彼を迎えに

「それなら、貴女も逃げなければいけないでしょう」

「エリーゼ嬢……!」


 伯爵の手を振り払って、エリーゼはミアに近づいた。ミアに、というか──崩れかけた武器庫の方へ。こうして問答している時間も、本当は惜しいのだ。一刻も早く、ヴォルフのところへ行かなくては。


「ミア、通して」


 ミアが両手を広げて立ちはだかるのを、エリーゼはけようとした。細い少女なのに意外なほどに力が強く、揉み合いになったエリーゼは声を張り上げさせられる。


「──どうして危険な場所に留まっているの……!?」

「奥様には関係ないでしょう!」


 まだ奥様と呼んでくれるのが、少し悲しく少しおかしく少し嬉しかった。屋敷で過ごした日々の中、ミアと仲良くなれたと思ったのが全くの嘘でなければ良い。エリーゼの物知らずや、ヴォルフとのやり取りに苛立たせたとしても、一緒に笑った瞬間もあったのだから。あの時間がミアにとっても意味があったなら──今の彼女が、復讐の喜びに満たされているだけのはずがない。


「罪滅ぼしにお供しようというのなら──貴女は旦那様と同じことをしようとしているのよ」

「──っ」


 ミアが息を呑んで体勢を崩した隙に、エリーゼはミアの肩を掴むことに成功した。抵抗を封じておいて、顔を間近に近づけ、目を覗き込んで言い聞かせる。


「私のことはどうでも良いの。ヴォルフが罰を待っていたのは知っているでしょう。『あの日』、心臓を差し出そうとしたのも聞いたでしょう。あの方は、ずっと苦しんでいたのよ」


 ミアも、ヴォルフと同じように裏切りという罪の埋め合わせに死を選ぼうとしている。わざと危険な場所に留まって、仇の死を見届けてから自身も焼かれるつもりなのだ。とても生きてはいられないというような重い罪の意識──それを、憎い仇のヴォルフも持っていたと、ミアは確かに知っているはず。エリーゼがゆっくりと語り掛けるのは、教えるためでなく思い出させるためだった。

 そして、エリーゼは成功した。ミアは俯き、その身体からは力が抜けて、エリーゼを通すのを許してしまう。


「駄目。奥様、行ってはいけません。もう仕掛けは動き出してるんです……!」


 声だけは縋るようにエリーゼを追いかけるけれど、それもいかにも弱々しい。少なくとも、エリーゼを止めるには到底及ばない。ミアの肩から手を放し、そっとヴァイデンラント伯爵にその身体を委ねながら、エリーゼは半ば振り向く形で、告げた。


「貴女に欺かれたと知ったら、ヴォルフはやっぱり受け入れてしまうかもしれない。私はそれが心配なの。貴女がそうした理由を、彼はきっと分かってしまうでしょうから」


 ミアの怒りも憎しみも正当なもので、エリーゼには裁く権利も糾弾する権利もない。でも、だからといってヴォルフが殺されるのを見過ごすことはできない。だから、ミアのこともエリーゼ自身のことも今はどうでも良い。何よりも大事なのは、ヴォルフなのだから。


「伯爵様。ミア。彼を迎えに行きます。私が行ってあげないと、彼は諦めてしまいそうで」


 エリーゼは、まだヴォルフを信用しきれていないのだ。正当な復讐を退けてでも、共に生きると言ってくれたけれど。復讐の刃をかざすのがミアだったとしても、考えを変えないでいてくれるだろうか。万が一にも炎に身を捧げようなどとしているのだとしたら──引き戻さなければならない。それが、妻の役目だから。

 エリーゼの静かな、けれど有無を言わせぬ宣言に、ミアと伯爵は揃って目を見開いた。驚きに自失してくれたのも一瞬のこと。ふたりは、やはり揃ってエリーゼに詰め寄ってきた。


「それなら私が! 奥様に……ひどいことがあって欲しいとは思わないんです。今は、もう……!」

「そうだ。すぐに引き返して助けを──」

「それでは間に合わないし、ミアには証人になってもらわないといけません。伯爵様、この子をアポロニア様のもとに届けてください」


 それでも、エリーゼの決意が翻ることなどないのだけれど。アポロニアのこと、証人──無論、マクシミリアン王子の陰謀の──のことを口にすると、伯爵も表情を改めてミアをしっかりと抱き寄せた。この少女こそ、彼が切望していた、王子を牽制する術になるのかもしれないのだ。


