「エリーゼは、はっきりとは言ってくれなかったのですけど……彼女、お兄様にとんでもない無作法をしてしまったと言っていて」


 アポロニアの言葉を聞くうちに、兄の表情がみるみる引き攣っていくのが分かった。エリーゼが言うところのが何なのか、重々心当たりがあるのだろう。思わず緩んでしまう口元を隠そうと、アポロニアは茶器を口に運び、香りを味わって心を落ち着けた。先ほどから間を持たせるのに茶を啜っているから、ほとんど空になってしまっている。そこまでしても、続ける声は少し弾み過ぎているかもしれない。


「あの控えめな娘が、いったい何をしたのか不思議でならないのですけど。でも、きっとエリーゼの気にし過ぎですわよね? きっと、初めての夜会で緊張してしまったのでしょうね? お兄様はお優しいですもの。で、いちいち咎めたりはなさいませんわね?」


 猫撫で声で下手に出た振りで、その実相手をいたぶるような手管は、兄に教えられたものだ。いたぶる──そう、アポロニアは、エリーゼが兄に何をしでかしてくれたかをもう知っている。体面を気にする兄のこと、彼女がこんな物言いをするまでもなく口外できないであろうことも承知している。その上で兄の矜持を踏み躙るのは、決して性格の良くないこととは分かってる。でも、この上なく楽しい。病みつきになってしまいそうだ。




 ヴォルフリート将軍の屋敷を見舞ったアポロニアを、主夫妻は大怪我を押して出迎えてくれた。寝間着で寝台に横たわったままの姿を、エリーゼはしきりに恐縮していたけれど、全身を覆う包帯や室内に濃く漂う薬の匂いを前に、咎める気などアポロニアには毛頭なかった。何より──エリーゼがひどく言いづらそうに打ち明けたことを聞いて、彼女の頭からはあらゆる礼儀も気遣いも吹き飛んでしまったのだ。


『エリーゼ……今、なんて言ったのかしら?』


 王女が身を乗り出したのを、エリーゼは詰問されたものと思ったのかもしれない。白い顔からはますます血の気が失せて、華奢な身体をさらに縮めて、顔を俯かせたところから零れる声は、今にも立ち消えそうにか細いものだった。


『あ、あの……私、兄君様を、王子殿下を殴ってしまいました。恐ろしい罪だとは存じています。隠してはならないと思うのですが、ヴォルフ──夫は、アポロニア様にまずご相談すべきだと言うものですから』


 エリーゼの枕元に掛けた将軍に目を向けると、彼は片頬で微笑んで頷いた。というのも、彼の顔の右半分は古い火傷に冒されて表情を浮かべることが難しいのだ。醜い傷を晒してしまうのは無礼だと例の仮面をつけようとする将軍と、怪我をしているのだから無理をしなくて良いというアポロニアと。三人がそれぞれの位置に着くまでに、これまたひと悶着があったものだ。


(でも、慣れれば大した傷ではないわ。勇敢さの証明だし、表情も分かりやすいし)


 兄があつらえてつけさせていたという仮面は、威厳はあったかもしれないけれど仰々しくて、人を恐れさせて遠ざけさせるものだった。でも、素顔の将軍を見れば分かる。彼はただの人間で、妻を思い遣る気持ちもちゃんと持っているのだと。エリーゼを見守る優しい、そして少し悪戯っぽい眼差しは、社交界でも見せるべきだ。百聞は一見に如かずと言うけれど、深く愛し合う夫婦の姿は、狼将軍の悪名を払拭するまたとない効果があるだろう。


(もっと軽くてつけやすい仮面を考えてあげないと……エリーゼと一緒に……)


 宝飾を扱う商家や職人の名を幾つか思い浮かべながら、アポロニアもヴォルフリート将軍に頷き返した。彼の助言はまったく正しい。事件の取り調べをしている役人たちに正直に打ち明けていたら、少々厄介なことになっていたかもしれない。でも、最初に知ったのが彼女なら、この情報を使うことができるだろう。


『ええ、他の者に言う必要なんてなかったわ! 兄がひどいことをしようとしたから、なのでしょう? 妹として、貴女にはまず謝らなければならないわ』


 エリーゼの証言として公に記録されているのは、マクシミリアン王子から将軍を謀殺する陰謀を聞かされて、慌てて王女のもとに注進に走った、というものだ。アポロニアがたった今聞かされたのは、状況の詳細──兄が美しい人妻に対して何をして、エリーゼはそれをどのように逃れたか、を補足する情報だった。

