仮面の下

 今度こそ屋敷の扉を潜りながら、ヴォルフリート将軍のごく低い囁きがエリーゼの耳に届く。仮面によってくぐもって、駆け寄る使用人たちにも聞こえないように、夜の微風に紛らわせるように。


「少なくとも、あの子らの父親が無事だったのは喜ぶべきことだ。……貴女には、理不尽に思えるかもしれないが」

「……いえ……」


 将軍は、コンラートのことを仄めかしている。そう気付いた瞬間、エリーゼの心臓は針で貫かれたような痛みを訴えた。反射的に首を振ったのは、夫となった人への遠慮でも追従でもなかった。


 コンラートの死について、やはり彼女は悲しくも憤りもしていなかった。そうと気付いて、自身の冷淡さに驚き傷ついたのだ。だって、理不尽というなら今までのエリーゼの人生の全てがそうで、コンラートもその一部だったから。ギルベルタと同じように、コンラートもエリーゼを支配し、意思のない人形のように扱っていた。でも──恐ろしく残虐だと噂されるこの人は、彼女の心の裡を思い遣ってくれた、のだろうか。それをどう捉えれば良いのか、疲れ切ったエリーゼの頭では分からない。


「お帰りなさいませ、旦那様。えっと……奥様も。お待ちしておりました」

「ああ、遅くなってすまなかったな、ミア」


 ぼんやりと考えながら屋敷の玄関を潜ったエリーゼは、少女の高い声に意識を引き戻された。声の主は、暗い色の髪と目をした少女だった。薄暗い夜の灯りのもとでははっきりとした色合いは分からないけれど、平民出身なのだろう。エリーゼよりもひとつふたつ年下に見える。纏っているお仕着せのような服と併せて、召使といったところだろうか。それは良いけれど──屋敷の主を出迎えるのが幼い少女とは、将軍の身分には似合わないようにも思える。


「これは、どうしたんですか?」

「今、門のところでもらった。結婚祝いだというから、どこかに活けてもらえるか」


 しかも、ヴォルフリート将軍の方でも気にした様子がなく、当然のように花束をミアと呼んだ少女に渡す。


「かしこまりました、旦那様」


 屋敷の中に入ってなお、将軍は仮面を脱ごうとはしていない。だから、このやり取りの間も、彼の声はくぐもったまま。エリーゼはこの期に及んでも、夫の素顔も目の色も知らないままだ。馬車の中の言葉によると、仮面の下には恐ろしい何かが潜んでいるのだとか。


(でも、優しい方、なのかも……?)


 使用人への態度も気さくだし。この方は、少なくとも子供の祝福を喜び、素直に礼を述べ、ほとんど言葉を交わしてもいないエリーゼの、亡くなった婚約者のことをちゃんと覚えていてくれた。もしかすると、残虐だという噂は、ひどく捻じ曲げられて伝わっているのかもしれない。――そうであると、良い。


「それから、彼女と話がしたい。疲れているだろうから温かい飲み物でもあると良い」

「はい。こちらへ――奥様」

「は、はい」


 将軍の命を受けて、ミアが示した廊下は暗かった。大聖堂の輝きとは比べるべくもなく、エリーゼは闇の中へと進むことになる。小さな花束の彩と、胸に灯った疑問を頼りにして、エリーゼは慣れない踵の高い靴に痛む足を必死に動かした。




 エリーゼが通されたのは、書斎と思しき部屋だった。たっぷりとした襞のある花嫁衣装のままだと息苦しく狭苦しく感じられるほど、壁を本棚が埋め尽くしている。唯一開けた窓がある面も、もちろんこの時刻では重いカーテンに閉ざされている。


 暗い色の分厚い本たちに威圧され押し潰されそうな思いを味わいながら、エリーゼはできるだけ花だけを見つめるようにしていた。子供たちが将軍に手渡した花が、さっそく活けられているのだ。鋏など使わず子供が折り取ったからだろうか、花びらの端は早くも萎れ始めている。そもそもが野の花を寄せ集めたものだし、活けた花瓶に描かれた花模様の方が鮮やかなくらいかもしれない。でも、そささやかな彩がエリーゼの希望だった。将軍が子供に見せた優しさを、彼女にも向けてくれるかもしれない。


「無学者に書斎など、分不相応なのだろうが。前の持ち主から引き継いだだけだから、ほとんど飾りなのだが――まあ、ふたりで話すには手ごろな狭さだと思ったのだ。寝室という訳にもいかないし、な」


 無造作に本を一冊抜き取った将軍の表情は、まだ窺えない。自邸に帰ってもなお、将軍はあの狼の仮面で素顔を隠したままだった。金属の板に遮られる声は例によってくぐもっていて、独り言なのか、エリーゼに向けた言葉なのかもはっきりとしない。


「――飲まないのか」

「あ……いえ。疲れて――胸が、一杯なので」


 明確に話しかけられても、エリーゼはまともに受け応えすることはできなかったけれど。将軍が目で――多分――示したのは、暖かそうな湯気を立てるカップだった。書斎の奥の机ではなく、来客用と思しき背の低い卓に載せられている。カップから漂う香りが、中身は野菜を煮込んだスープだと教えてくれる。滋味が溶け出した温もりを味わいたいと、思わないではないけれど。でも、腰を絞めつける衣装も、餓狼と称される人とふたりきりだという緊張も、エリーゼから食欲を奪っていた。


「まあ、そうだろうな」


 厚意を断った非礼を咎められるかと、恐れたのは無用のことだった。将軍は予想していたとでもいうようにあっさりと頷くと、仕草でエリーゼに座るように促した。


「貴女の目的は分かっているつもりだ。早く、済ませてしまおうか」

「え……?」


 馬車の中で言われたのと同じことだ。でも、やはり何のことだか分からない。エリーゼは命じられてここにいるだけだ。


 自分自身も知らない目的とは何なのか。将軍は、何を分かっているというのか。いぶかしみながら、エリーゼはカップの前の椅子に恐る恐る腰を下ろす。本来なら、書斎の主人は奥の机に陣取って客を迎えるのだろうけれど、将軍は迷わずエリーゼの向かいに座った。鈍い金色に光る狼の仮面が、彼女の目の前に位置することになる。


「前置き、という訳でもないが。さすがに息苦しいし暑苦しい。顔を見せずに話すのも無礼だろうし――取っても良いか?」

「はい。もちろんです」


 鍍金を施された狼面に、将軍の手がそっと触れた。その下には、何か恐ろしいものが隠れているらしい。決して、それを見たい訳ではない。けれどエリーゼほとんど考えることもなく頷いた。彼女は、頷くことしか教えられなかったし許されて来なかった。

 胸元で手を組み合わせ、強く握る。不安に高鳴る心臓を宥めるために。何を見せられても悲鳴など上げてはいけないだろう。仮にも妻になった女が露骨に怯えた様を見せては、将軍は確実に気分を害するはずだ。


「では――」

「…………っ!」


 息を呑んで、唇を固く噛み締めていた甲斐はあった、はずだった。少なくともエリーゼは悲鳴を漏らすことはしないで済んだ。でも、花嫁として夫の素顔を初めて見た時に似つかわしい表情を浮かべることはできなかった。目を見開いて口元を抑えた彼女の顔は、驚きと恐怖に引き攣っていたはずだ。覚悟をしていてもなお、ヴォルフリート将軍の素顔は直視に堪えないものだった。

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