王女アポロニア

名前を呼ぶ

 翌日、ヴォルフリート将軍がエリーゼと一緒に朝食を取ると言い出すと、ミアは目を丸くして驚きの顔を見せた。エリーゼが屋敷に来て以来、初めてのことだったからだ。例の望みを口実に、書斎に押しかけたりはしていたけれど、形ばかりの夫婦が共に過ごす時間はこれまでは決して長くなかったのだ。


「奥様、昨夜、何があったんですか……!?」

「何も。少しお話しただけよ」


 耳打ちされたエリーゼは、苦笑して答える。決して嘘ではないことを。昨夜、抱擁を交わした後は、将軍は自らの寝室に帰っていった。心身共に疲れたエリーゼには休養が必要だからと言って。だから、彼女たちふたりは、まだ本当の意味での夫婦ではない。伴侶としての感情を育めるかも、分からない。それでも、確かに心の距離は近づいた。そして、将軍の心は死から遠ざかったと思いたい。だから、エリーゼの笑顔は自然で朗らかなものだった。


 今までのエリーゼには似つかわしくない笑顔だったからだろう、ミアは、心底不思議なものを見たかのように目を瞠る。


「昨日のことも、すごく驚いたんですよ? 旦那様が、奥様を助けてくださるなんて思わなくて……」

「ええ、私もすごく驚いたの」


 助けてもらったこと、というか、将軍があまりにも軽く自らの命を扱うことに対して。目の前で命が投げ出されようとする場面を見るのは、とても、怖かったけど──


「でも、これからはあんなことはなさらないわ。そう、約束してくださったの」

「そう、ですか……」


 安心してもらおうとミアの耳に内緒話のように囁くと、少女はますます信じられないといった風に目を丸くして首を傾げていた。




 書斎で将軍と時間を過ごすことができるのは、これまでの日々と同じ──ただし、今日からは他愛のない雑談ではなく、今後についての具体的な話を聞かせてもらえるのが違っていた。


「やはり、アンドレアス──ヴァイデンラント伯爵には会ってもらわなければならないと思う。更には、アポロニア王女殿下にも御目通りしなくては」

「……はい」


 この期に及んで初めて、エリーゼは王女の名を知った。これまで何ひとつ分からずに戸惑うばかりだったのが嘘のようだ。それだけ、将軍は彼女を関わらせずに安全な場所に追いやろうとしていたのだろうと思う。


 彼女が知りたいと思っていた情報さえ、今となってはごくあっさりと与えられた。

 「ヴォルフリート将軍」を作り上げたのは誰か、ということだ。


「俺に策を授けたのは、王太子殿下だ。貴い方がなさることではないことになっているから、直にそうと伺ったことはないが、『ヴォルフリート将軍』の功績は王太子殿下に帰している」

「では……貴方を、その、今になって遠ざけようとしているのも……?」


 ヴォルフリート将軍を作り上げた──世の人が恐れる悍ましい策を考え、この方に命じた者こそ、エリーゼが憎み憤る敵ということになるだろう。一度だけ会った貴公子がまさにその仇敵だと聞かされて、エリーゼは腸が捻じれるような奇妙な違和感に襲われた。病床の父王に勝利を献じた輝かしい王太子。妹姫を案じ、エリーゼを哀れんだ美しく慈悲深い青年。その方がそのような卑劣なことを企んだなど、にわかには信じがたかった。


(いえ……でも、この方がそう言うのだもの)


 当事者である以上に、この方はエリーゼの夫で、共に生きると決めたのだ。ならば、この方の言葉を信じなければならない。事実、ヴォルフリート将軍は、エリーゼの問いにはっきりと頷いた。


「そうだ。そろそろ用済みとの思し召しだ。王座に就く方に醜聞があってはならないしな。そもそもファルケンザールとの決着を試みたのも、次代の王に箔をつけるためだとか」


 次々と聞かされる大それたことに、眩暈がしそうなほどだった。エリーゼは、実家のトラウシルト家が将軍の命を狙っていると思い込んでいたけれど、もっとずっと高貴な方も陰謀に関わっていたのだ。もちろん、ギルベルタやトラウシルト家の当主は全てを承知していたのだろうけれど。その上で、若い令嬢たちの前では、ヴォルフリート将軍の「野心」に憤ってみせたのだろうけど。


