ミアとの茶会

 俯きがちに書斎から辞したエリーゼは、危うく小さな人影にぶつかりそうになった。


「──ミア?」

「奥様……!」


 いかにも不本意そうに彼女を奥様、と呼んだ少女は、少し顔を赤くしていた。


「あ、あの。旦那様はお菓子を召し上がったんですか?」


 やけに早口になっているのと併せると、盗み聞きを咎められると思ったのだろうか。実際、扉に耳をつけていたのではないか、というくらいの距離ではあったのだけど──


「え、ええ……貴女も、もう少しいかが……?」


 エリーゼの方こそ、少々狼狽えて残った菓子の盆を差し出した。だって、ミアはただの物見高さで扉の外に控えていたのではないだろうから。きっと、エリーゼを疑っていたのだ。将軍に取り入って、何を企んでいるのかと。最初の日にあれだけ噛みついてきたミアなのだから、容易く信用してもらえるはずがない。焼きあがった時にはこの少女はいなかったし、今日こそは菓子に毒を持ったのではないかとか、警戒されても仕方ないのだ。


「……本当ですか!?」


 媚びるようなエリーゼの申し出に、けれど少女は無邪気に目を輝かせた。一晩寝かせたらもっと味が落ち着いて美味しくなるのに、とエリーゼが思い出しても、もう遅い。また明日、将軍に供するつもりで多めに作っていたのをすっかり失念してしまっていた。


「じゃあ奥様、お茶にしましょう。ちょうど、休憩しようと思ってたんです!」


 ミアは奪うように盆を受け取ると、くるりとエリーゼに背を向けて弾むように──やはりトラウシルト家では考えられない──廊下を小走りに急ぎ始めた。この喜びようを見ると、やっぱり駄目だとは言い出せない。


 菓子のことは諦めて、エリーゼはミアの後を追った。将軍には、また後日菓子を拵える機会もあるだろう。たとえ近く屋敷を出ることになるのだとしても、それくらいの猶予は、きっとあるはずだった。




 エリーゼの部屋に戻ると、ミアは滑らかな手つきで二客の茶器に茶を淹れ始めた。茶の作法は、この屋敷でエリーゼが人に教えることができた数少ないことのひとつ。ミアは覚えの良い生徒だった。


「やっぱり美味しい。……旦那様も、きっと喜ばれたんでしょうね」

「え、ええ」


 ミアが次々と菓子を平らげていくのを、エリーゼは毒見のつもりだろうと思おうとした。この少女はエリーゼを嫌っているはずだから。どれかひとつくらいには何かしらの仕掛けがあるに違いないと思われていても仕方ない。妙にしみじみと呟いたのだって、探りを入れているに決まっている。夢中になって菓子を食べているなんて、そんなことが、あるはずはない。


 調子に乗ってはいけない、仲良くなれたと思ってはいけない。そう自らを戒めながら、エリーゼは控えめに首を傾げてみせた。


「ええと……でも、もうしばらくの間だけのことだと思うの。お菓子も、作り方を教えておいた方が良いかしら……?」

「──え?」


 希望を持ってはいけないのだ。ミアだって、エリーゼが出ていくことを喜ぶに決まっている。だから、彼女の方でも何も気に懸けていないかのように、既に決まったことのように言わなくてはならない。


「あの、王女様に近しい方が、私の行き先を探してくださるそうなの。だから――きっとすぐに、お別れになるわ。王女様が、次の奥様になられるのかも……」


 将軍の知人とやらが喜ぶ、というのは、多分そういうことだろう。エリーゼがいなくなれば、将軍が王女を娶る障害はなくなる。離縁するのか、死んだことにでもするのか――しばらくの間は醜聞を避けるとしても、ほとぼりが冷めれば新しい縁談も出てくるのだろう。そうすれば、ヴォルフリート将軍は晴れて王家の庇護を得る。ミアたちはそれを望んでいたはずだ。だから、大人しく出ていくべきなのだ。分かっているのに、目の奥が熱くなるのはどうしてだろう。


「……どうして泣かれるんですか。困ります!」


 呆気に取られたようにエリーゼを見つめていたミアが、眉を顰めて小さく叫んだ。泣いていない、などと言っても言い訳に過ぎないだろう。たとえ頬を伝ってはいなくても、エリーゼの目には今にも溢れそうに涙がこみ上げ、彼女の視界をぼやけさせている。


