ひどくて、お似合い


 絹が擦れる滑らかな音を聞きながら、エリーゼは寝台から抜け出した。椅子に掛ける将軍の前に膝をつき、間近に目を覗き込んで、語り掛ける。


「この屋敷での日々は、私の人生で一番穏やかな時間でした。何にも怯えなくて良いと、すぐに気付きました。そもそも、トラウシルト家を出ることができたのも貴方のお陰です。貴方は私の命を救ってくれたのも同じです。私は、今まで生きていなかったから……」


 ミアや子供たちの感謝も、この方の心を軽くするには足りないらしい。偶然に命を救ったとしても、気休めにしか過ぎないのだとか。でも、エリーゼの事情はミアたちとは少し違う。将軍が非道と考える行いによってこそ、彼女は救われたのだ。コンラートから逃れることができた。トラウシルト家の人形に過ぎなかった身が、操り糸を切ることができた。自ら動き、自ら考えることを知ることができた。


「貴方が仰る罪こそが、私を救ってくれました。私の罪を、教えてくれました」


 胸の前で手を組み合わせて紡ぐのは、それこそ祈りのようだったかもしれない。この方を救いたいという、何者かに対しての祈り。エリーゼを救ってくれたこの方に対しての祈り。コンラートのことを祈った時よりもよほど切実に、届いて欲しいと心から思う。


「……私などが言っても、何にもならないのかもしれないのですが! 貴方がいてくださって良かった、と思います。どうか、ご自身を責めることはお止めください」

「貴女に少しでも安らぎを与えられたなら、それは喜ばしいことだ。だが、俺の罪は消えないだろう」


 今のエリーゼがあるのは、将軍がいればこそ。そう伝えたいのに、彼の表情は強張ったままだ。やはり、エリーゼの思いなどこの方にとっては関わりのないものなのかもしれない。しょせん、たまたま押し付けられた女に過ぎないのかも。

 そう思うと消え入りたいような気分になる。それでも、将軍によって呼び覚まされた勇気をかき集めて、エリーゼはおずおずと手を伸ばした。この方はコンラートとは違う。だから、触れても怖くないのだと、自分に言い聞かせて──手を、重ねる。彼の手はびくりと震えるけれど、逃げることを許さずに、しっかりと掴む。


「戦場でのことは、私は何も知らないのですが。少なくとも、コンラート様のことなら、私も背負います。だから――」


 だから、どうしようというのか――エリーゼも、はっきりと思い描いて言ったことではなかった。彼女にとってはとてつもなく大きかったコンラートの存在も、将軍にとっては数多くの死者のひとりに過ぎない。彼の死を願った罪は、ヴォルフリート将軍が苛まれる罪の意識とは釣り合わないのかもしれないのに。彼女はもうすぐこの屋敷から出ることになるかもしれないのに。そうなったら、将軍と会うことも二度とないのに。熱い炎が触れたかのようにエリーゼの手から逃れようとする、将軍のそんな挙動にも、夫婦などではなくただの他人なのだと思い知らされる。でも、彼の顔に浮かんだ戸惑いのようなものは、訳の分からない戯言をどう宥めるか困っただけではないような気がした。


「共に背負う、か……? そんなことは、考えたこともなかったな……」

「それこそが私の望みです。本当の望み……。叶えては……いただけないでしょうか……」


 眉を寄せたままの将軍が唇を強張らせる、その間の沈黙が重く、恐ろしくてならなかった。やがて、彼が吐き出した深い息も。


「あまりに都合が良すぎて、信じられる話ではないな」

「……はい……」


 そして、彼が紡いだ言葉も。将軍の傷はあまりに深く、罪の意識はあまりに強くて、エリーゼには触れることもできないのかと思わせられたから。彼女がどれほど言葉を尽くしても、心の鎧に弾かれてしまうだけなのかと。でも、彼はエリーゼが膝の上に重ねた手を、そっと握り返してくれた。


「信じたら……信じても良いなら。俺は、貴女に縋るぞ」

「はい」


 男の人の硬く大きな手に、エリーゼは思わず身体を強張らせてしまったけれど。でも、将軍の方から彼女に手を伸ばしてきたのは初めてのことだった。驚きに全身を殴られたように感じながら、それでも、エリーゼは努めて表面には出さないように、将軍の目を見返すことに集中した。彼女が紡いだ願いは、確かに将軍の言葉を揺さぶっていたと分かったからだ。


