闇と炎の中へ

予期せぬ再会

 無礼にも王女の手を握りしめたまま、エリーゼは必死に訴えた。


「アポロニア様、どうか行かせてください」


 王女は動けなくても、エリーゼはただの小娘だ。夜会の客が去った今なら、顔を知っている者もさほど多くないだろう。「内通者」としての役割は、先ほど彼女自身が手ひどく拒絶したから、王太子もギルベルタも、彼女が思い通りにならないと悟っているはず。武器庫に近づいて無駄死にするなら願ってもないと、見逃してくれるかもしれない。


「私に注意が向けば、御身は自由に動けるかもしれません。──怪しい動きをしている者を、抑えることができれば……!」


 王女を狙った刺客は口封じをされた。でも、武器庫を爆破した者、恐らくはいるであろうヴォルフを襲った者たちは、まだ闇に紛れて動いているかもしれない。その者たちを捕らえれば、王子の企みを暴く証人になり得る。


「エリーゼ。なんて、諦めの悪い……! ええ、でも、可能性があるなら……!」


 エリーゼの策とも言えない策、進言とも言えない進言を聞いて、でも、アポロニアの唇がほんのわずか微笑んだ。遠巻きに見守る兵の目を憚って、その唇がエリーゼの耳に寄せられる。囁き声での密談を聞き取ろうと、ヴァイデンラント伯爵が女ふたりのすぐ傍ににじり寄る。そして──


「エリーゼ! 貴女が行っても仕方がないでしょう! 戻りなさい!」


 アポロニアの大声を合図に、エリーゼは走り出した。


「私が連れ戻します! アポロニア様はここに……!」


 ヴォルフリート将軍の奥方は、恐怖と混乱のあまりに正気を手放したのだ。夫を裏切った後ろめたさのためか、夫を案じる一心によってか、いつ崩れるか火の手が上がるかしれない武器庫に向かってしまったのだ。──という、演技だった。武器庫の場所もエリーゼは知らないけれど、伯爵が案内してくれる。王女の命で、飛び出した将軍の奥方を追うのだ。細身の女とはいえ、狂乱して暴れるエリーゼを持て余してあらぬ方向へ──武器庫の方へ行ってしまっても仕方ない。

 強引でも辻褄が合わなくてもそうするしかないと、三人で数秒の話し合いによって決めた。


(ヴォルフ……アポロニア様……どうか無事で……!)


 走り出した以上、止まることも振り返ることも許されない。危機にある夫と、後に残す王女を思って、エリーゼは疲れと息切れに壊れそうな四肢を叱咤した。



      * * *



「──こっちです」

「は、はい」


 広間から、そしてさらに建物から出て庭園に降りると、エリーゼとヴァイデンラント伯爵は順番を入れ替えて進んだ。狂乱して駆け出したという体のエリーゼを追うのではなく、伯爵が先に立つ形に。走るのに向かない華奢な靴を履いているエリーゼを補うように、あるいは半ば引きずるように、貴公子は彼女の腕を取って支えながら進んでくれている。


「あの……アポロニア様は、大丈夫でしょうか」


 華やかな王宮も、夜になれば当然のように暗い闇に沈んでいる。夜会の日に用がある者も少ないであろう武器庫の辺りはなおのこと。暗がりが怖いのはもちろん、どこにマクシミリアン王子の手の者が潜んでいるとも知れない。不安に耐えかねたエリーゼが話しかけると、伯爵はちらりと彼女を見下ろしてきた。無駄口を叩くな、とでも言われるかと一瞬恐れたけれど、意外にも伯爵は漠とした問い掛けにしっかりと答えてくれた。


「私の配下も、王女殿下を支持申し上げる者も、いない訳ではありませんから。それに、あちらがこうもなりふり構わないと分かった以上は、何かしらの成果が欲しい。せめて牽制する材料がないと……」


 伯爵の説明に安堵すると同時に、エリーゼは自身が負う役割の重さを確認して背筋を正す。マクシミリアン王子にやられたままではいられない、ということだ。ヴォルフを味方につける目論見が潰えれば、アポロニアが兄王子に対抗するのは難しくなる。ヴォルフを助けることができれば最善、たとえ無理でも──黒幕の存在を示す証拠の一端なりと、持ち帰らなければならないのだ。


「王子様があのような方だなんて……トラウシルト家の令嬢たちも、あの方に憧れていましたのに。尊い上に、美しい方ですから」


 だから、証拠がなくては王子の陰謀など信じる者は多くないだろう、と。エリーゼが呟くと、伯爵も大きく頷いた。


「優秀な方ではあったのです。次代の王に相応しくあれと望まれて、応えてこられた。いつの間に、功績を作り上げては盗み、罪を作り上げては告発するやり方を覚えられて……」


 マクシミリアン王子の手管の集大成とも言えるのが「ヴォルフリート将軍」なのだろう。王となる方を飾り立てるために救国の英雄は作り上げられ、そして増長した逆賊として葬られようとしている。


「そのようなことは、許されるものではありません」


 心の底からの憤りを込めた呟きに、伯爵は頷いて同意を示してくれた。そしてふと、周囲を見渡して首を傾げた。夜の闇に白く浮かび上がる横顔が、不審に眉を寄せているのが見て取れる。


「……やけに静かだな。追手を警戒していたが……」


 確かに。広間などは──エリーゼが言えた喩えではないのだろうけど──戦場のような物々しさが漂っていたし、兵士たちもたむろしていたというのに。爆発という一大事があったはずの武器庫の近くまで来たというのに、不気味なほど人気がない。伯爵の配下とやらが食い止めてくれているとしても、争いの気配さえ感じられないのは、何かしらの罠、ということなのだろうか。


(とにかく、進むしかないのだけど……)


 じわじわと這い上る不安を押し殺し、痛み始めた足を引きずるように進むうち──伯爵が、闇の一角を指し示した。


「あれが、武器庫です。……ひどいな」


 深い紺色の空と、黒々とした木の茂み。その間に、また違う質感の黒が聳えている。もとは堅牢な建物だったであろうことが、角ばった輪郭から窺える。武骨な印象のその建物の真っ直ぐな屋根の線は、でも、唐突に途切れていた。爆破によって崩れ落ちたのだろう。火薬の名残らしい焦げた臭いがエリーゼの鼻を刺激した。


(この下にヴォルフが……!?)


「待ちなさい」


 確かめたい一心で飛び出そうとした彼女の腕は、まだ伯爵に掴まれていた。押し殺した声が、彼女の軽挙を戒め、警告する。


「王宮の中に大量の火薬を保管しているはずは、本来はないのですが。なのにあれだけの爆発です。王子殿下が何を仕込んだかは分からないし、儀礼用の砲台なんかもあるはずだし……慎重に進まないと──」


 武器庫に侵入する経路を検討しているのか、伯爵は闇に聳える影を睨んで早口に囁いた。それにエリーゼが答える前に、高く細い声が、風に乗って届く。


「奥様……!」


 少女の声だ。エリーゼがよく知っている声でもある。でも、ここで聞こえるはずがない声だ。一瞬だけ、ヴォルフの屋敷にいて夢でも見ていたのかと思って、エリーゼは頼りなく「彼女」の名を呟いた。


「……ミア?」

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