夜会に向けて

「……しばらく後に、王宮で夜会があるな」

「ああ。それが……?」

「王女殿下に目通りするとしたら、その時だろう。……本来は、その方抜きで、君だけのつもりだったが」


 表情は不機嫌そのものなのに、一度喋り始めると伯爵は驚くほどてきぱきと話を進めていた。エリーゼを睨みつけながら、次々と、追い詰めるように問いを重ねてくる。


「衣装や装飾品はどんなものをお持ちですか? 実際に身に着けたことは? 舞踏は――なさったことはないのでしょうね。婚礼の時のご様子を見るに、最低限の礼儀作法は教えられていると思って良いですね?」

「は、はい……。踊ることは、できませんが……でも、将軍閣下に恥ずかしい思いをさせることはないと、思います」


 暗に何もできないだろうと言われて、エリーゼは情けなく舌をもつれさせた。トラウシルト家から持たされた衣装の類が、王宮の夜会で纏うのに相応しいものなのかも彼女には分からない。できないこと、分からないことだらけで、横からヴォルフリートが助けの手を差し伸べてくれなかったら、震え始めてしまったかもしれない。


「踊れないのは俺も同じだ。必要なことか?」

「無論。王女殿下の麾下につくというなら、あの方に恥をかかせてはならない」


 ヴォルフに対してさえも、伯爵は冷ややかに切りつけるように言い渡した。エリーゼを庇ったのが気に入らなかったのかもしれない。伯爵の目は、すぐにまた彼女を捉えて細められたから。


「……君には私が教えるとして。エリーゼ嬢にも舞踏の教師を紹介しましょう。婚礼の時よりは優雅に余裕たっぷりに振舞っていただかないと」

「は、はい」


 否とは言えない勢いに、エリーゼは今度こそ素直に首を上下させた。いったいどのような人と対面させられるのかは、不安なのだけど。ヴォルフと踊ることを考えただけで、頬が燃えるような熱さを感じているのだけど。でも、恥じらい戸惑っている場合ではないのだろう。


「君も、もっと社交界に顔を出すべきだ。良い機会と考えるしか、ないな……」


 伯爵の諦めたような溜息は、きっと譲歩の証だった。エリーゼとヴォルフは、一歩進めることができたのだ。




 ヴァイデンラント伯爵が手配した舞踏の教師を、エリーゼはひとりで迎えることになった。ヴォルフは屋敷を空けて、今頃は伯爵に舞踏の手ほどきを受けている。それぞれが自分のステップを教わっておいて、後で合わせるという計画だった。


「いらっしゃるのが女の方なら、前のようなことはないですよね」

「ええ、そうね。ミア」


 召使の少女は、例の男を取り次いでしまったことをまだ気にしているらしい。エリーゼの銀の髪を、舞踏に邪魔にならないように結い上げながら何度も確認するのが愛らしかった。


「旦那様が踊るところを見られるなんて、思ってもいませんでした」


 鏡台の前に掛けたエリーゼは、鏡に映るミアの表情をそっと窺った。表情は微笑んでいるし、声も弾んでいると思う。でも、見間違いや聞き違いではないか、ほんの少しだけ不安だった。


「ええと……似合わないと、思っている? おかしなことをさせてしまうのかしら」

「まさか! 驚いたけど、素敵なことだと思います。……奥様が来てくださって、旦那様は本当に変わられました。皆もそう言って──喜んでいます」

「皆さんも……本当に?」

「ええ、お菓子でされたのもありますけど」


 鏡が、目を見開いたエリーゼと満面の笑みを浮かべたミアを映し出した。いつから、この少女はこんなに曇りない表情を見せてくれるようになったのだろう。睨みつけたり、唇を尖らせたりするのではなくて。それに、ほかの使用人だって。目的の知れない「奥方」を、警戒していたのではないのだろうか。


「そんな、私……皆さんは毒見と監視のつもりでいたとばかり」

「奥様に悪いことができるなんて、誰も思わないです。前だったら、震えてすぐにばれてしまうに決まってるから。それに、今は……旦那様が大好きになられたみたいだから」

「ミア、なんてことを」

「違うんですか、奥様?」


 悪戯っぽく、揶揄うように。ミアに囁かれてエリーゼは耳まで赤くなって──そして、小さく首を振った。違うはずがない。エリーゼの心は確かに今やヴォルフだけに向けられている。


