狼将軍の素顔

小さな花束

 祝宴に湧く王宮を、エリーゼはひっそりと後にした。婚礼の後の宴には、当の新郎新婦は出席しないものだから。祝うのは親族や友人に任せて、早速ふたりの絆を深めるのに夜を費やすのが倣いだった。だから、逃げるように闇に紛れて馬車に乗り込まさせられたのも、特段おかしなことではないのかもしれない。ギルベルタなどは、エリーゼが長く人目に触れて躾の悪さを露呈するのを嫌ったのだろうし。


(でも、この人は……?)


 エリーゼは馬車に揺られながら、隣に座る夫となった男をちらちらと窺った。この方が求めた妻はエリーゼではない。祝うことはおろか、絆を深めることなど考えてもいないだろうに。王女を逃がした憤懣が、彼女にぶつけられたりはしないだろうか。


 ふたりして婚礼の豪奢な衣裳を纏ったまま、無言で馬車の座席に押し込められていると、息が詰まるようだった。将軍はともかく、エリーゼにはこの衣裳は不釣り合いなもの、芝居のような儀式が終わった以上は一刻も早く脱ぎ捨てたかった。衣裳の煌きに相応しい娘ではないのは、彼女自身が誰よりよく知っている。

 薄い絹の生地を握りしめては皺を作っていると、不意に車内に低い声が響いた。狼の、唸り声のような。


「俺の顔が気になるか」

「いえ……! そのような――」


 将軍はエリーゼの視線に気付いていたのだ。無作法を咎められるのを恐れて小さく跳ねた彼女に、けれど叱責の怒声も拳も降ることはなかった。


「すぐに見ることができる。まあ、楽しみに、などとは言えないが」

「は、はい……?」


 それどころか、すぐ傍から聞こえる声は驚くほどに穏やかだった。狼と思ってしまったのは、仮面越しにくぐもった声が聞き慣れなかったからというだけで。その声には嘲りも苛立ちも含まれてはいなかった。彼女に浴びせられる声の調子としてはあまりに珍しくて、エリーゼは戸惑わずにはいられなかった。依然として手袋を嵌めたままの手が、狼を象った燻した金の色の仮面をそっと撫でるのを、彼女はただ見つめる。その手がいつ拳を握るのか、彼女に降り下ろされることはないのか、安心しきることはできなかったから。


「……さっさと済ませた方が良いだろうからな」


 だって、ヴォルフリート将軍の呟きも、大聖堂の貴族たちの囁きと同じように意味が分からないものなのだ。エリーゼはどうしようもなく愚かで勘の鈍い娘なのだろう。だから、いつこの方を怒らせてしまうか分からない。だから、怖い。


「あ――あの……恐れ入ります……」


 狭い車内で、かさばる衣裳が許す範囲で、精一杯、身体を縮め頭を下げる。果たしてその受け答えが場に適ったものなのかどうか、分からないまま。ただ、恐縮して従順さを見せるのは、多分悪いことにはならないだろうと願いながら。しばらくの間びくびくとして息を詰めて――けれど、何も言われないのを不審に思って顔を上げると、将軍はエリーゼから興味を失ったように窓の外に顔を向けていた。既に夜も更けた時刻のこと、目の色も肌の色も、仮面の隙間から伺うことはできなかった。




 ヴォルフリート将軍の屋敷は、王都の中心を外れた場所にあった。エリーゼも王都の地理に明るい訳ではないけれど、トラウシルト家の屋敷が位置する区域に比べれば、庶民の住まいに近い場所ではないだろうか。それでも、夜の闇の中でも屋敷自体の大きさと庭の広さは窺えた。ギルベルタたちが獣には過ぎた褒美だと眉を顰めていたのが思い出される。


「さあ、足元に気をつけて」

「は、はい……」


 馬車が止まると、ごく自然な動作で将軍に手を差し伸べられて、エリーゼは少なからず驚いた。礼儀には注意しなければと重々肝に銘じていたはずなのに、おどおどとした返事しかできなかったほどだ。彼女は、このように豪華かつかさ張る衣裳で馬車に乗ったのも初めてだった。だから、降車を手伝ってもらえたのが将軍の気まぐれなのか当然の作法なのか、格別に感謝すべき厚遇なのかどうかも区別がつかない。でも、何であれ感謝の言葉を述べた方が心証は良かっただろうに。


