虚しい聖なる誓い
大聖堂の煌びやかさに圧し潰されそうな思いを味わいながら、エリーゼは一歩一歩、重い衣装を引きずって歩いた。
(転んではいけない、裾を踏んではいけない……)
エリーゼの伏せた目に映る大聖堂の床は、モザイクで細やかな模様が描かれていた。あまりに美しく緻密だから、足で踏みつけるのが恐れ多いと思うほど。聖人の彫像は彼女を睨みつけるようだし、色硝子の天窓から注ぐ光はあまりに眩くて、かえって彼女の視界を霞ませている。こんな煌びやか過ぎるところでの婚礼など、エリーゼは決して望んでいなかった。それを口にすることもまた、決してできなかったけれど。彼女の役目は名誉なもので、トラウシルト家への恩返しで。感謝して臨まなければならないものと言われたから。
(嫌……怖い……)
最奥に設けられた祭壇へは、深紅の絨毯が道を作っていた。ふかふかとした感触に足を取られないよう、腕を借りるマクシミリアン王子に寄りかかり過ぎることがないよう。細心の注意を払いながら、けれどエリーゼは命じられた通りの優美な振舞いができているか、まったく自信がなかった。
眩く煌びやかなのは、大聖堂の建物それ自体だけではない。居並ぶ貴顕のまとう絹や金銀、宝石の煌き。無数に点される灯りやふんだんに装飾にあしらわれた鏡が何倍にも膨れ上がらせるその煌きがあまりに輝かしくて、エリーゼというちっぽけな存在を掻き消そうとしているかのよう。鏡は、彼女に注がれる視線をも倍増させて、四方から弓矢の的にされているかのような気分にさせる。エリーゼが向かっているのは祭壇ではなく処刑台で、首元を飾る真珠は蛇のように喉を絞めつけるかのような。そんな妄想に取り憑かれてしまうと、もう足を進めることはできなかった。
「あれが貴女の花婿だ。ちゃんと、人間の姿をしているだろう?」
父親代わりの王子が、足が根になったように立ち尽くすエリーゼの腕を引っぱった。多分、列席する人々からは見えない程度にごくわずか。声も、緊張を解してくれようとしているのか、冗談めかした軽い口調だった。けれど彼女にとっては首に掛けられた縄を引かれているとしか思えない。彼女は売られる牛や豚と同じなのだ。
元の主の手を離れて、次の主、買い手の手に縄が委ねられるのだ。とても勇猛で、かつひどく残虐だという、狼の将軍に。少し目を上げればその人の姿が見えるのだろう。大聖堂を縦に貫く通路で、花婿は花嫁を待っている。代父の手を離れるということは、実家の庇護下を離れるということ。これからはヴォルフリート将軍が彼女を支配するのだ。
「貴女なら大丈夫だろう。美しい花嫁──」
そう囁くと、王子はそっとエリーゼから手を放して退いた。ひとり、放り出されたエリーゼは、よろめくように数歩進んだ。雲を踏むようなおぼつかない足取りだったけれど、転んで倒れる醜態を晒さずに済んだのは、支えてくれる腕に辿り着くことができたからだ。
「あ――」
(これが……この方が、私の……?)
言葉を禁じる命令のために、エリーゼは礼を述べることはできなかった。周囲から注がれる視線に射抜かれて舌が縫い留められてもいたし。何より、間近に見て、触れた将軍の巨躯に圧倒されて身動きすらままならなかった。先ほどまで頼っていた王太子よりも背が高く、身体にも厚みがある。軍人とはこういうものかもしれないけれど、軍服の胸を飾る数多の勲章と併せて、エリーゼを威圧するかのよう。彼の評判の数々がエリーゼの脳裏を駆け巡り、足を震えさせる。
(狼の、将軍……)
それでも、新郎新婦が突っ立っている訳にはいかない。夫となる人はエリーゼの背に腕を回して歩みを促してくれる。あるいは、首の縄を引いてくれる。手袋に包まれた手から温もりを感じることはなく、厚く硬い軍服の生地越しに伝わるのは将軍の鍛えられた肉体の逞しさだけ。鋼の筋肉を頼もしいと思えたら良いのかもしれないけれど、引き立てられるように祭壇へと歩まされる彼女には、頑丈な枷や鎖としか感じられなかった。
そして、肝心のヴォルフリート将軍の顔は――見えない。大聖堂のあまりの眩さにエリーゼの目が眩んでいるから、だけではない。将軍は、今日も噂に名高い狼の仮面で顔を隠していたのだ。戦場で常に先頭を駆ける「狼」は、兵の士気を高める旗印のようなものとは聞いていたけれど、王家の方々も列席する婚礼の当日までも、同じ装いだとはエリーゼも予想だにしていなかった。呼吸のための口元の切れ目は狼の牙のようにも見えて、恐ろしい。よくよく覗き込めば目の色くらいは見えるだろうけれど、隣り合って歩む状況では首を真横に曲げることなど許されない。たとえそうできたとしても、エリーゼには将軍の目を正面から見る勇気など持てそうになかった。
「トラウシルト家がこんな娘を隠していたとは」
「可哀想に、怯えているわ」
「美しいのに獣の生贄とはもったいない」
「内心では笑っているさ。上手く出し抜いたのだから」
「まったく、してやられたもので」
「王女殿下は感謝などしていないだろう」
「でも、王太子殿下は大層喜ばれているとか」
「婚約者が死んだのを利用したのでしょう。逞しいこと」
(何のことなの……私は、何も知らない……)
祭壇に近づくごとに、列席者の身分は上がり、装いはより豪奢に眩くなっていく。その高貴な人々が囁くことは、エリーゼには心当たりのないことばかり。ただ、棘があることだけは分かる。彼女は、ギルベルタに命じられるままにこの場に辿り着いただけなのに。
王子が向かったであろう、王族の席はどこなのだろう。将軍に嫁がされるはずだった王女も、エリーゼを見ているのだろうか。せめてその方が救われたなら、と思いたいのに、エリーゼは王女の姿もまた知らなかった。
「今日の善き日に集いし客は、聖なる契約の証人である」
いつの間にか、エリーゼとヴォルフリート将軍は祭壇の前で司教の誓詞を聞いていた。死によって分かたれるまで、互いを妻とし夫とし、いついかなる時も愛し慈しむという美しい誓い。美しいけれど実のない誓いを、神の御前で立てなければならないのだ。何ひとつ知らない相手を夫として愛することなどできるはずがないのに。
「この誓いに異議なき時は、沈黙を持って答えとせよ」
誓詞の最後の問いかけは、形ばかりのものだ。花嫁たる者は慎ましく顔を伏せて肯定と従順を示すだけ。婚礼の日の当日に花嫁を攫いに現れる者などいないのだ。まして、エリーゼには。自分自身の舌でさえ動かすことができないのだから、誓いはつつがなく成立する。成立してしまう。婚礼は、なる。
「――新しく生まれた夫婦に祝福を授けよう」
呼吸三回分ほどの沈黙の後に、司教は高らかに告げ、列席者の歓声が大聖堂を揺るがせた。耳を塞ぐ人声にエリーゼがよろめく一方で、ヴォルフリート将軍は微動だにしない。喜びも不満も窺わせない落ち着きようが、彼にまつわる噂を思い出させた。戦場の亡霊が仮初に生者の振りをしているのだとか、狼が変じた怪物だとか。そんな、恐ろしい噂を。
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