「ミアのお陰でもあるのよ。貴女と話したから、頑張ってみようと思えたの」


 王女でさえも、ヴォルフにとって良い妻になるかは分からない、とは、それこそエリーゼが作った菓子を囲んでの会話だった。ミアと話したからこそ、エリーゼはヴォルフの心に踏み込む勇気を得ることができたのだ。


「奥様は、旦那様と何をお話しされたんですか? 旦那様のお顔がすっかり明るくなって……!」


 ミアが興味津々といった風にエリーゼの耳元に囁く。付き合いの長いミアでさえ、ヴォルフリート将軍の事情を全て知っている訳ではないらしい。幼い子供には、ヴォルフも多くを聞かせたくはなかったのだろう。エリーゼとコンラートのことなら、なおさらだ。


「ええと……色々と、ね……?」


 当たらず障らず、どの程度までなら話して良いだろうか。迷いながらエリーゼが首を傾げた時だった。


「奥様、いらっしゃいました」

「ありがとうございます。すぐに伺います」


 声を掛けてきたのは、屋敷の数少ない使用人のひとりだった。誰が、とは聞くまでもない。伯爵が依頼した──つまりは、相応の地位の女性とはいったいどんな方なのか。不安と緊張を抱えながら、エリーゼはミアとの会話を打ち切った。




 舞踏の教師というから、年配の──それか、少なくとも落ち着いた年齢の貴婦人を思い浮かべていたのだけれど。エリーゼを見て華やかに微笑んだその女性は、彼女自身とそう変わらない年頃だった。少女と呼んでも差し支えないだろう。


「はじめまして。噂の『狼将軍の奥方』にお会いできて光栄だわ」

「あ……わ、私こそ。わざわざおいでいただき、大変嬉しく思います」

「アレクシアと呼んでちょうだい。家名は失礼させていただくわ。父や母には内緒で連れてきてもらったの」


 舞踏で動くのを意識してか、結い上げた髪には装飾はない。けれど、金の髪の煌めきや、悪戯っぽく微笑む青い目に、宝石の輝きは不要だろう。アレクシアと名乗った令嬢は、エリーゼが気後れするほど美しく、かつ堂々とした振舞いだった。


「エリーゼと申します。どうぞよろしくお願いいたします」

「ええ、よろしく。大聖堂で見た時よりも顔色は良いかしら。狼に取って食われていなくて何より、といったところね?」


 ほんのわずかな言葉で、アレクシアは彼女の立場を仄めかせた。大聖堂での婚礼に出席できるほどの、高貴な身分。両親に内緒で、というのは、言えば反対されるからだろう。恐らくは未婚の令嬢にあるまじきことだからか、ヴォルフリート将軍の評判を快く思っていない。あるいは、その両方なのかも。


(そんな方が、どうして来てくださったのかしら……)


 そんなエリーゼの疑問も見透かしたかのように、アレクシアは薔薇が綻ぶような笑みを見せた。


「アンドレアスは私の友人でもあるの。狼将軍が隠しているという生贄の花嫁が、気になって仕方なかったの!」

「まあ……それは……」


 不躾なほどの好奇心も、こうもはっきりと口に出して微笑まれると、不快に思うこともできなかった。それに、好奇心といっても下世話なものではないかもしれない。ギルベルタたちトラウシルト家の者たちと違って、アレクシアが狼、と口にする時に侮蔑の気配は全く窺えない。本当にエリーゼやヴォルフに会うのが楽しみだったのかもしれない、と思ってしまうほどに。


「……あの、まずはお茶を──」

「いいえ、まずは衣裳部屋よ。トラウシルト家が生贄に持たせたのがどの程度の品か、確かめないと。案内してくださる?」

「は、はい。こちらに……!」


 アレクシアの言葉遣いも物腰もごく丁寧なものなのに、なぜか有無を言わせず、従わなければならないと思わせた。慌てて先導する形で屋敷の奥へと彼女を案内するエリーゼの胸には不思議な感慨が満ちる。


(私が、また王宮に……それも、夜会で踊るなんて……!)


 しかも、今回は命じられるまま、流されるままの結果ではなく、自ら望んでのこと。ヴォルフとの未来を掴むためだ。震えて顔を伏せるだけだった少し前の自分から、こんなにも変わることがあるなんて。


 信じられないくらいだけど──でも、エリーゼは確かに自分の力で道を選び、進み始めているのだ。

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