 一方のミアは、伯爵の腕の中で茫洋と目を瞬かせている。


「証人……私が?」

「もしも、私かヴォルフに悪いと思ってくれているなら、だけど。いいえ、そうでなくても……。ミア、『ヴォルフリート将軍』に非道を強いたのは王子殿下よ」


 戸惑うように首を傾げたミアを、エリーゼは哀れに思った。ミアが直接マクシミリアン王子から言葉を賜る機会はあったのかは分からないけど、人づてだろうと手紙を介してだろうと、あの方はミアをも惑わして疑わせなかったのだろうと思う。──少なくとも、今までは。


「王女殿下は、王子殿下の悪事を暴こうとなさっているの」


 王女について語った時のミアの憤りも、そのように吹き込まれたのかもしれない。そう気付いて、エリーゼはそっと付け加えた。すぐに呑み込むことは難しいだろうけど、アポロニアに目通りすれば分かってくれるかもしれない。

 ヴォルフの命が潰えようとしているのを目の当たりにして、けれど満足したようにも見えなかったミアだ。自身の想いも、今まで教え込まれたことも、疑い迷い、顧みて欲しい。願いを、そして別れの意味を込めて、エリーゼはそっとミアの頬に触れた。


「ヴォルフはきっと、手を下した者が憎まれて当然と言うでしょう。でも、もしも貴女が違うと思ってくれるなら──」


 その上で、エリーゼが望むように振舞え、などとは言い切ることもできないのだけど。でも、ミアは小さく、けれど確かに頷いてくれた。抱え込まれるのでなく、自らの意思で伯爵に寄り添う姿勢を見せた。それこそが、彼女の答えと思って良いのだろう。


(アポロニア様ならきっとミアを悪いようにはしないわ……)


 安堵に頬が緩むのを感じながら、エリーゼは今度こそふたりに背を向けて、崩れかけた武器庫へ続く道を急ごうとした。


「奥様!」


 そこに、ミアの声が追って来た。エリーゼを止めようというのではないだろう。鋭いけれど、決して取り乱している訳ではない。むしろ、何かの決意を固めたかのような響きがある。思わず振り向くと、闇の中でほのかに窺えるミアの表情にもまた、声音を裏付ける必死さが見えた。


「最初の爆発は、出口を塞ぐためだそうです。だから……入るなら窓とかから。火が少しずつ回る仕掛けになってるから、急いでください。あの方は、奥の、砲台のところにいるそうです」


 早口にミアが捲し立てたのは、まさにエリーゼが必要としている情報だった。マクシミリアン王子に対しては裏切りになること、自身の身に危険を招きかねないことを、打ち明けてくれたのだ。エリーゼの言葉を聞いた上での、これが、ミアの結論なのだ。


「──ありがとう」


 きっと、一瞬の間に逡巡も葛藤もあっただろうに。エリーゼの命など惜しまず、黙っていれば復讐が叶ったかもしれないのに。それでもこの選択をしてくれた。その事実に胸を衝かれて、ひと言呟いたきり、エリーゼは不覚にも立ち止まってしまう。訳の分からない感情によって目の奥が熱くなり、ミアの姿が歪む。


 涙ぐみそうになったところを叱咤したのは、ヴァイデンラント伯爵だった。


「この娘を無事なところに届けたら、すぐに兵を連れて来る! くれぐれも無理はするな。貴女に何かあればヴォルフに祟られる!」


 ヴォルフの名は、エリーゼにとっては馬に与えられる鞭のようなものだ。彼のためなら、決して止まってはならないと思い出させられる。ミアのためにもアポロニアのためにも、ぼうっといている暇などないのだ。


「そんなことには、させません……!」


 自らの声によっても、意識を切り替える。乱暴に、目を拭って視界を晴らす。アポロニアに教えられた作法で優雅に伯爵に礼をして──走り出す。今夜だけでももう何度目になるだろう。でも、逃げるためではなく勝ち取るためだ。ヴォルフとの未来を掴むために、まだ、休むことなど考えてはならないのだ。

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