呪いのような祈り

 言うべき言葉が見つからず、もどかしく見つめるエリーゼの焦りを他所に、ヴォルフリート将軍の表情はあくまでも凪いでいた。


「逃げてもどうせ他の者が選ばれるとか、身近な者たちも口封じされるかもしれない、とか……そんなことは言い訳だろうな。実際、俺は戦場で高揚したことも何度もある。名誉な役割を与えられたのだと。ヴォルフリート将軍を演じてきたのは俺だけで──だから、あの男が俺を憎むのは、当然だ」

「そんなことはありません」

「俺は、本来ならばただの兵士に過ぎなかった。将軍などと呼ばれているのもたまたまだ。俺自身が策を考えていたなら、まだしも誇ることができたのかもしれないが」


 戦場に散った者やその身内は、考えずにはいられないのかもしれない。選ばれたのがこの方ではなかったら、と。嫌悪や侮蔑を一心に集める立場も、生きているだけで羨ましく妬ましく見えるのかもしれない。それか、燃やされ踏みにじられる彼らと同じ立場だった人が、指揮をする役にあるのが許せないとか? ヴォルフリート将軍

は、だから当然だというのだろうか。


「以前、当然の報いを受けるのだと言っただろう。それが全てだ」

「でも、それなら貴方の望んだことではないではありませんか……!」

「命じられるままに殺すのはなお悪いのではないか? ならば、命じられるままに死に臨まねばなるまい」


 この方がエリーゼに望んだのは、まさにそれだったのだ。彼女ならば、自身を憎んでくれるから。実家のためかコンラートの復讐のために、裁いてくれるから。だから、ギルベルタの悪意を承知でエリーゼが花嫁に選ばれたのだ。


「では……王女様は──」

「俺をまだ利用したい方と、そろそろ始末したい方と、両方おられるらしい。俺としては、どの命令に従うかくらいは自分で決めたいのだがな」


 だから、この方はヴァイデンラント伯爵の厚意を喜んでいなかった。むしろ、進んで暴漢の刃に心臓を差し出そうとした。不可解だった出来事の数々が、繋がってほぐれていくようだった。──そして、ほぐれた先からまた凝り固まっていくかのよう。死による罰を望むこの方を、どう助ければ良いのかエリーゼには分からない。


「……これで、貴女の望みは叶っただろうか」

「私の、望み……?」

「俺のことが知りたいと言っていた。見栄も恥もあったから、すっかり遅くなってしまったが。これで、全てだ。俺は言われるがままに罪を重ねた人殺しに過ぎない。貴女が気に懸ける必要も価値もない」


 だから放っておいてくれ。自身が殺されようと陥れられようと、エリーゼには関係ないことだ。将軍の言外の声がはっきりと聞こえるようだった。伯爵に指摘されて、ほのかには伝わったはずの想いへの、これが答えなのだろう。それほどにこの方の罪の意識は深く、戦いにも疲弊しきっているのだろう。でも──


「……いいえ」


 将軍の言葉の何もかもに対して、エリーゼは首を振る。彼女の望みは叶っていない。この方はただの人殺しではない。邪魔だと言われようと気に懸けるし、それには十分な理由があるのだ。


「助けていただいた方にそのようなことを言われて、見過ごすことはできません」


 寝台の上でできる限り、居住まいを正してエリーゼは述べた。将軍の目を真っ直ぐに見つめて、彼女の心が伝わるように。先ほどは動揺して上手く言葉を操ることができなかった。今度こそ、失敗することはできない。


「助けた……しかし、そもそもは俺が──」

「昼間のことではありません。もっと、ずっと前のこと──コンラート様のことです」


 亡くなった婚約者の名前に、将軍の頬がる。またこの方の罪の意識を刺激してしまうのが申し訳ないと同時に、もどかしくて仕方ない。もちろん、エリーゼの伝え方が拙いのは重々分かっているのだけれど。


「決して、恨み言を申し上げるつもりはありません。本当に、私は心から感謝して喜んでいます」

「どういうことだ……?」


 将軍が目を見開いて口にするのは当然の疑問、そして、エリーゼには答えは分かり切っている。それでも、はっきりと言葉にするためには意識して呼吸を整えなければならなかった。それほどに、「このこと」は彼女の心に重くのしかかっていることだった。


「……私は、コンラート様と結婚したくありませんでした。あの方が戻らなければ良い、と……毎日のように祈っていました」


 ギルベルタたちは、戦場の婚約者のために祈れと命じた。でも、何をどのように祈るかまでは命じられなかったし、祈りの中身をエリーゼに問うこともしなかった。だから──エリーゼは朝晩切に祈った。コンラートが戦場から戻らなければ良い。二度と会わずに済めば良い、と。

 将軍の目は、まだなぜだ、と尋ねている。それに応えて、エリーゼは舌を動かした。ひたすらに白いシーツを見つめながら。相手の顔を見ながら言えることでは、決してないから。


