エリーゼの望み

 ミアのぎこちない手に手伝われて着替えを済ませると、エリーゼは書斎へと足を向けた。トラウシルト家が持たせてくれた、いつも与えられていた服よりははるかに上等な衣装を纏って。花嫁衣装と違って重くも苦しくもないから動きやすい――はず、だった。将軍と会って何を話せば良いのか、と思うと、足に根が生えたように一歩一歩が重く感じられてしまうのだけど。でも、一度訪れた場所だから、すぐに書斎に辿り着いてしまう。弱々しく扉を叩くと、すぐに入って良い、と中から答えがあった。


 奥の机で書き物をしていたヴォルフリート将軍は、エリーゼの気配に顔を上げた。自邸でのことだから、もちろん素顔だ。昼の明るさの中で見ても、右半面の火傷の痛々しさ恐ろしさは変わらない。エリーゼは、意識して悲鳴を呑み込み、笑顔を作ろうと務めた。


「――目覚めたか。昨日はよく眠れたか」

「はい。お陰様で――とても柔らかな寝台でした。あの、ありがとうございます」

「トラウシルト家からの結納品だから礼には及ばない。俺にはよく分からないが、きっと良い品なのだろう」


 エリーゼの頬や肩が引き攣って震えたのを、でも、将軍は見過ごさなかったのだろう。主を見守るように机に置かれていた狼の面に、彼の手が伸びる――それを、エリーゼは必死に止めた。


「あの、そのままで構いません。どうぞ、お楽に……。あの、ご自身の、お屋敷なのですから……」

「だが、見たいものでもないだろうに」


 将軍は、右の方へ顔を背けながら首を傾げた。無傷な方だけをエリーゼに向けようという気遣いに気付くと、途端に舌が縺れてしまう。


「私が来たことで……あの、お屋敷に、色々あったと伺いました。これ以上は――」

「ミアが何か言ったか。無礼のないようにと言いつけていたのに……すまなかったな」

「いいえ! 当然のことです」


 手で座るように勧められたのに構わず、エリーゼは大きく首を振った。非礼なのは分かっていても、のんびりと座って話をしている場合ではないと思った。訳の分からないこと、恐ろしいことばかりだった。彼女は取るに足らない存在なのだ。彼女が将軍やこの屋敷の人たちの将来を左右するなどあってはならないことのはずだ。将軍の机の真ん前に足を進める勢いは、ほとんど詰め寄るような恰好だった。この居心地の悪い状況を、どうにか正して欲しくて仕方なかった。


「どうして、王女様と結婚なさらなかったのですか。お屋敷の人たちを遠ざけるようなことまでして……」

「そもそも王女殿下とのお話は俺の意思は関わっていない。持ち上がった時も、流れた時も、な。俺は軍人だ。決められたこと、命じられたことに従うまでだ」

「でも、私を選んでくださったと仰いました。選ぶことができるなら……!」


 将軍が言ったことは、これまでエリーゼがしてきたことと少し似ている。何を言われても従い、頷く。嫌なことでも怖いことでも。彼女自身のことなら、それが最良だと信じてきた。そうすれば、大過なく過ごすことができる、と。でも、ヴォルフリート将軍は彼女とは違うはずだ。彼女よりも強く、比類ない功績のある人だ。王女を望んだと誰もが口にして、疑わなかった。それほどの人が従うだけだというのは、おかしい、気がする。でも、彼女などの考えが正しいのかどうか、他人に間違っているなどと言っても良いのかどうかの自信は全くない。


 言い淀むエリーゼは、駄々をこねているようにも見えたのだろうか。将軍は、無事な方の左半面で子供を宥める類の笑みを浮かべた。


「俺の評判は聞いているだろう」

「はい。……あの、本当……なのでしょうか」

「そうだ」


 否定して欲しい、と。願いを込めて聞いたというのに、将軍ははっきりと頷いた。それも、火傷を見せつけるように、わざわざエリーゼを正面から見据えて。脅すような、牙を剥く狼の笑み。確かに恐ろしいのだけど――それだけではなくて、どうして居たたまれないような気分になってしまうのだろう。彼女を脅かそうとして無理をしているのだと、何となく感じてしまうからだろうか。


「沢山殺した。男も女も老人も子供も。それも、わざわざ恐れを買うように残酷なやり方で。だから、疎まれ恐れられても当然だ。当然の報いを避けようなどとは無駄なことだ」


 だから、王女との結婚を望まなかった。言外の言葉を聞き取りながら、エリーゼはまだ分からない、と思い続けていた。トラウシルト家で聞かされていたことと、将軍が語ることがまるで違うから。何より、この方の勝利を称えて凱旋の行進まで行われていたのに。どうして自らそれを否定し卑下するのだろう。


「でも、あの、必要なことだったのでしょう……? それに、貴方は勝利を収めました。どうしてそんなことが……」


 将軍の目から逃れようと顔を伏せると、花の彩りが慰めてくれる。昨日子供たちに贈られた花を、まだ飾り続けているのだ。将軍の評判と、実際に見聞きしたことが結びつかない。だから、訳が分からない。


