第38話 魔童子


 柔志狼は、ルプス《武蔵》と対峙していた。


 天羽と分断した今であれば、ルプス《武蔵》は勝手な判断で蓮を殺めるわけにはいくまい。

 柔志狼は好機とばかりに、立ち塞がった。

 だが、蓮を抱えながらも、ルプスの獣の如き俊敏さは鈍らない。

 加えて巧妙に、蓮を盾にするのであれば、柔志狼から仕掛けるのは更に難しかった。


 一度、葉沼屋にて柔志狼の技を受けたことのあるルプスは警戒し、自ら動くことはない。

 埒の開かない状況に舌を打つ柔志狼の耳には、山南と天羽の会話が断片的に届いている。


「山南ぃ! いつまでも戯言に惑わされるな」


 一瞬、柔志狼が視線を外し、吹き飛ばされた山南に注意を逸らした。


 刹那――ルプスが動いた。


 嗚咽に濡れる蓮を盾にし、ルプスの凶爪が唸りを上げる。

 それを寸前で外に捌くと、ルプスを引きこみつつ、柔志狼が膝を突き上げた。

 だが――


「やべぇ!」


 柔志狼の膝蹴りの先に、蓮の姿があった。

 慌てて急制動をかけた膝が、蓮の白い腹部の寸前で止まる。

 その膝を、ルプスが鷲掴みにした。

 肉を裂き、鋭い爪が膝に喰いむ。

 体勢を立て直す暇もなく、柔志狼の身体は木端のように振り回された。


「ぐばぁ」


 人外の膂力により、なす術もなく、柔志狼は樹の幹に叩きつけられた。


「大丈夫か!」


 すぐ隣に、立ち上がりかけた山南がいた。


「お前ぇに心配されるほど――」


 ぺっ――と、血の塊を吐き出し、柔志狼は立ち上がる。

 その時だった。弓月の悲鳴が上がった。

 弓月の身体を抱え、天羽が宙を跳んでいた。


「しまった」


 山南は、大事な事を失念したことを悔やんだ。

 天羽の言葉に心を囚われ、弓月の事を一瞬でも失念したのだ。

 それは柔志狼も同じだった。


「さて、遊びは終わりにしましょう」


 魔法円の内側に戻ったルプスの傍らで、天羽が勝ち誇ったように笑む。


「――蓮……」

「里姉ぇ――」


 互いに伸ばした指先が、微かに触れた。

 奇しくも、数か月ぶりに再開した姉妹は、共に人外の腕の中であった。

 最後の巫女と偽りの巫女――二人の瞳が呼び合うかのように、紅く光を放つ。


「美しい光景としておきましょう。だが――」


 天羽が指先で弓月の額を突き、続けざまに蓮の額を撫でた。

 うっ――と、呻くと、弓月はそのまま硬直したように動かなくなった。唇を開くが声も出せず、首を巡らせ辺りを窺う。どうやら声は出せぬが、首から上は動くようである。


 意志のある視線が泳ぎ、己の身になにが起こったのか不安に揺れる。

 その逆に、蓮は全身が弛緩した様に力無い。ぐったりと身体をルプスに預けると、微睡まどろむように瞼を閉じた。


「何をしたのだ」

「少し静かにしていてもらうだけです」


 紅い唇がいやらしく吊り上る。


「ルプス」


 天羽が命ずると、蓮を抱えたままのルプスが魔法円の中心へ立つ。


「山南!」


 策があるわけではない。それでも柔志狼は、山南を促すように動いた。


「待て!」


 だが、山南はそれを制した。

 そして――


「待て! 待つのだ、天羽――いや、


 山南が魔法円に向かい叫んだ。

 その声に、天羽の振り上げた手が止まった。


「馬鹿。誰だよ益田四郎って――」


 たたらを踏んだ柔志狼が、山南を睨みつける。


「その名で呼ばれたのは、何百年ぶりですかね」

「あぁぁん?」


 文句を言いかけた柔志狼が唖然とした顔で、天羽と山南を交互に見つめた。


「矢張り……」


 山南の頬が強張る。


「なに勝手に納得してんだよ。説明しろ」


 柔志狼が隣に並んだ。


「天羽四郎衛門とは仮の名ですか」


 苦いものを絞り出すように、山南の額に皺が浮かぶ。

 怪訝そうに、柔志狼の眉が上がる。


「今から二百年以上前。寛永年間に肥前島原にて起こった切支丹を中心とする、徳川の治世最大の一揆――」

「おい山南よ。まさか天草の乱の事を言ってるんじゃあるまいな」


 それは江戸幕府の初期。三代将軍家光の治世に起こった争い。この事件の鎮静化の後、ポルトガル人が日本より追放され「鎖国政策」が始まっていく切っ掛けになったともいわれている。柔志狼にもそのくらいの憶えはあった。


