狼将軍の生贄の花嫁

悠井すみれ

序章

葬送

 青い空に鴉が数羽、飛んでいる。教会を住処にでもしているのだろうか。黒い翼は広げると思いのほかに大きく、晴天に暗雲を落とすかのよう。葬儀の日に似つかわしくない太陽を覆い隠そうとしているのだとしたら、今日、ここに集った人々の想いが鳥の姿を取ったのかもしれない。

 喪服の人々は、影が寄り集まっているようだった。衣装の色が黒一色なのはもちろんのこと、金や銀の髪をいただく人々でさえ、日頃は誇らかに飾り立てるその髪を、女性は慎ましく黒いベールで隠し、男性も撫でつけて弔意を表している。


 エリーゼも、ベールの陰から葬儀の様子を、参列する人々の嘆きを眺めていた。昏く陰った視界は、彼女の心が世界を染め上げているかのようだった。黒い衣装に映えるはずの貴婦人たちの白い首筋や頬も、柔らかな輝きを放つはずの真珠も、どこか褪せて見えてしまって。新緑の季節の柔らかい芝、真新しい墓石、掘り返されたばかりの土の瑞々しさ。本来あるべき美しさも全て、今の彼女には遠い。


「なんてお気の毒な」

「美しい若者だった――」

「勝利したというのに」


 すぐ傍で囁かれているはずの言葉も、遠かった。夢の世界で、知らない国の知らない人々が話すのを聞いているかのよう。それでも、その囁きのひとつひとつが、エリーゼに今の状況を教えては現実を突きつけていた。


(コンラート様は死んだ、もういない……)


 戦場から帰ったら結婚すると約束していた青年は、けれど帰ってこなかった。少しずつ縫っていた花嫁衣裳を置いて、エリーゼは喪服を纏うことになった。多くの人々が集ったこの葬儀の日、彼女はどうしようもなくひとりきりだった。


 目元を拭い、口元を覆う人々が地面に四角く掘り抜かれた穴に、そこに置かれた棺に花を手向けていく。コンラートの――エリーゼの夫になるはずだった青年の死を悼んでいるのだ。喪服の隙間から辛うじて見えるのは、棺にあしらわれた盾の紋章だけ。オイレンヴァルトの国に名高いその紋章は、ふたりが共に高貴な血を受け継ぐトラウシルト家のものだ。といってもコンラートは傍流で、エリーゼに至っては先代の当主が娼婦に産ませた庶子に過ぎないのだけれど。その出自ゆえに、エリーゼは婚約者の葬儀においてさえも、より「正しい」血筋の人々に順番を譲らなければならないのだ。


 参列者が、ひとりひとり花を投げては地上を去った若者と別れを惜しむのを、エリーゼは辛抱強く待った。序列を乱してはならない。分を弁えなければならない。娼婦の血を引く娘がトラウシルト家の名を汚してはならない。それらの教えは、十八年という短い人生で彼女が骨身に染みて学んだことだった。

 それでも、エリーゼはじりじりと墓穴の淵に近づいて行った。亡くなったのが若者とあって、棺にかける言葉が尽きない様子の親族や客たちも、やっと残り数人になった。前にいる喪服の背中を数えながら少しずつ足を進めるエリーゼの腕が、でも、横からぐいと引かれた。


「エリーゼ」

「大奥様……」


 エリーゼを列から離れさせたのは、トラウシルト家を取り仕切る女傑のギルベルタだった。先々代の当主の姉君で、他家に嫁いでからも実家では強い発言力を揮ってきたという。弟やその息子、自身の夫を亡くしてからは、実家に戻って頼りない若輩者たちを厳しく監督している。一族に多い銀の髪は老いてなお豊かで、葬儀の席でなければ結い上げた姿は銀の冠のようにも見える。

 そのような女性だから、エリーゼの腕を掴む指は細く枯れていても力強く、ベール越しに見える薄青色の目は、涙の膜を帯びていてもなお、刃の鋭さで彼女を貫いている。


「コンラートが亡くなったというのに涙ひとつ見せないとは。冷たい性根の娘だ」

「私……私は、あの、胸がいっぱいで……。どうすれば良いか――」


 列を離れた木陰に引っ張られていくエリーゼに好奇の目が突き刺さり、彼女を竦ませる。ギルベルタから直々に詰る言葉を掛けられるのも、震えるほど恐ろしかった。家名を汚すなとエリーゼに叩き込んだのはこの女傑であり、ギルベルタの命令はあらゆる規則の上を行く。老いた女傑は激しやすく気難しく、何を言い出すか、何を咎められるか分からないことも多いからなお怖い。


