凶刃

「今は、どちらに?」

「……門のところで、一応待ってもらっていますけど……」


 あくまでも自身が行く前提で訪ねると、ミアも不承不承、と言った体で答えてくれた。軽く唇を尖らせた少女の顔を見ながら、エリーゼは不思議な感慨に耽っていた。知らない人、それも彼女を見世物と考えているであろう人に、自分から会おうとするなんて、かつてのエリーゼでは考えられないことだ。将軍に迷惑をかけないために、そんなことができるなんて。ギルベルタなら、はしたないとでも言って眉を顰めるのだろうか。でも、今はあの女性からの評価を気にする気にはもうならなかった。




 エリーゼとの結婚が決まるにあたって、屋敷に仕える者は大分減ってしまったのだという。それはつまり、屋敷の門の辺りにも人目が少ないということだった。もしも客とやらが声を荒げたり掴みかかってきた時、彼女に屋敷まで届くような声が出せるだろうか。出せたとしても、助けは間に合うだろうか。毅然として振舞おうと思っていたのに、エリーゼの心は早くも不安に囚われかけていた。


「あの……私にご用というのは、貴方ですか……?」


 だから、門の傍に佇んでいたのが顔に皺が深く刻まれた老人なのを確かめて、彼女は心の底から安堵した。老人ならば争いになっても勝てる、とは言えないけれど、若く屈強な男よりはかなりマシだろう。それに、老人が纏う服は擦り切れて土埃に汚れている。実家とは関わりなく、むしろ将軍の元の身分に近い人だとしたら、まだ話しやすいかもしれない。婚礼の夜の子供たちのように、ひと言祝いのようなことを言いたいというだけなら、良いのだけど。


「おお、本当にお会いできるとは光栄です。――ヴォルフリート将軍の、奥方様でいらっしゃいますね」

「はい。……どこかでお会いしましたでしょうか」


 それでも十歩ほどの距離を保って立ち止まったエリーゼに、老人は恭しく腰を曲げて見せた。その礼儀正しい態度も安心すべきものなのだろう。でも、直に顔を見ても心当たりのない「客」に、エリーゼは緊張を解くことができなかった。


「いいえ。お招きもなく押し掛けたこと、大変な無作法で申し訳ありません。ですが、どうしても奥様のお力をお借りしたいことがございまして」

「まあ、何でしょうか。あの、でも、お話をしている時間はありませんの。今日は、先にお約束が――」


 緊張ゆえに、エリーゼの舌は上手く回ってくれない。何も、相手の話に付き合うことはなかったのに。帰ってもらうために出てきたはずなのだ。知らない方と話すことは何もないと、初めから突き放してしまえば良かったのに。そうと気付いた時には、老人は既に膝でいざって彼女との距離を詰めている。


「いいえ、あの方はきっと聞いてくださるでしょう。ただ、お会いすることさえできれば」

「それならお名前とご用件を仰ってください。後日になりますが、伺ってみますから」


 彼女を見上げる老人の目の、意外な力強さというかぎらつきに、エリーゼの声は震えた。老人ではないのかもしれない、と。おかしな考えが頭を過ぎった。長い歳月働いてきた人間は、目も手足も衰えるものではないのだろうか。声だって。トラウシルト家の年配の使用人は、もっとしわがれた声で、喋り方もゆっくりになっていたのではなかっただろうか。


 なのに、今目の前にいる老人は言葉も明瞭だし、屈みこんだ姿勢でも辛そうではないし――


「その必要はない」

「きゃ――」


 動きも、素早かった。少なくとも三歩分は空いていたはずの距離は瞬時に詰められ、大きな手がエリーゼの目の前に迫る。彼女の腕を掴み、引っ張り、均衡を崩してよろめいた身体を抱き留めて拘束する。その手際の良さ、エリーゼを抑えつける腕の力強さ。どれも、老人のものではなかった。


