祝福されない結婚
優雅な茶会
トラウシルト家の広い居間に、少女の高い声が響いた。
「エリーゼは、ひどいわ!」
「そうよ。コンラートが死んでしまったのに、もう他の人と結婚なんて」
「ねえ小父様、叱ってやらないと」
声の主は、トラウシルト家の正しい血を引く令嬢たちだ。エリーゼと同じか、少し下の年頃の。けれど彼女たちとエリーゼでは身分が違う。着飾った令嬢たちが白く滑らかな手で茶器を持ち歓談する一方で、エリーゼは目を伏せて彼女たちに傅き、使用人に混じって働くのがこの屋敷の常だった。大きな窓から見えるはずの薔薇の庭も、茶も菓子も、彼女が楽しむことができるのは香りばかりだった。
「大人の世界は色々あるということだよ。お前たちにはまだ分からないかもしれないが」
小父様と呼ばれて笑っているのは、トラウシルト家の当主だ。エリーゼにとっては年の離れた異母兄にあたる。もちろん、お兄様と呼んだことなど一度もない。そのようなことは考えるだけでも不遜で畏れ多いことだ。当主の方でも彼女の存在を気に留めることなど滅多にないだろう。今、この時でさえ、当主が話しかけているのは令嬢たちに対してだけだった。
「あら、私たちにだって分かりますわ」
「大おばあ様から伺いましたもの」
令嬢たちは、子供扱いに少々気分を害したらしい。唇を尖らせる可愛らしい気配が伝わってきた。エリーゼがそのような表情を見せようものなら、即座に叱責の言葉と、時に平手や拳が飛んでくるだろう。できるだけ頭を垂れて従順に振る舞っていてなお、一族の者たちの不興を完全に避けることは非常に難しいのだから。
「働きに応じて褒章を与えるのは大事――なのでしょう?」
とにかく──せえの、という小さい掛け声で、令嬢たちは呼吸を合わせたようだった。少しずつ高さと響きの違う三つの声が重なった。
「そう! さすが大叔母様だな。ちゃんと娘たちを躾けてくださっている」
少女たちの愛らしさに心動かされたのか、それとも、同席しているギルベルタ――少女たちの言う大おばあ様だ――への追従でもあるのか、当主は大げさなほどに手を叩いて喜んで見せた。対するギルベルタは落ち着いたもので、磁器の茶器を置いて、澄んだ音を奏でさせる。年下の者たちの浮ついた空気を窘めるように、割って入った声も低く、威厳を漂わせていた。
「犬も馬も、良い餌を与えれば励むものだろう。猿も鸚鵡も、褒美欲しさに芸を覚えもする。ならば人間も同じこと――特に、身分低い者となれば」
ギルベルタの怒りと侮蔑がこもった声は、やはりエリーゼの身体を強張らせた。けれど、当主は気にした様子もなく、むしろより嘲りを強く滲ませた声で応じる。
「下々の強欲さには驚かされるばかりですよ。家名も持たない農夫が、今では将軍とは。地位に屋敷に、名声に。そこまで手に入れても、なお満足しないというのですから」
彼らが言及しているのは、ヴォルフリート将軍のことだ。国を勝利に導いた英雄。一方で、恐ろしい噂の絶えない人。そして、エリーゼが嫁がせられる人。一体どんな人なのか――聞けば聞くほど、恐怖が増すような気もするのだけど。でも、それでも耳を塞いでしまうのはもったいない。だからエリーゼは懸命に震えを抑えて、「本当の」トラウシルト家の一族たちの会話に神経を集中させた。
「その男は、褒美欲しさに敵を――皆殺しにしたの? それでは騎士の誇りも何も持っていないということなのかしら」
「敵の兵だけではないのでしょう? 女子供もひとところに集めて焼き殺したとか!」
「おぞましい所業ではあるがね。だが、それで敵が怯んだなら手柄ではあるだろうね。彼に倣って剣を取った平民も多いというし」
華やかに優雅に語られるのは、つい先日終わったばかりの戦いのことだ。コンラートも命を落とした、隣国ファルケンザールとの。
オイレンヴァルトは、西の国境を接するファルケンザールと長年に渡ってお互いの王位を主張し合ってきた。それぞれの王家は過去に何度も婚姻を重ねているから、仲の悪い親戚のようなもの、と揶揄する者もいる。もしもギルベルタの耳の届く範囲でそのようなことを口にした者がいれば、鋭い目線と舌鋒で叱責されるに違いないのだけれど。とにかく、ふたつの国は時に王子や王女を結び合わせるほどに近づき、時に血を流して相争う歴史を繰り返してきた。ふたつの国がある限り、それはずっと変わらないと誰もが思っていた。でも、違ったのだ。
ヴォルフリート将軍は、両国の蛇が絡み合って食い合うような泥沼の歴史を終わらせた英雄――の、はずだ。病床に臥せりがちだという国王も、いたく喜んだという。その方に嫁ぐのは、この上ない名誉なのだ。令嬢たちが弾んだ声で語るような、血腥く残酷な逸話の数々に目を瞑れば。
(いえ……たとえ残酷でも。英雄なのには変わらないわ……)
当主が分析した通り、敵の士気を挫くことによって無血のまま終わった戦いもあったというのだから。だからこそコンラートを始めとする戦死者の葬儀を
エリーゼは、せめてその人が勇敢な英雄だと信じたかった。その名にちなんで、常に狼を象った仮面を被っているという将軍の素顔を知る者はごく少ないのだけど。仮面の下に隠れているのは人間の顔ではない――戦場で斃れた者の霊が寄り集まって人の形を成したとか、人の死肉を食らった狼が、立ち上がり剣を揮う怪物に生まれ変わったのではないかとか。そんな怪談めいた噂さえ、まことしやかに囁かれる人なのだけど。それに、何より――
「でも、だからといって王女様と結婚なんて許されないわ!」
「ええ。どんな功績があったとしても。それは過ぎた望みというものよ」
ヴォルフリート将軍は、野心家でもあるらしいのだ。彼が最後に望んだ褒美は、英雄の隣に相応しい妻。平民の出自を覆い隠すほどの高貴な女性。それも、そこらの貴族の令嬢ではなくて――オイレンヴァルトの王女殿下を賜りたいと、願ったという。その大それた望みを知っていたからこそ、コンラートの葬儀の場で、ギルベルタは怒りと不快を露わにしていたのだ。
「その通り。あの獣め、味を占めたのだ。しかも言われるままに王女殿下を差し出そうとする不忠者さえいるとは嘆かわしい……! 飼い犬を恐れるとは何たることか。陛下がこのことを聞き及ばれたら、どれほど嘆かれるか……!」
「陛下はご療養に努めていらっしゃいますからな。王太子殿下も、お耳に入らぬうちに処理しようとなさっているのでしょうが」
「そう。悪事の芽は早めに摘んでおかねばならぬのだ」
年下の当主に宥められて、ギルベルタはようやく勘気を収めて頷いた。ヴォルフリート将軍だけでなく、王女を彼の妻にすることを了承した者たちもまた、ギルベルタの憤りの対象らしい。将軍の功績がそれほどに認められたのか、それとも、ギルベルタが言うようにおもねろうとしてのことなのか、エリーゼには分からないけれど。とにかく、彼女にとって重要なのは、ギルベルタが王家の権威の危機に立ち上がる決意をしたということだ。
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