「家の者が待っている。何か口に入れた方が良いだろう」

「はい……お気遣い、ありがとうございます」


 今度こそちゃんと言えた。無作法な娘と思われずに済んだだろうか。朗らかな受け答えができないのは、もうどうしようもないけれど。夜食を出されたところで、喉を通るとは思えなかったけれど。


(家の人たちも、いるのね……当然だけど……)


 それに、屋敷の使用人との対面も気が重くてならなかった。トラウシルト家の侍女や召使いたちは、エリーゼに対しては腫れ物に触れるように接したものだ。主家の血を引いている者をあからさまに蔑むこともできず、けれどギルベルタたちの機嫌を窺えば敬い傅くこともできず。エリーゼは、ただいるだけで彼ら彼女らの悩みの種になっていたのだ。この屋敷では状況は違う、というか、もしかしたらより悪い。彼らは一度は王女を女主人として迎えるのだろうと思っていたのだろう。エリーゼは、あらゆる挙措を王族の姫君と比べられるのだ。

 鉄の檻を思わせる頑丈な門扉は、主の帰りを待って開けられていた。屋敷の窓も、幾つか灯りが点っているものがあるのが人の存在を窺わせる。屋敷の主人が婚礼から戻るのだから、使用人は揃って出迎えるはずだ。何人か、何十人か――とにかく、エリーゼはまた視線の矢に貫かれることになる。


「あの、将軍様――」

「きゃ!?」


 重く沈む心と足を引きずって屋敷を目指していたエリーゼの耳に、細く高い声が届いた。予期せぬ、暗闇から聞こえたその声に彼女は小さく悲鳴を上げ、手を引いてくれていた将軍も歩みを止めた。

 馬車を御していた従者が掲げる灯火の、柔らかな光が小さな人影をふたつ、浮かび上がらせている。背丈も低く、痩せた身体を継ぎだらけの服でどうにか包んだ子供だ。しっかりと手を繋いだ姿やどこか似通った顔かたちから、兄妹だろうか、と見て取れる。エリーゼは見たことがない格好だけど、貧しい平民の子供たちだろう、とは想像がついた。


「将軍様、ご結婚おめでとうございます。これを、お祝いに……」


 子供たちが繋いでいない方の手で差し出すのは、ごくささやかな花束だった。青や黄、桃色。彩りこそ様々に取り揃えているけれど、トラウシルト家の庭だったら、雑草として抜き取られて捨てられてしまうような野の花の。でも、みすぼらしいとさえ思えるその花束を、ヴォルフリート将軍は膝を突いて受け取った。エリーゼからも手を離して、子供たちのほつれた髪を撫でさえしている。噂に聞く野獣のような将軍なら、この子たちを蹴散らしているだろうに。


 エリーゼは、信じられない思いで息を呑みながら、将軍と子供たちのやり取りを聞いた。


「俺が戻るのを待っていたのか」

「はい。お城には行けないから……」

「将軍様のお陰で父ちゃんが帰って来たんです」

「そうか」


 花束を受け取る前に、将軍はちらりとエリーゼを振り返った。その理由は彼女には分からない。子供たちが将軍の仮面を恐れていないようなのも、将軍がわざわざ跪いて、彼らに目線を合わせて語りかけているのも。そもそも、この結婚を祝う者がいることさえ想像だにしていなかった。将軍は王女を妻にし損ねたし、ギルベルタたち貴族の方では、成り上がり者が王宮で婚礼を挙げるのを苦々しく思っていた。エリーゼ自身も、恐ろしいばかりで喜びも幸せも欠片も感じていなかった。なのに、なぜこの子供たちは笑っているのだろう。


「礼を言う。だがもう夜も遅い。気をつけて帰りなさい」

「はい!」

「ありがとうございます」


 ぺこりと頭を下げた子供たちが闇の中に消えていくのを見送って、ヴォルフリート将軍は立ち上がり、再びエリーゼの手を取った。

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