裏切り

(どうして、ミアがここに……?)


 王宮の控室で別れて、そこにとどまっているはずの少女が目の前に現れたのが信じがたくて、エリーゼは何度も目を瞬いた。

 でも、これは確かな現実だ。エリーゼとヴァイデンラント伯爵の前に、幽霊のようにさまよい出てきたのは、ミアだった。たとえ暗い中でも慣れ親しんだ顔を見間違えるはずはなく、召使のお仕着せは、別れた時と変わっていない。なのに、何かが絶対に違っていた。そして彼女と同じ疑問を、ミアも抱いているらしい。


「どうして奥様がここに? ここは、危ないんです。もうすぐ……あの、とても危なくなるんです」


 月と星の薄明かりにようやく馴染んだ程度のエリーゼの目にも、ミアの様子が尋常でないのは見て取れた。見たことがないほど焦って、舌ももつれていて──多分、額には汗が浮いているのではないか、というくらい。平静でいられるはずがないのは、確かなのだけど。ヴォルフもエリーゼもいない中でよく無事でいてくれた、とも思うし、彼女こそ早く逃げるように促さなければならないとも思うのだけど。


 爆発があった場所が危ない、というのは明らかな事実ではある。でも、それが武器庫だとミアはどうやって知ったのだろう。何より、用心のための警告にしては、少女の言葉はあまりに確信に満ちていた。それが不思議で──エリーゼの頭に、素朴な疑問が浮かぶ。


「ミア。どうして危なくなると知っているの?」


 その問い掛けは、ぽろりとエリーゼの唇からこぼれた。彼女自身もどういう意味なのか分からないまま。何を問うたのかに気付いたのは、紙よりも白い顔でよろめいたミアの姿を見てからだった。エリーゼの問いに、この少女はどうしようもなく動揺して打ちのめされている。だから──察してしまう。ミアがここにいる理由、知らないはずのことを知っている理由を。


「まさか──」

「……はい。旦那様をここに呼び出したのは私です。奥様がいらっしゃるから、って……!」


 伯爵が息を呑む音を聞きながら、エリーゼは声を上げていた。ミアの言葉は、信じがたい。でも、これで繋がる、とも思った。広間を出てからのヴォルフの足取りが全く見えないのは、彼が迷うことなく真っ直ぐに罠に向かっていったから。罠と疑わないような者──長年共に過ごしたミアの言葉に従って、エリーゼがいると信じていたから。そして、ミアが自分だけの考えでしたことのはずもない。ならば──


「王子殿下の命令ということ? 貴女は……あの方と繋がっていたの? ずっと?」


 エリーゼが足を踏み出した分、ミアは跳ねるように退いた。問い詰められるのを恐れるかのように。それでも、小さく首が頷いて、エリーゼの問いを肯定する。


「なぜだ!? 君はヴォルフに助けられたと聞いたぞ! 恩人を、なぜ……!?」


 ヴァイデンラント伯爵が叫ぶのは、エリーゼには無駄なことに思えた。コンラートの死を当然悲しむべきだと思われていた彼女は、実は婚約者から解放されて密かに喜んでいた。人の心は見ただけでは分からないのだ。ならば、当然ヴォルフに感謝すべきに見えるミアだって、そうではない理由があってもおかしくないのだろう。


「はい。助けていただきました。


 事実、ミアは硬く、切るような口調で答えた。彼女がヴォルフの屋敷に来たばかりの頃のような、こちらを拒むような鋭い目つきで。


「でも、感謝なんてできません。家も家族も……知っている人は皆、殺されてしまったのに! 私だけが助かったからって、嬉しくなんて……!」


 伯爵の問いが、ミアの心の堰を切らせたようだった。かつてエリーゼに噛みついたのは、決して本気の怒りではなかったのも分かってしまう。星明りにも煌めく涙を浮かべて喚き、地団太を踏むミアの声は鋭く激しく、口を挟む隙を許さない。


