毛皮か牙か

「貴女は美しいな」

「え……」


 それに、賞賛されることも、エリーゼには稀有な経験だった。聞き間違いを疑って目を見開けば、でも、ヴォルフは真っ直ぐにエリーゼの顔を見つめていた。


「初めて見た時もそう思ったが。それ以上に気の毒だと思った。雪のように青褪めて、今にも倒れそうだったから」

「……あの時のことは、ほとんど覚えていないのです」


 ヴォルフの視線を受け止め難くて目を逸らしながら、エリーゼは嘘を吐いた。本当は、あの日の恐ろしさも心細さもよく覚えている。昨日も、伯爵に言われて思い出したばかりだ。でも、この方の心を知った今では、それらの感情は恥ずべきものだと思うようになっていた。


「だが、今の貴女はより美しいな。……可愛くなった、と言うべきかもしれないが」

「……そんな」


 美しいも可愛いも、エリーゼには無縁な形容詞だった。トラウシルト家の令嬢たちがそのように褒めそやされて傅かれる横で、彼女は身の程を弁えろと言い聞かされてきた。しかも、より可愛くなった、だなんて。ヴォルフがそのように思ってくれるとしたら――とても、幸せなことだ。


「人は心によってこんなにも変わるのだと、教えられた」

「あの……私のこと、でしょうか……?」

「ああ」


 エリーゼの手が、ヴォルフのそれに捕らえられ、優しく包まれた。間近な距離で、黒い目が覗き込んでくる。


「怯えて俺の顔色を窺うばかりだった貴女は痛々しかった。だが、昨日の貴女は俺を叱ってくれただろう。……まだ、信じ切れてはいないのだが。生きていて良いと、言ってくれた」


 彼の言わんとしていることは掴み切れないながら、エリーゼは大きく頷いた。何度でも伝えないと、この方はすぐに自信を失くしてしまうようだから。彼女は、ヴォルフに生きていて欲しい。やむなく命じられたことなど気に病まないでいて欲しい。彼が迷った時は、いつでも頷いてあげたかった。


「だから、俺も心を入れ替えようと思った。非道を為したとしても、許されないとしても──生きて、どう償えるかを考えなければいけないと思うのだ」

「はい。私もお手伝いしたいと思います。あの……できれば、なのですが」


 手を握られる落ち着かなさに、自らの言葉の頼りなさが情けなくて手を退けようとしても、許されない。決して強引ではなく、痛みもないけれど、ヴォルフはエリーゼの手を放そうとはしなかった。


「共に罪を背負ってくれると言ってくれた。ひとりならば、できなかったことだ」

「……っ、はい。どうか、縋ってください。一生懸命、立っていますから……!」


 これからも王女に仕えて使われ続けるのか、という疑問への答えだ、と知ってエリーゼは必死にヴォルフの手を握り返した。復讐を望む者に狙われ、政争に巻き込まれ、過去の汚名にそしられるとしても、生きる。命令によらず、自らの意思で。ヴォルフが言っているのはそういうことだ。そのようにそそのかした以上は、エリーゼは絶対にこの方を見捨ててはならないのだ。


「そう怯えなくても良い」

「ですが──」

「王女殿下は俺を利用したいのだ。だから死なれては困るだろうし──交渉の余地も、あるだろう」


 本心なのか、エリーゼを宥めるためなのか。ヴォルフの笑顔は力強く頼もしくて、エリーゼは見惚れずにはいられなかった。




 エリーゼとヴォルフが並んで出迎えると、ヴァイデンラント伯爵は、整った金色の眉をあからさまに潜めていた。あの襲撃があった日からわずかに数日経っただけだというのに、ふたりの距離の近さも表情も、はっきりと変化を見せているからだろう。先日の訪問の際は、ヴォルフはむしろ伯爵の側に立っていたのに。


「……ほんの短い間に随分打ち解けたように見える。この方に悪い噂が立ってはならないと、分かっているよな?」

「もちろんだ。寝室も別だぞ。何ならミアに聞いてみるか?」


 応接室の隅に控えていたミアは、伯爵の視線を受けて頬を染めながら何度も頷いた。主の言うことに間違いはない、という意味だ。エリーゼとヴォルフは、あの夜にぎこちなく抱き合ったきり。寝台を共にすることはおろか、口づけさえ交わしていない。それは、ひとえにエリーゼを気遣ってのこと。コンラートとのことがある以上、「そういうこと」は、まだ恐ろしいだろうとヴォルフリートは言ってくれた。


「ならばなぜ? この方の身の振り方について、十分話ができたということではないのか」


 伯爵は、エリーゼのことを仮初かりそめにも奥様、とは呼ばなかった。この方にとって、彼女はあくまでも「英雄」に押し付けられた存在でしかなく、その妻として認めることはできないのだろう。


「彼女『と』俺の行き先について、十分に話し合うことができた。だから、王女殿下への取次ぎを頼みたい、アンドレアス」

「狼将軍がトラウシルト家の手先に飼い馴らされたのか。世間はさぞ面白がるのだろうな。そして、アポロニア様は失望なさる」


 伯爵の鋭い視線に怯むよりも、飼い馴らす、などという一語がエリーゼを奮い立たせた。彼女への苛立ちが理由だとしても、ヴォルフを揶揄するような物言いは聞き過ごすことができなかった。


「でも、王女殿下は『ヴォルフリート将軍』を得ます」

「貴女の実家に邪魔される前から、アポロニア様は彼に礼を尽くして臣従を呼び掛けていた!」

「決して望んではいなかったが、な」


 ヴォルフがエリーゼに加勢する事態を目の当たりにして、ヴァイデンラント伯爵は彼をも睨みつけた。


「今なら望むとでも言うのか」

「殿下のご意向にもよるが。こちらとしては交渉する準備はある」

「不遜なことだな……!」


 伯爵が大げさに憤激したのはまことにもっともなことだから、エリーゼとしては心臓の鼓動がうるさくて堪らない。トラウシルト家の正嫡の一族たちでさえ、決して冒してはならない存在と教えられてきたのに。エリーゼは、更にずっと高貴な方に条件を出そうとしているのだ。──でも、ヴォルフは勝算があると言ってくれた。


「王女殿下は、狼の毛皮が欲しいのですか、それとも忠犬の牙が欲しいのですか」


 ヴァイデンラント伯爵の不躾な喩えを敢えて引いて、エリーゼは震える声を上げた。


「何を──」

「この方をまた戦場に引きずり出して、先日のようなことが起きたら? 『ヴォルフリート将軍』を易々と失うのは、狼の毛皮だけを得るようなものではないのですか」


「狼が犬に成り下がるのか……!」


 ヴァイデンラント伯爵は忌々しげに呻いたけれど、動揺しているのは明らかだった。暴漢にあっさりと心臓を差し出そうとした「友人」を目の当たりにした記憶が蘇ったのは想像に難くない。……彼がヴォルフを案じる思いも嘘ではないと思えばこそ、エリーゼも再び会う勇気をかき集めることができた。それに何より、今はヴォルフが彼女の隣にいてくれる。


「俺だけを得るよりも、この人と一緒の俺を得る方が王女殿下にとっても益が大きいと思うんだ」

「……半年にも満たない間に、何があった」

「色々と、な」


 ヴォルフの罪も、エリーゼの罪も、人に言うことではない。前者は、国の名誉に関わる陰謀に属することだから。後者は、あまりにも個人的なことだから。共に罪を背負うことができる関係なんて、そもそも理解しづらいものでもあるだろう。

 だから、だろうか。伯爵が渋々、といった表情で口を開くまでに大分長い沈黙が降りた。

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