 エリーゼが知らなかった──知らされなかった、知ろうとしなかった──だけで、この国は外に対しても内に対しても激しい戦いが行われていたのだ。


「アポロニア殿下は、俺を手中にすることで兄君に対抗なさりたいのだ。残虐な狼将軍を身をもって鎮め、飼い馴らしたと──そのような評判を求めておられる」

「王女殿下は、本当に貴方と結婚なさりたかったのですね……」

「そして、更にこき使うおつもりだ」


 将軍は冗談めかして笑うけれど、エリーゼは応えることはできなかった。王女の思惑は、この方にまた酷いことをさせようということ、自身にはできない汚れた仕事をさせる手先にしようということに違いないから。そしてそうなれば、トラウシルト家や王太子はますますこの方を嫌い恐れ、容赦なく命を狙うことになるだろう。でも、少なくとも王女はこの方を守るだけの力が確実にある。大切な駒であればなおのこと、使い捨てられることはないはずだと信じたいけれど。


「こき使われる……おつもりですか」

「それが生きる道ならば。貴女の望みを叶えるためならば」

「申し訳──いえ、ありがとうございます」


 謝る場面ではないはずと自らに言い聞かせて、エリーゼはただ礼の言葉を述べるに止めた。手を汚し続けてもこの方に生きていて欲しいと、強請ったのは彼女自身だ。


「叶える代償に、俺からもひとつ望んでも良いだろうか」

「はい。何なりと」


 自分にできることがあるのだろうか、と恐れながらも頷くと、将軍はどこか照れ臭そうな表情を浮かべた。


「ヴォルフと、呼んでほしい。俺の、元々の名だ。将軍に任じられた時に、少し仰々しくされたのだが」

「伯爵様も、そのようにお呼びしていましたね。この屋敷の方たちも……」

「そうだな。だが、あの方はそうとは知らない。単なる愛称と考えていらっしゃる」

「そう、でしたか……。私は、親しくていらっしゃるのだと思っていました……」

「アンドレアスも皆も、厚意はありがたく思っている。だが……俺の全てを明かすわけにも、行かなくてな」


 将軍と伯爵の親密さは、見ればすぐに分かることだ。戦場を共にした使用人と気心が知れているのも当然のこと。余計なことにわざわざ言及してしまったのは、照れ隠しのようなものだった。将軍のごくささやかな望みは、エリーゼにとっても願ってもないもの、躊躇いなく叶えてあげたいもの。けれど一方で、どうしようもなく気恥ずかしくもあった。


「……昨日は、私の名を呼んでくださいました」

「ああ。だから、望みはひとつだ。貴女の名を呼ばせて欲しいと、今さら改めて望むのはおかしい気がするからな」


 時間稼ぎのように呟いたことに、更に恥ずかしく嬉しい言葉が返ってきて、エリーゼの頬は熱くなった。


「はい。私は、全然構わないのです。名前を覚えていただけていて、嬉しかったです」


 頬を抑えて俯く間にも、将軍の視線がエリーゼに注がれているのが分かった。そういうことではなく、と。無言で促されているのを感じて、彼女は恐る恐る、顔を上げる。


「……ヴォルフ。そのようにお呼びしても良いのでしょうか」

「無論。……とても、嬉しいものだな。自分の名前を呼ばれるというのは……」


 やけにしみじみとした述懐に、エリーゼの口元は思わず綻ぶ。


「何度でもお呼びしたいです。ずっと……いつまでも」


 困惑交じりの礼儀正しさではなく、将軍の──ヴォルフの、心からの呟きだと思った。こんな簡単なことで喜んでもらえるのが嬉しいと同時に、この方は普通に名前を呼ばれる相手さえほとんどいなかったと知るのは切なかった。


(これくらいのことなら、いくらでも……!)


 ほんのささやかな慰めでも、相手に与えることができるのはエリーゼにとって驚くべき喜びだった。他人の役に立つことも感謝されることも、これまでほとんどなかったのだから。

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