食い違い

「――様、奥様! まだお目覚めになりませんか? もうお昼ですけど」


 聞きなれない声によって、エリーゼは眠りから起こされた。高い、少女の声だ。トラウシルト家の使用人に、こんな声の者はいただろうか。言葉遣いも、どこか蓮っ葉で――ギルベルタの耳に留まれば叱られてしまう、と。余計な心配をしてしまう。


「ん……?」


 寝返りを打ったエリーゼは、ぼやけた頭の片隅であれ、と思う。彼女の寝台は、こんなに広く、柔らかかっただろうか。それに、彼女に呼びかけているらしい声も不可解だ。彼女は奥様なんかではないのに。


「奥様、お疲れなんでしょうけど。忙しいから、そろそろ起きてくださいません?」

「きゃ――」


 でも、寝ぼけていたのも、寝台を覆う天蓋が遠慮なく開かれるまでだった。眩い太陽の光が目蓋を射って、眠気の名残を容赦なく追い出す。急な明るさにしきりに瞬きするエリーゼの目の前に、寝台の脇に。初めて見る少女が、つんと顎を逸らして立ちはだかっていた。


「あの……」

「おはようございます、奥様。昨日はご挨拶もできませんで──この屋敷にお仕えしております、ミアと申します」


 ミアと名乗った少女は衣装の裾を摘まんで小さくお辞儀した。そうはしたくないけれど、最低限の礼儀を取り繕わなければ、とでもいうかのように。彼女の目つきも口調も、なぜかひどく挑戦的だった。


(あ、昨日の……!)


 覚えのない刺々しさに戸惑いながら、エリーゼは自身の思い違いを正した。彼女の目の前にいる少女は、昨晩、出迎えてくれた召使に違いない。暗がりではよく分からなかった髪と目は栗色で、エリーゼより幾らか幼いという印象も、多分間違っていなかった。


「ミア……」


 エリーゼが呟いたのは、記憶を整理しようとしてのことだった。昨夜の――婚礼のこと、小さな花束、将軍の素顔。ギルベルタの真意、コンラートの最期、エリーゼ自身の望み。あまりにも多くのことが起きたから、咄嗟に自分がどこにいるのか思い出すのに時間が掛かってしまった。昨夜はいつ花嫁衣裳を脱ぎ捨てたのかさえ曖昧だった。


「はい、ただのミアです」


 記憶を手繰っているエリーゼが話を聞いていないように見えたのか、それとも何か別のことに引っかかりを覚えたのか。ミアはぎゅっと顔を顰めてみせた。


「姓はありません。孤児なので無作法なのはご容赦ください。ご実家と同じようにはいかないでしょうけど――でも、誰も連れていらっしゃらなかったのは奥様ですから」

「あ……」


 不満げに言われて、初めて気付く。エリーゼはトラウシルト家から侍女や召使を従えてはこなかった。実家では使用人と同等の扱いだったのだから、そもそも連れて行く者もいなかったし、身の回りの世話を焼かれる必要もない──彼女は自分で何もかもやらなければならなかった──のだけれど。でも、ミアはそのことを知らないのだ。


「ええと……ごめんなさい。お手間はかけさせないで、自分で何とかするから――」

「奥様にそんなことさせられる訳ないじゃないですか! ご不満でしょうけど、私がやって差し上げます! 他に人がいないので!」

「ごめんなさい。このお屋敷のことは何も知らなくて」


 申し訳ございません、と。口癖のようにこぼれそうになった言葉は、辛うじて呑み込んだ。一応は奥様と呼んでくれている以上、へりくだり過ぎた言葉遣いはこの少女を困らせてしまうだろう。ミアの身体越しに室内を窺ってみれば、もう日は高く昇っているようだ。トラウシルト家では許されない寝坊をしただけでも申し訳ないのに。慌てて身体を起こし、手櫛で髪を整えながら――ふと、気付く。他に人がいないというのは、明らかにおかしい。


「――あの、貴女がひとりだけで……? それでは、大変ではなくて?」


 昨晩、ヴォルフリート将軍の出迎えに来てくれたのはこの少女だけではなかったはずだ。だから、唯一の使用人という意味ではさすがにないだろう。女主人の相手を務めたり、身の回りの世話をしたり。衣装の手入れや屋敷内の整理整頓、清掃などの役目を負う女性の使用人がいない、ということだろう。それでも――不思議なほどに気が強いようだけど――小柄な少女ひとりに任せるには多すぎる仕事なのは間違いない。昨晩も、ミアが真っ先に進み出てきたのを不思議に思っていたのだ。