「あの方が戦いに出る前日に、屋敷では宴が催されました。私も、あの方の隣に席があって……落ち着かなかったのを覚えています」


 いつものように、給仕をする側に回る方がエリーゼとしては気が楽だっただろう。一族の中には彼女と同じ席に着くのに眉を顰める者もいたし、使用人たちもやり辛そうだった。ただ、主賓たるコンラートや、彼に近しい若者たちは、不穏な空気には気付かないまま、酔って騒いでいるようだった。思えば、戦場に赴く恐怖を紛らわせるための、虚勢でもあったのかもしれないけれど。


 そうだ、あれは決して華やかなだけの宴ではなかった。ギルベルタは栄えある一族に連なる者が平民の将の下につくことに、あからさまに不快と不満を漏らしていた。その他にも、囁かれる声の中には戦場の危険を語るものもあったはず。エリーゼはそれらの全てから耳を塞ぎ目を瞑って、その時をやり過ごすことしか考えていなかった。もう少し周りを見て、他人の思いに気を配っていれば、何かしらは変わったのかもしれないけれど。その時の彼女は、言われたままに動くだけの人形だった。


「夜も更けた頃に宴は終わって……後は翌朝にお見送りをするはずでした。でも、あの方が私の部屋を訪ねてきて――」


 その瞬間も、彼女は命令には従わなければいけないと思ってしまったのだ。扉を開けろ、中に入れろ。おかしいとは思いながら、自分の違和感など信じられるものではないと思っていた。夫になるはずの人、一族の正しい血を引く人の言うことなのだから、何か理由があるだろうと何となく信じようとしたのだ。


「無事に帰れるか分からないから、結婚しておこうと、言いました」

「それは――」

「母親が……その……そう、なのだから、構わないだろう、と」


 将軍が息を呑む気配に、エリーゼは大方を察してくれたことを知る。彼女の母親のことも、彼は承知していたのだろう。細かに説明しなくても分かってくれたのは、良かった。これが、彼女が口にできる精いっぱいだから。これを打ち明けるだけでも、恥ずかしくて消え入りたくて、ひたすらシーツを眺めることしかできないのだから。彼女は何よりも、この瞬間をずっと恐れていたのだ。

 娼婦の娘だということを黙っていただけでも不実なのに。更にエリーゼは、新妻に求められるものをとうに失っていたのだ。彼女はあらゆる意味で、将軍に相応しくなかったのだ。だから、何よりもまず嘘を詫びるべきなのだろうに。なのに、エリーゼの口は図々しく自身の苦痛だけを訴えてしまう。あの時の痛み、あの時の恐怖。圧し掛かる重さと熱さ。あの夜の恐慌が蘇って、全身が汗に濡れる。

 誰にも見られないように冷水で身体を清めて、起きたことの痕跡を懸命に拭おうとした時の寒さ、心細さ。惨めさと恥ずかしさ。翌朝、痛みをこらえて見送りに出たエリーゼに、コンラートはこの上なく晴れやかな笑みを見せた。彼女の笑顔なんて、引き攣ってこわ張って見れたものではなかっただろうに。彼女を押さえつけた手がエリーゼの髪を梳き、彼女の肌に痕を残した唇が囁いた。帰ったら一緒に暮らそう。ずっと、ふたりで──

 恐怖と絶望の記憶が渦巻いて、悲鳴がエリーゼの唇をついて出る。


「あの方が帰ったら『あれ』が毎夜のことなのかと思うと、私……!」

「……だから、俺が気に病む必要はないというのか? 死んで当然の男だったから、と……確かに、許せない所業ではあるが……」


 ゆっくりと、絞り出すような声に、恐る恐る将軍の方を窺ってみると、眉を顰めてはいてもエリーゼへの軽蔑や嫌悪の色はないようだった。そう、確かめて浅ましくも安堵する。でも、自身のためだけの安堵ではない。これで話を続けることができる。エリーゼが吐き出したいことは、まだ終わってはいないのだ。


「願ったのは私です。あの方が戻らないように、と。それがどういうことなのか、分かってはいませんでしたけれど!」


 エリーゼが漠然と願ったのは、もう怖いことや痛いことがないように、という程度のことだった。それが叶うためには何が起きれば良いかなど、かつての彼女は想像することもなかったのだ。コンラートの最期を聞いて震えたのは、婚約者への哀れみや悲しみが理由ではなかった。彼が帰らないということは戦場で散るということ、しかもその時は恐ろしい苦痛と恐怖に見舞われるのだと、気付いてしまったからだ。それでも、しばらくは目を背けていることもできたけど――喉に刃を突き付けられた後では、認めざるを得ない。エリーゼは毎日毎晩、熱心に祈っていたのだ。婚約者であった美しい若者が、無残な死を遂げれば良い、と。


「ご自身で戦場に立たれた貴方よりも、私はずっと罪深い。自分では何もせずに、ただ、誰かが助けてくれるのを願っていただけなのですから」


 自分でも恐ろしくなるほど、エリーゼは冷たく残酷な女だった。そして、何も考えていなかった。それに比べれば、将軍が言う罪などどれほどのものだろう。彼は、自らも危険に晒して戦場に立ち続けたのだから。彼が生んだ犠牲は大きいかもしれないけれど、それでももたらされた勝利もまた偉大なものだ。英雄の心が、死者に捕らわれ続ける必要はないと、エリーゼは思うのだ。

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