 人の目も耳も遠ざかったところに辿り着くと、ギルベルタは突き飛ばすようにエリーゼの腕を解放した。堪らずよろけたエリーゼに、体勢を立て直して年長者に対してしかるべき挨拶を行う余裕はなかった。それも許しがたい無作法であるかのようにギルベルタの冷たい目は彼女を責める。


「どうせ自分のことで頭がいっぱいなのだろう。お前は母親にそっくりだもの。次の男を見つけなくてはと、そう考えているに違いない」

「そのようなことは――」


 言われて目元に手をやり、乾き切っていることに初めて気付いて驚きながら、エリーゼは必死に反論しようとした。ギルベルタに言われたことは、思いもよらないこと、心外極まりないことだった。でも、同時に彼女に行く末の暗さを直視させるものでもある。

 一族の他の娘たちのように、望まれて良家に嫁ぐ道はエリーゼにはほぼ閉ざされているのだ。正しい結婚によって生まれた娘ではないから、妻に迎えたところでトラウシルト家の財力や権勢の恩恵に浴せる訳でもない。彼女自身に財産が分け与えられる訳でもない。娼婦の母を持つ娘を迎え入れることの見返りを、エリーゼは夫になる人に与えられない。コンラートがギルベルタに願ってくれなかったら、彼女は一生を屋敷の片隅で使用人に交じって終えることになっていただろう。


 突きつけられた自身の立場に打ちのめされて、エリーゼが絶句している間に、ギルベルタは深々と溜息を吐いた。


「私がどう頑張っても、お前に恩を教えることはできなかったようだ。庶子の身で我が家に留まることができるのも、人並みに夫を得ることができるのも、信じられぬ僥倖だったというのに」


 僥倖は二度と巡っては来ないと、ギルベルタは暗に告げていた。そうだ、一度は逃れた暗い未来が、再びエリーゼの道を塞いでいる。同じ年頃の令嬢たちが舞踏会に行くのを見送り、ドレスを繕い、そして次の世代にも同じように跪き傅くのだ。卑しい生まれを蔑まれ、荒れた髪や手を笑われながら。


「……聞いているのか、恩知らずの礼儀知らず」


 与えられるのは屈辱だけではない。ギルベルタが握る杖が、嘆かわしげに地面を叩く音がエリーゼを震え上がらせる。エリーゼを突き飛ばすことができるこの女傑が、歩くのに杖を必要とすることはない。象牙の彫刻で飾られたその杖は、もっぱら威厳を示すためのものだ。それから――躾のために。卑しい者は口で言っても聞かないからと、エリーゼは礼儀作法というものを文字通り身体に叩き込まれてきたのだ。


 短気なギルベルタが杖の硬い先端を彼女に向ける前に、エリーゼはその場に跪いた。従順さと謙虚さを、彼女は常に全身で示さなければならない。


「はい、大奥様……! 弁えております。あの……このようなことになった以上は、幸せなど望みません。お許しをいただけるなら、修道院に入ります。コンラート様に祈りを捧げて残りの人生を過ごしますから……」


 身の振り方など何ひとつ考えてはいなかったけれど、女傑の勘気を被る恐ろしさにエリーゼは必死に舌を動かした。とにかく、慎みを忘れていないことを伝えなければならないと思ったのだ。


 そのような浅慮は見透かされているのだろう、ギルベルタは苦笑に似た嘲笑を漏らすだけなのだけど。


「恩を返さぬまま聖なる園に逃げようというのか。売女の血を引く分際で?」

「いいえ……。ですが……では、どのようにこの悲しみを表せば良いのでしょうか……?」


 ギルベルタは、かつてコンラートとの結婚を喜べ、泣いて感謝しろと告げたのだ。そしてエリーゼはそのようにした。あの時は、この老貴婦人を満足させることもできたはずなのに。どうすれば良いかさえ教えてくれれば、どうにかそれに叶うように努めるのに。

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