「ご、ごめんなさい……」

「私なんかに謝らないでください!」

「あ──」


 謝ることさえ禁じられて、エリーゼは口を開けて固まった。俯いたら、涙が零れてしまいかねない。でも、ミアに対して何を言えば良いかも分からなかった。一応は女主人にあたる者の醜態に、ミアも困惑した様子で溜息を吐いた。年下の少女にさえも、エリーゼの振舞いは呆れられるようなものなのだ。


 ミアは、エリーゼを数秒の間じっとりと睨むと、気を落ち着かせようとするかのように茶をひと口啜る。彼女が再び口を開いたのは、さらにたっぷり数秒が経ってからのことだった。


「──ずっと失礼をして、申し訳ありませんでした。貴族のお嬢様って聞いてたから、怒って出ていかれると思ってたんです」

「そう、だったの」


 また毛を逆立てる猫の勢いで苦言を呈されるだろうと、身構えていたのに。旋毛つむじを見せつけるように深々と頭を下げられて、エリーゼはまた何も言えなかった。ミアの方でも返事は期待していなかったのかもしれない。ぴょんと跳ねるように身体を起こした時、少女の眉はまだ寄せられたままだった。


「きっと、何か企んでるに違いないと思ったから。……でも、もう思ってないです。奥様はあんまりおどおどしてるし……旦那様にも、言われたし」

「ええ、私は間違ってこのお屋敷に来てしまったようなものなの」


(あの方は、何をどのように仰ったのかしら……?)


 不思議に思いながら、エリーゼはやっと相槌めいた言葉を紡ぐのに成功した。彼女は将軍に対して企むところはないと、あの方も信じてくれたのだろうか。ふたりきりでのやり取りは、子供のような年の少女に聞かせることではないはず。先ほどの書斎で言われたように、仲良く──というのも、おかしなことかもしれないけれど──やって欲しいとか、そういうことだろうか。だから、ミアも歩み寄るような態度を見せてくれたのだろうか。


 少しだけ勇気づけられて微笑もうとする。けれどエリーゼが何か言うことができる前に、ミアの表情にひどく暗い影が落ちた。


「旦那様に復讐してくれると、思われてしまったんですよね」

「──っ」


 エリーゼが息を呑む間に、ミアは茶を淹れ直してくれた。教えたばかりの時のようにぎこちない手つきは、少女の方でも心を落ち着ける時間稼ぎが必要なのだと教えてくれる。ふたりの茶器から再び湯気が上る頃になってやっと、ミアは硬く強張った微笑を浮かべた。


「旦那様もひどい勘違いをされたんですね。お気の毒だったと、思います」

「……仕方のないことだったと思うわ。貴女たちにも迷惑だったでしょうに。あの――」

「良いんです。奥様は……思ってた感じと違って、優しい方だし。演技じゃないのも、分かります」


 ミアは、またもエリーゼに謝る隙を与えてくれなかった。気遣う言葉さえかけてくれた。意外なほどに優しい言葉に目を瞠るエリーゼに、ミアは小さく呟いた。


「……それに、王女様だって、良い奥様かどうかは分からないですし」

「どういうこと……?」


 王女が将軍の妻になることを、ミアは望んでいたのではないだろうか。考えるまでもなく、分かる。何の力もないエリーゼよりも、王女の方がずっと将軍の妻に相応しい。王女の夫となれば、王家の庇護を受けられるだけでなく、名誉も授けられるはず。たとえ将軍自身が望まないとしても、あの方の未来のためにはそれが最善、のはずだ。


(なのに、どうして苦しいの……?)


 将軍の隣に輝かしい女性の姿がいる場面を思い浮かべると、なぜかエリーゼの胸は痛んだ。きっと、後ろめたさゆえだろう。エリーゼにはできないことを、知らない高貴な女性に叶えてもらいたいなどと。それこそ不遜で不敬であるはずだから。

 胸を手で押さえるエリーゼを窺うように、ミアは上目遣いをした。せっかく淹れた茶は、ふたりの間で手をつけられずに冷めていくばかり。


「お客様と旦那様が話されてるのを……えっと、聞いてしまったので。言ってはいけないんでしょうけど──」


 そこまで言ってもなお、ミアは躊躇う気配を見せた。目を上げて視線を投げるのは、将軍がいるはずの書斎の方向。将軍がエリーゼの部屋での会話を聞きつけることなどできないだろうに、主の耳を恐れるかのように、少女はごく小さな声で囁いた。


「王女様は、旦那様を利用したいみたいなんです」

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