自身には関係ないことだと。でも、それは違ったのだ。恐ろしい最期を迎えたのは彼女の婚約者で、そして、彼を死に追いやる策を巡らせた人は、エリーゼの目の前に、彼女の夫として座っている。これが知りたかったのだろうと、血腥く焦げ臭い戦場の惨状を、わざわざ語って聞かせてくれている。


「結果的には、彼は良い囮になってくれた。その功に報いるなら、遺体くらいは持ち帰りたかったが。だが、生きている者の方を優先すべきだろう。手足を失った平民は、灰になった貴族よりも価値があるのだから」


 将軍の手が、エリーゼの顎を解放した。身動きできること、将軍から身体を離せることに安堵しながら、エリーゼは悟った。コンラートの棺が空だったのは、つまりはそういうことだったのだ。棺に納めるべき肉体は、戦場の灰となって散ったのだ。確かにエリーゼは、婚約者の最期をやっと詳しく知ることができた。彼女が望んだことではなかったけれど――でも、これで終わりのはずだ。


「……はい。そのように、思います」


 戦場の怖い話も、将軍の怖い顔も。もう、おしまいということなのだろう。これ以上恐ろしい話を聞きたくない一心で、エリーゼは必死に強張った首を頷かせた。


「あの……教えてくださり、ありがとう、ございました」

「何……?」

「ええと……わざわざ聞かせてくださったので。もったいない、お気遣いだと……」


 驚いたように目を瞠り、眉を顰めた将軍に対して、エリーゼは微笑みを作ろうとした。果たしてそう見える表情になったかは分からないけど。将軍と違って火傷を負っている訳でもないのに、エリーゼの頬はひどく固く、口元も引き攣って、歪な表情になってしまったけれど。とにかく、逆らうつもりなどないことを見せようとしたのだ。将軍の目的も、将軍が思うエリーゼの目的も分からないけれど。教えてもらった、ということに対しては礼を述べなければならないと思ったのだ。そのように、叩き込まれてきたから。

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