共に歩む未来

「本当に……大丈夫、なのですね? 夢ではないのですね?」

「ああ。貴女のお陰だ。アポロニア様やアンドレアスから、全て聞いた。俺などのために……ありがとう」


 ヴォルフの手が、エリーゼのそれに重ねられた。恐らくは彼の方でも彼女の痛みを慮って、ごく軽く、羽が触れるように。包帯によって隔てられて遠い温もりが、どうしようもなくもどかしい。けれど、強く握る訳にもいかなくて──代わりに、エリーゼは声に力を込める。


「貴方が諦めてしまうのではないかと心配だったんです。ミアに呼ばれたって……『あの時』みたいに、受け入れてしまうのではないのかと。だから、私が行かなくては、と……!」

「ミアか」


 エリーゼの不安を察してくれたのかどうか──ミアの名を聞いて、ヴォルフの眉が微かに寄せられた。次いで、小さな溜息が彼の唇から漏れる。


「違和感は、確かにあったのだ。あの子が来るのはおかしい、と。だが、王子殿下と貴女が一緒にいると聞いて冷静ではいられなかった。……あの方がここまでのことを仕組んでいたとは、考えてもいなかった」


 ヴォルフが顔を顰める理由は、どうやら悔恨にあるらしかった。ミアを疑わずについて行ったことで囚われて──それで、目覚めたら炎の中、だったのだろう。不覚と思うのも無理はないけれど──


(気にしないで、良いのに……)


 エリーゼは、密かに喜んでいた。ヴォルフは、ミアの復讐に付き合うつもりはなかったようだから。マクシミリアン王子に連れ去られた彼女のことを、案じてくれたようだったから。共に生きるというヴォルフの決意が揺らいでいなかったのなら──エリーゼとしては、それだけで良い。

 ヴォルフの心を知り、温もりに触れて、エリーゼの心にも余裕が生まれた。最大の懸念は去ったとしても、気になることはまだいくらでもある。心に浮かんだ疑問をそのまま、次々に並べてヴォルフに迫る。


「王子殿下はどうなりましたか。アポロニア様は……!?」

「俺はこの通り生きているし、ミアの証言もある。彼女の部屋にはあの方からの手紙もあったということで──病床の陛下のお耳にも、アポロニア様が届けてくださる。王位継承についても、考え直してくださるだろう」


 マクシミリアン王子の陰謀は潰えた、と。はっきりと聞くことができて、エリーゼは安堵の息を吐いた。アポロニアやヴァイデンラント伯爵は、情報を正しく使ってくれるのだろう。王子が失脚すれば、ギルベルタやトラウシルト家にも累が及ぶのかもしれないが──仕方ないと、思うしかない。王女の襲撃や武器庫の爆破に直接関わっているならば罰があってしかるべきだし、そうでないなら、社交界や政治の場で肩身が狭くなるくらいの、その程度の浮き沈みは名家の歴史の中ではよくあることのはずだ。


(あとは……聞いておきたいのは……)


 頭の中を必死に整理しながら、エリーゼは舌を動かした。眠りから覚めたばかりのぼやけた頭に、全身の痛みと疲れもあって、思考がどうにも緩慢だった。


「ミアはどうなりますか。罪に問われることは、ありますか」

「王子殿下のこと自体がどこまで表沙汰になるか分からないからな。ミアについてはなおさら、公に問えるような罪はないだろう」


 対するヴォルフは、間を置かずにはきはきと答えてくれる。エリーゼがミアのことを尋ねると、予想していたのだろう。彼女の顔色を窺って、彼の目がわずかに揺らいだ。


「アポロニア様は、俺と貴女が許すなら功罪を帳消しにすると言ってくださった。この屋敷を出ては、王子殿下に狙われることもあり得るし──」

「はい。もちろんです。貴方が良いなら、私だって。ミアがずっといてくれるなら、嬉しいです」


 ミアには、既に謝ってもらっている。エリーゼが寝ている間に、ヴォルフにも同じことをしただろう。エリーゼを止めようとしてくれたこと、ヴォルフの居場所を教えてくれたことで、彼女の償いも心の整理も済んでいるはず。これ以上ヴォルフの命を狙うようなこともないと思う。それより、罪というなら──


「あの、私……王子殿下を殴ってしまったのですが。それについては……」

「貴女は勇敢だな」


 小さな声で打ち明けたエリーゼに、思わず、といった様子でヴォルフは吹き出し、そして傷の痛みに呻いた。けれど、顔を歪めつつも、彼の目は朗らかに笑んでいた。


「それについては初耳だった。ご自身で告発していないということは、恥と心得てくださっているということだろう。ならば問題はない。後でアポロニア様にお伝えすれば、きっと喜ばれるだろうが」