「殺した中に貴女の婚約者もいたのに。優しい人なのだな」


 ただ、この方を恐れる思いは少しずつ薄れていっている。だって、コンラートのことを口にしながら、将軍はエリーゼの表情を窺っている。怯えさせようとする一方で、それを恐れてもいるかのように。何より、ギルベルタが何と言おうと、この方がコンラートを殺したとはどうしても思えなかった。自らの行いを語る時、この方はとても苦しそうな表情をしているのに。


「確かに、必要なことだった。だが、やったのは紛れもなく俺だ」


 将軍は、自らの手を見下ろして顔を顰めた。礼装の手袋をしていた昨夜と違って、素手のところを見れば、やはり手の甲や指にも火傷の赤い痕が見える。その赤は、血の色と炎を思わせて、この方の経験してきたことを、ほんのわずかにではあってもエリーゼに思い知らせた。


「戦いが終われば、我に返るものだ。そして疑うようになる。貪る敵がいなくなれば、味方でも狙うのではないか、と。王女殿下を――恐れ多くも――餌にしてまで、餓えた狼を飼い続ける必要があるかどうか、誰もが考え始める頃だ」

「誰もが……? 一体誰が、そんなひどいことを……?」


 腕で自らの身体を抱いて問いかけながら、エリーゼは答えを知っていると思った。トラウシルト家の居間での会話を思い出したからだ。ギルベルタたちは、人も獣も褒美を目当てに働くものだと言っていた。それに、成り上がりの乱暴者には分を弁えさせるべきだ、とも。彼女の実家は、ヴォルフリート将軍を疎んでいる。王女との結婚を妨げるだけでは足りなくて、この方に何か悪いことを企んでいるのかもしれない。


 それなら──エリーゼが知らないだけで、彼女がここにいることには何らかの意味があるに違いないのだ。


「本当に知らないのなら、その方が良いだろう」


 将軍は、エリーゼの顔が引き攣ったのは、後ろめたさのためだと思っただろうか。実家の陰謀を知らない振りをして白々しい、とでも。恥じ入って口を利くこともできないのだと言えたら良い。でも、そうできたとしてもこの方は優しく笑うだけのような気がする。どうしてなのか理由は分からないけれど、ヴォルフリート将軍は自身の命をひどく軽く扱っているように見えてならなかった。


「……貴女は俺の破滅を近くで眺めるのを、喜ぶだろうと思った。それか、自ら手を下すか。俺はずっと終わりを待っていたのだ。遠からず何かしらの罪を着せられるだろうと思っていたが、貴女の望みを叶えることができるなら、その方が良いだろう、と」

「私はそのようなことは望みません」


 どうしてエリーゼを選んだのかの答えを、やっと教えてもらうことができた。喜びは全くないし、納得することもできないけれど。そして、彼女の心からの声も、将軍の心には届かない。仮面をつけている訳でもないのに、言葉が表面だけを滑っていくよう。


「ああ。だから、思い違いをしてすまなかった。俺なんかと結婚とはな。さぞ恐ろしかっただろうに……」

「……いえ……」


 自分なんか。それもまた、エリーゼには馴染んだ考え方だ。思えば、何を言われても頷くのも同じ。彼女がそうするのは、自分の考えを述べても何も変わらないと思っているからで――では、将軍もそうなのだろうか。だから彼女に、何も打ち明けてはくれていないのだろうか。昨日会ったばかりの娘、彼を嫌う家の娘に対して、当然なのだろうけど。そのことが、急に寂しく悲しく思えた。


 昨日も、どうせ愛せないだろうと言われてしまっている。言葉を交わす度に将軍への怖れは薄れ、むしろ──違う感情が、生まれつつあるというのに。その感情の名は、分からない。でも、コンラートに対しても、他のどんな人間に対しても、抱いたことのない感情だと思う。それが何なのか自身に問いながら、エリーゼは必死に将軍を見つめた。恐ろしいはずの傷からも、目を背けずに。


「あの、私の望みを叶えてくださるというのは――」

「無論、全力を尽くす。実家に帰るのでも、仕える先を探すのでも。貴女の名誉に傷がつかないようにしよう」

「いいえ、そうではなく」


 昨晩寝台を独占することができた理由を知って、エリーゼはまた打ちのめされた。この方が獣などと、どうして信じて怯えることができたのだろう。トラウシルト家の誰よりも――コンラートよりも、この方は優しく人間らしい。

 言葉が届かないもどかしさと、噂ばかりを信じていた恥ずかしさに、首を振る力は弱かった。でも、なけなしの勇気を振り絞って、エリーゼは声を出す。今まで黙って俯いていた分を、取り戻すかのように。


「貴方のことが、もっと知りたいと、思います」


 将軍の目がわずかに見開かれたことで、ほんの少しだけ力づけられた。彼が見せた驚きは、彼女の言葉に動かされた証拠だと思うから。だから、次の言葉を述べる時には、ぎこちないけれど微笑むことができたと思う。


「それが、私の望みです」

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