「美しい奥様だ! 人形みたいに軽い! 何もしたことがないんだろうな?」


 耳元で怒鳴る声も、さっきまでよりも明らかに若く、張りがある。老人と見えたのは、人目を欺くための変装だったのだろう。それに、エリーゼもすっかり油断していた。若い男だと分かっていたら、近付くことはおろか、ひとりで会おうとはしなかっただろうに。


「あ……いや……」


 首筋にひやりとした鋭さを感じて、刃物を突きつけられているのだと分かってしまう。研ぎ澄まされた金属は、迂闊に暴れれば彼女の喉を裂くのだろう。それほどに刃は彼女の肌に近く、ちりちりと灼けるような感覚を与えていた。男の腕は鋼のようで、彼女に身動きさえ許さない。


「のこのこ出て来やがって、尻軽が。旦那様に叱られるんじゃないか……?」


 だから、エリーゼは男が嗤うのを身体を強張らせて聞くことしかできなかった。でも、彼女を絶望させたのは男の声や突き付けられた刃物だけではない。耳に届く、馬の嘶きや蹄が地面を蹴る音――車輪の軋み。馬車が近づいてきている。そして、中には将軍がいる。本来の客人を連れて、こんなことが起きているとは、露とも知らずに。


「ああ……ちょうどお帰りなのか。だな……!」


 心底楽しそうな男の声は、それこそ舌なめずりする狼を思わせた。その牙が将軍に向かうのを想像すると気が遠くなりそうだったけれど、エリーゼはどうにか固まった舌を動かし、震える声を絞り出した。


「わ、私は……あの方にとっては何でもあり、ません……」

「黙れ」

「きっと何にもならないわ……! こんなこと、無駄です……!」

「黙れと言っている!」


 男の荒く熱い息が、エリーゼの耳を炙っていた。背に密着した相手の胸が、早鐘のように打ち鳴る鼓動を伝えている。相手の焦りと高揚に追い立てられるように、エリーゼの呼吸も早く浅くなり、息苦しさと恐怖に喉を絞めつけられていく。首に伝うぬるりとした感触は、汗だろうか。それとも、刃が肌を傷つけて血が流れたのか。見下ろことも手を伸ばすことも許されず、極度の緊張で肌はどこもかしこもぴりぴりと張り詰めて痛い。だから、エリーゼには自身の状況を確かめようもなかった。


「奴の目の前で、お前を殺す。綺麗な顔をズタズタにしてやる。折角もらった奥方を死なせれば、さぞ都合が悪いだろう……!」

「止めて……そんなこと……」


 ぎゅっと目を瞑ると頬を流れたのは、今度こそ間違いようもなく涙だろう。でも、エリーゼが泣くのは痛みが怖いからだけではない。死ぬのが怖いからだけではない。コンラートの後を追うべきだった彼女だし、エリーゼよりも将軍の命の方が価値があるのは当然のことだ。だから、エリーゼが殺されるのは恐ろしいけれど仕方ない。男が言う通り、のこのこと姿を見せてしまった彼女が愚かなのだ。


 でも、そんなエリーゼの死だって将軍は気に病むのだろうという気がした。並ぶもののない功績を立て、ミアや子供たちに感謝されてもなお、あの方は自身を人殺しと呼ぶのだから。エリーゼ程度の命でさえも、きっとあの方は惜しむのだろう。ただでさえ何の役にも立てなかったのに、将軍の心の重石にまでなってしまうのだ。そう思うと、悲しいとか怖い以上に悔しかった。


(ああ、私は……)


 こんな時になって分かる。エリーゼはあの方を愛している。愛した方の心を痛めることなど、決してしたくないのに!


(来ては駄目、どうか違う方だと良い……!)


 必死に祈っても、無駄だった。屋敷の門前に到着したのは、エリーゼも見慣れた、そして今朝見送った将軍の馬車に間違いなかった。

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