「私、必死だったんです。貴方の、妻ですから。その……許してしまう訳には、行かなかったので……」


 乱暴な女だと思われることを恐れて、エリーゼは言い訳がましく説明した。マクシミリアン王子に触れられたことを思い出すと肌が粟立ち、ヴォルフの手に縋ってしまう。詳しく説明することも憚られたからひどく曖昧な物言いになったけれど、ヴォルフは、あえて聞こうとはせずに済ませてくれた。


「嬉しいことを言ってくれる」

「あ──」


 代わりに、ということなのかどうか。不意に抱きすくめられて、エリーゼは声にならない悲鳴を上げた。痛みもあるし、羞恥も驚きもある。でも、何よりも──嬉しかった。ふたりともが生きているということ、互いを抱きしめる腕があり、無事を喜ぶ言葉を囁き合える声があるということが。炎の中で、共に燃え尽きることを覚悟した瞬間もあったのに。今こうしていられるということは、それを思えば奇跡のようだ。


「死んでも良い、というか……生きていて良かった、というか……」


 ヴォルフは、まだエリーゼを気遣って力を込めないでいてくれる。でも、真綿で包む程度の抱擁ではとても足りなくて、エリーゼは思い切り彼を抱きしめた。ヴォルフが小さく呻いても許さない。弱気な言葉を聞かされたことへの抗議でもあるのだから。


「死んではいけません。これからも、ずっと」

「ああ、そうだな」


 失言に気付いてか、ヴォルフが苦笑した気配を肌に感じた。彼も──遠慮がちにではあるけど──腕に力を込めてくれて、与えられる痛みに、甘く喘ぐ。痛みを感じるのも生きていればこそと思うと、喜びが勝った。

 互いの温もりと痛みをしばらく分かち合った後、ヴォルフはエリーゼの頬に手をかけ、軽く上向かせた。真摯な目が、間近に彼女を見つめている。


「俺は、これからも軍人であり続ける。アポロニア様にお仕えするからには何もしないではいられない。だから、戦場に出ることも、あるだろう」

「はい」

「これまでは、借り物の策で臨むばかりだった。一から学び直すにしても、どれほど通用するか──簡単な道ではないだろう」

「はい」


 ヴォルフが戦場に赴く。人を殺し、命を狙われる。また、傷を負うこともあるだろう。かつてならば、想像するだけで恐ろしい事態だった。止めて欲しいと、懇願していたかもしれない。でも、今ならただ静かに頷くことができる。彼の目からは、かつての諦めや死を望む気配が完全に失われていたからだ。代わりに、強い決意が伝わってくる。


「だが、必ず帰る。少なくとも、そのように務める。決して、命を軽々しく投げ出しはしない。『ヴォルフリート将軍』が手段を問わないとしたら、これからは生きて妻のもとに帰るために、だ」

「そのようにしてくださるのを、心から望みます。貴方の帰る場所は、私が守ります。常に、ご無事を祈ってお待ちしています」


 彼の決意に、エリーゼも確かな決意をもって応じた。炎の中からも戻った彼のことを、信じるのだ。そして、彼女の方も。夫の信頼に足る妻でなければならない。そのために学び、努力し、成長するのだ。マクシミリアン王子にもギルベルタにも、再び陥れられることがあってはならない。

 エリーゼの答えを聞いてヴォルフは微笑み──もう一度、彼女の身体を抱え直した。


「……貴女には休養が必要だ。食事も着替えも……だから、早く退散しなければ、と思うのだが──」


 名残惜しげな呟きが可愛らしくて、エリーゼも唇を綻ばせ、甘えるように彼の胸に頭を寄せた。離れるなんてとんでもない。時間の許す限り、ずっとこうしていたいのに。


「まだ行かないで。もう少し。貴方がいることを確かめさせて。その方が早く元気になれると思います」

「愛している」


 おずおずと寄せられた唇を、エリーゼは喜んで受け入れた。婚礼を挙げた夫婦だというのに、口づけを交わすまでにもこんなに時間が掛かってしまうなんて。それに、愛の言葉も、だ。随分長い間、それどころではなかったのだ。でも、もう躊躇う理由はない。


「私も……!」


 扉が開く音がして、そしてすぐにまた閉じた。一瞬だけ見えたミアの顔は、ひどく赤くなっていたような。気を遣わせることになってしまっただろうか。でも──それなら、しばらくは放っておいてくれるはず。


 エリーゼは目を閉じると、夫の口づけと抱擁に溺れることにした。

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