 もの慣れた貴婦人が権勢や刺激を求めて兄に擦り寄るなら、アポロニアが口出しすることではない。でも、エリーゼはそういう類の女性ではない。舞踏の特訓の際、アンドレアスの手を握るのでさえひどく緊張していたくらいなのだから。ほとんど話したこともない、信頼もまったくない兄に不躾に触れられて、さぞ怖い思いをしたことだろう。


 謝罪と慰めを込めて、アポロニアはエリーゼの手にそっと自らの手を重ねた。そこも火傷を負っていると聞かされたから、羽根が触れるよりも軽く、本当に形ばかり上に被せると言うだけ。だから痛いということはないだろうけれど──エリーゼは眉をぎゅっと寄せて首をふるふると振った。


『……あの時は、ああするしかなかったのです。でも──』

『それにね、エリーゼ。お礼も言わせて欲しいの』

『アポロニア様……?』


 どうやらまだ叱責を恐れているらしいと知って、アポロニアは友人──と彼女は思っている──の顔を覗きこんで微笑んだ。兄との争いに深く巻き込んでしまった相手なのだから、彼女の心の裡を開いて見せても問題ないだろう。というか、彼女の方で喜びを爆発させたくて仕方なかった。一応はエリーゼの耳に唇を寄せて、けれど声量を抑えることはしきれずに、アポロニアは高らかに笑った。


『私、ずっとお兄様のことを殴りたくて仕方なかったのよ! でも、そんなことをする訳にはいかないでしょう? 貴女は念願を叶えてくれたのだもの、その恩人が罰せられるようなことには絶対にさせないわ!』


 エリーゼの青い目が見開かれると同時に、将軍が堪えきれないといった調子で笑い出した。自らの笑い声だって傷に響くのだろう、痛みに顔を顰めながら、それでも笑いが抑えられないようすだった。


『ほら、言った通りだっただろう?』

『え、ええ……』


 夫に笑いかけられて、エリーゼの表情がやっと緩んだ。夫婦ふたりの間で、アポロニアについていったいどのようなやり取りがあったのだろう。でも、追及しないでおいてあげよう、と思った。エリーゼと将軍が交わす眼差しは愛情と信頼に満ちていて、その場に邪魔しているのが申し訳なくなるような似合いの夫婦に見えたから。だから、良いものを見せてもらった、と思うことにしたのだ。




 アポロニアの無邪気を装った問いかけに、兄はひどく嫌そうな顔で応えた。エリーゼに殴られた痛みなど、あのふたりの大怪我に比べれば大したことではないだろうに。王族の身で、しかも容姿には絶大な自信を持っているらしい兄のこと、あからさまに拒絶されたのがそんなに忌まわしい記憶なのだろうか。嫌がる女性に無理強いしたことを恥じ入る程度の良識を、持っていてくれるなら喜ばしいことだけど。


「……将軍夫人が何を気にしているのか、私にも分からないな」

「やっぱり! 安心しましたわ。エリーゼにもそう伝えておきましょう」


 とにかく、兄から言質を引き出すことに成功して、アポロニアは嘘偽りなく安堵した。兄が気を変えることは多分ないだろうけれど、牽制しておくことに越したことはない。兄本人が気にしていないと言ったのだから、エリーゼだって気が楽になることだろう。


「また将軍の屋敷を訪ねる気か。生まれの良くない者たちだろうに、そなたの品位も疑われるぞ」

「確かに色々と慣れていないことがあるようですわね。だから私、として教えてあげようと思いますの」

「もの好きな……!」


 兄の忠告は、妹の野心を抑えつけようとしてのことなのだろうか。それとも、彼女がエリーゼのように真似をすることを心配してでもいるのか。どちらにしても無用のことだから、アポロニアは笑顔で兄の言葉を無下にした。

 それに、エリーゼたちのことを友人と思っているのは本当だ。大切な友人、恩義もある人たちが世間から誤解を受けているなら、手を差し伸べたいと思うのは当然の感情だろう。


(まずは医者と薬と……治ったら衣装を仕立ててあげて……紹介したい人もたくさんいるわね……!)


 王位を巡っての兄との争いは、この先も気の滅入ることや儘ならないことばかりなのだろう。でも、そんな中でも心から楽しみにできることもある。その事実がアポロニアの支えであり希望だった。

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