「最初の夜に、乱暴に触れてしまっただろう。ひどいことをした……!」

「わざと怖がらせようとしていると、分かりました。とても優しい方だと、もう知っています」


 将軍は、エリーゼの反応を窺っていた。怯えや躊躇いを見せることがないかどうか。半端な覚悟での申し出ではないのかどうか。信じたら、と仮定を口にしながら、この方はまだ彼女の心を疑っている。ならば、何があっても頷かなければならないだろう。


「離さない――離せなくなる。危険に晒すことになると、知っていても! 今日の奴のような類だけではなく、貴族の連中にも狙われるかもしれない。どんな言いがかりをつけられるか分からない。それでも、やっぱり嫌だと言われても、もう聞けないぞ?」

「でも、先ほどのようなことは、もうなさいませんね……? 私が、悲しみますから」


 だから、エリーゼは微笑んで掌で将軍の頬を包んだ。彼が隠そうとしているらしい右半分さえ恐れてはいないと示すために。彼女は何があっても見捨てないと伝えるために。喉に感じた刃の冷ややかさを思い出すと、心臓が氷の手に掴まれるような恐怖を感じずにはいられないのだけど。でも、素肌で触れた将軍の頬の温もりは、その恐怖も溶かしてくれる。この方がむざむざと自分の命を投げ出そうとすることの方が、よほど恐ろしい。


「そう、なるな……」


 エリーゼの答えに安堵したのか、それとも疑いを深めただけだったのか。将軍はどちらとも取れない曖昧な面持ちで首を傾げた。その動きによってエリーゼの手に頭を預けることになって、慌てたように身体を引く。その様子を可愛いとさえ思ってしまうのは、不遜なことだろうか。


「復讐を望まれたら、応えるべきだと思っていた。罪に対しては罰があるはずだからな。だが、正当な復讐者を退けなければならなくなるのか……!?」

「はい。そうして欲しいと、思います」


 もう何度目か、エリーゼは大きく首を頷かせた。捕らえられたあの男がどのような末路を辿るのかに思いを馳せて、暗い予感しかないのに慄きながら、それでも笑みを絶やさずに。肉親を失った上に、あの男は自身の命までも失うのかもしれない。なのに、エリーゼはそれも仕方ないと思ってしまっている。他の誰がどんな目に遭ったとしても、将軍が無事ならそれで良い。躊躇いなく断言すると、将軍は大きく目を瞠った。


「貴女はひどいことを言う」

「はい。私はひどい女です」


 親しい人、愛しい人を奪われれば、奪った者を憎み恨むのが普通なのだろう。エリーゼは愛するべきだと言われた人を愛さず、その人を死に追いやった人を愛してしまった。多くの人の命を奪うのと、一体どちらが罪深いのだろう。


「だから――お似合いだと思いますわ」


 最後まで言い切ったかどうかのうちに、エリーゼの身体と視界が揺れた。将軍が、腕を伸ばして彼女を抱きしめたのだ。おそらくは彼女のことを慮って、ほとんど力は込められていないけれど。でも、確かに抱擁だった。


「それなら、俺も望んでしまう。貴女に傍にいて欲しい。途方もなく重い罪を、許してくれる人が欲しい。生きていても良いのだと、誰かひとりでも言ってくれるなら、俺は――」

「はい。どうか生きてください。できれば私も共に。そのためにできることなら、何でもします……!」


 エリーゼの願いは、とりあえずは叶えられた。その喜びを噛みしめながら、同時に不安も忍び寄る。エリーゼが何も知らず、何もできないことには変わりはない。ヴァイデンラント伯爵も、彼女が意思を翻したとなれば眉を顰めるだろう。トラウシルト家の思惑は知れないままだし、将軍が狙う者もまだ多くいるらしい。やっと得た喜びも叶えた願いも、すぐにも失われてしまうかもしれない。


 それでも、全ての不安に目を瞑って、今は相手の温もりを全身で感じていたかった。

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