「少し前までもう少しいましたけど、辞めたんです。奥様が、奥様になったから」


 ミアは早口に、そして刺々しく答えながら、寝台の上に背の低い卓を出し、その上に朝食を並べた。焼き立てらしいパンに、赤い――多分、木苺のジャムとバター。野菜のスープは、昨夜口に出来なかったのと同じだろうか。丸一日何も食べていないことを思い出したエリーゼの胃が、勝手にはしたなく鳴って空腹を訴えた。


 でも、空腹を満たすことより先に、エリーゼはこの屋敷のことが気になって仕方なかった。ミアが唇を尖らせて言ってきたことも。食事と一緒に出されたカトラリーを取りながら、早く食べて着替えなければ、と思いながら。もう彼女に背を向けて立ち働き始めている少女に、恐る恐る問いかける。


「あの、それはどういう……?」


 着替えの衣装を広げていたミアは、風を切る音が聞こえそうな勢いで振り向いた。同時に足を踏み鳴らして、声を上げる。


「王女様をお迎えするんじゃなくなったから、ってことです!」


 ミアの仕草も大声も、トラウシルト家では考えられなかったものだ。ギルベルタに叱責される、と咄嗟に思ってしまう。一方で、エリーゼへの苛立ちが明らかに込もった尖った声も大きな足音も、ギルベルタの杖を思い出させてエリーゼの身体を竦ませる。何より、ミアが地団太を踏んで投げつける言葉が、彼女の胸に突き刺さっていた。


「奥様になる方のご実家は、旦那様がお嫌いだから。王女様なら守っていただけたかもしれないけど、どうなるか分からないから、って。旦那様が、不安な者は去るように、って……!」


 ミアがエリーゼを睨みつける視線も、矢のような鋭さだった。この少女も、トラウシルト家の悪意を知っているのだ。そして、エリーゼをその一員だと考えている。一族の恥だと言われ続けてきた彼女にとっては、もったいないほどの扱いなのに。彼女は、将軍を恐れはしても憎んだり嫌ったりはしていないのに。


 ……違う。それさえもエリーゼを絶句させた本当の理由ではない。昨晩、将軍に告げられた言葉が彼女の耳に蘇っていた。王女との結婚など望んでいない。でも、エリーゼを選んでくれた。


(将軍は野心家ではない、ということなの……? でも、大奥様や王子殿下は……)


 ひどく痛々しいものを見る眼差しで、彼女を見下ろしていたマクシミリアン王子。将軍のことを語っては憤りに顔を歪めていたギルベルタ。彼らの言葉はエリーゼにとっては絶対で、疑ったこともなかった。でも、エリーゼは婚礼の席での噂話も覚えている。王女はこの結婚を喜びはしない、と。


「なぜなの……?」


 ヴォルフリート将軍は、ギルベルタたちが言うような野心など持っていない。それどころか、彼に悪意を抱いているのはトラウシルト家の方であるかのよう。でも、それならエリーゼを妻にするのは悪手でしかないだろうに。コンラートの最期を伝えるためだけに、あの方は王家の庇護を諦めたとでもいうのだろうか。ミアは、王女の後ろ盾を望んでいるようなのに? いや、将軍は庇護も権力も望まないとも言っていた。だから、主従の間でさえも言い分がずれてしまっている。


 そして、そもそも王女の本心はどうだったのだろう。顔も知らない方を、助けるためだと思えばこそエリーゼは耐えなければならないと思っていたのに。何かが少しずつ食い違っているような不確かさと落ち着かなさが気持ち悪かった。

 寝台から起き上がりもせずに考え込んでいると、先ほど振り向いた時と同じくらいの勢いで、ミアは首を真横に向けた。


「私は何も知りません。旦那様に直接お聞きになってください。……私だって、知りたいくらいなんです」


 彼女への問いかけのつもりではなかった。でも、ミアにしてみれば、トラウシルト家の手先が図々しいとしか思えないのかもしれない。年下であろう少女の敵意にさえも狼狽えて、エリーゼはまともに舌を動かすことができなくなってしまう。


「直接……?」

「今日はお屋敷にいらっしゃいますから。お嫌なんでしょうけど、夫婦だから聞けば良いじゃないですか」


 夫婦、と。エリーゼはまた鸚鵡返しにミアが言った単語を拾って舌に乗せた。ヴォルフリート将軍と彼女は、夫婦、なのだ。愛はなくても、お互いのことを何も知らなくても。自分に言い聞かせてみても、何の実感も得られなかったけれど。でも、その姿がまたミアの癇に障ったらしい。


「――冷める前に、召しあがってください!」


 少女の高い声に叱責されるように、エリーゼは慌ててカトラリーを動かし始めた。

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