「旦那様が良い方なのはすぐ分かりました。ご事情があるみたいなのも。だから、何かすることはできなかった。でも……許すこともできなかった!」


 強く吐き捨てた後、ミアの唇がわなないて笑みに似た表情を形作る。その目に映るのは、多分伯爵でもエリーゼでもない。もう手の届かない、彼女の失われた家族や故郷を見ているのかもしれない。あるいは、甘美な復讐が叶う瞬間だろうか。どちらにしても儚いものだというのに。


「旦那様が仰ったんです。多分、長くないって。今までやって来たことの報いを受けるんだって。それは、ひどいと思ったけど……最後まで見ることができたら、気持ちも収まるかと思ったのに」


 恨みを持つ者に、自身の最期を見せることで復讐を遂げさせる──それは、ヴォルフが最初にエリーゼに望んだことだった。彼女の代わりに、ミアはずっとその暗い願いに縋ってきたのだろうか。それなら、その願いを潰えさせたのはエリーゼだ。


「安心、してたんです。私が何度お礼を言っても、あの方は聞かなかったから! でも、奥様が来てしまった! 旦那様は、とても嬉しそうで……幸せそうだったから! 変わってしまったから!」


 ミアの叫びが、エリーゼの胸に刺さった。彼女と心を通わせたから、ヴォルフは死から目を背けた。生きようと、思ってくれた。だから──ミアは、違う形の復讐をしなくてはならなくなった。


(私は……私たちは、貴女になんていうことを)


 控室でのヴォルフとのやり取りを、ミアはどんな気持ちで見ていたのだろう。それよりももっと前、エリーゼとヴォルフがお互いを名前で呼ぶようになったのは? ふたりで舞踊の練習をするところさえ見せつけた。それを思うと、エリーゼは後ろめたさで足元の大地が崩れる思いがした。ミアだって、ヴォルフを慕う思いが皆無なはずはない。彼女の背を押したのは、紛れもなくヴォルフとエリーゼ自身だ。憎む相手が目の前で幸せになろうとしているのを見たら、それを取り上げたくなっても無理はない。


「……あの日の『お客様』……あの人も、貴女が?」

「そうです。旦那様がいない日と時間を教えたんです。旦那様がっ、奥様を、大事にしてるのが……分かったからっ」


 薄い胸を張るのは、ミアの精一杯の虚勢だろう。裏切りを突き付けて勝ち誇るなら、もっと堂々としていれば良い。嗚咽に喉を詰まらせることなどないし、涙が頬を濡らして止まらないということもないだろう。第一、あの日のミアは、招かれざる客人──ヴォルフを怨んでエリーゼを襲った男──を取次ぎながらも、エリーゼは相手をしないようにと、しつこいほどに食い下がっていた。


「そうだったの……」

「せっかく助かったのに! 怖い思いをしたんだから、逃げてしまえば良かったのに! もっと早く! なんで──っ」


 陥れておきながら、逃げれば良いと泣き喚く。ミアの矛盾した叫びは、彼女の迷いをそのまま表しているようだった。この少女は、今まで何を思ってヴォルフと──それに、エリーゼに仕えてきたのだろう。主人の心が分からないと呟き、エリーゼの身を案じてもくれた。最初、きつい態度で当たってきたのは、エリーゼを警戒していたのか追い出したかったのかどちらだろう。後者だとしても、彼女の身を案じてくれていたのだろうか。油断させるための演技もあっただろうけど、多分、それだけではなかった。どれだけ、苦しく辛い日々だっただろう。


「ミア──」


 相手の内心に胸を痛め、自身の無知と無力と無神経に歯噛みしながらミアの方へ一歩を踏み出すと、まだ触れてもいないのに、少女は激しく身体を震わせ、目を見開いた。


「私を、ちますか!? 早く逃げた方が良いと思いますけど! 燃えてしまうんです。私の家みたいに! 旦那様も……どうせ、助からない……っ」


 ミアは、エリーゼが怒って手を上げるとでも思ったらしい。それを恐れたのか、期待したのかは分からないけれど。──どちらにしろ、エリーゼにはそんなつもりはない。エリーゼの目的は、広間を走り出た時から変わっていない。ヴォルフの無事が、彼女にとって何よりも大事なのだ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る