「当時、齢十六歳にして切支丹たちの中心的指導者として立ち、神童とも神の御子とも言われた若者――」

「一寸まて! お前ぇ、自分が何を言おうとしているのか分かっているのか」

「勿論ですよ葛城君。自分でも馬鹿げていると思う。だが、三百年も前に日本に運び込まれた神の宝具を——否、二千年近くも前に神の子の血を受けた聖杯を狙っている相手なのですよ。今更、二百年やそこいら――」


 おかしくもない――と、山南は言った。


「違いますか」


 山南が、魔法円に立つ天羽に問うた。


「あいつが天草四郎だと」


 そんな事あるかよ――と、柔志狼が怒鳴った。


「嫌なことを思い出させる」


 二人の視線を受け、天羽は遠くを見るように眼を細めた。


「あの光景は地獄でした——老若男女はもとより、侍も農民も問わず、皆が平等に飢え、平等に乾いた。そして皆が平等に死んでいく。神の名の下、慈愛を説き、胸に信仰の十字を切ろうとも、ヒトという生き物は己が生きようとするためには、幼き我が子の生き胆すら喰らうものなのですよ……」


 憶えておくといい――と、蝋のように白い天羽の肌の下に、暗く冷たい澱が凝っていく。


「――四郎よ、オマエは尊き血の結実した唯一無二の存在。神の御子としてこの世に産まれ出でし救世主めしあ。幼き頃よりそう聞かされ育ちました。オマエは京に上り、神の叡智の結晶を受け継ぐ存在であると」


 動かぬ身体のまま、弓月も視線を揺らす。


「なにが神の御子か……」


 ぽつり――と、泥を溢すように、天羽が呟いた。


「あの日――。そう、原城の陥落したあの日。己が無力を嫌というほど突きつけられたあの瞬間、私の中の神は死にました」


 肉体はそこにあるにも関わらず、ひとり淡々と語る天羽の姿は、内面より滲み出る漆黒の澱と共に、闇に溶けていくように見えた。

 だが何故か山南には、天羽が笑っているように感じられた。


「おいおい冗談は勘弁してくれ。天草四郎だと? 何百年前の話だよ。それとも何か、この薄気味悪い兄ちゃんは、人魚の肉でも喰ったとでもいいたいのか」


 八尾比丘尼やおびくにじゃあるまいしよ――と、柔志狼が唾を吐く。


「オランダ商戦の船に乗り、島原より脱出した私は、西欧を――いや、アラブ諸国は言うに及ばず、地中海を越えエジプト、エチオピア、そしてインド、ネパールに至るまで――文字通り世界中を流浪しました。それも全て、己の中に失われた神を求めて」


 天羽が語る国の名は、山南や柔志狼の知らぬものばかりであった。だが、その語ることが嘘ではない事は確信できる。


「私はゼスと同じ道を歩き、神の真理を追い求めました。その中で数多くの叡智グノーシスに触れていくうちに、刻を味方にする術も身に着けました。そのおかげで私は、主であるゼスよりもずっと永い刻を、神を追い求めることに費やすことが出来たのです」


 人魚を食べたわけではありませんよ――と、紅い唇が哂った。


「全て事実だというのか」


 山南が問う。


 はい――と、闇が頷いた。


「だから幕府を――徳川を恨み、復讐の為にこの日本に戻ったというのか」

「それは少し違います」


 天羽が首を振る。


「復讐の為に戻ったわけではありません。感謝こそすれど、今更恨むなど――」


 あろうはずがない――と、天羽の紅い唇が吊り上る。


「感謝? やっぱり頭のいかれてる野郎だな」


 柔志狼がこめかみの横で、指先を回す。


「解りませんか。徳川は、私が充分な力を得るまで鎖国し《国を閉じ》、教皇庁から聖月杯の存在を隠し続けてくれたのですよ。これを感謝せずしてなんとするのです」


 無意識に、山南が拳を握る。


「この益田四郎時貞。二百年以上の年月を経て、神の力を手にするために、この国に戻ってきたのですよ」


 魔人・天草四郎――天羽の唇が、上弦の月のようにつり上がる。

 天羽の言うことが本当ならば眼前の男は、神の力への渇望を糧に、異国の地で二百年以上を生きてきたことになる。

 その研ぎ澄まされた純粋な狂気の念が、眼前にいる天羽四郎衛門天草四郎という存在を否定させないでいる。


 握り締めた指先が、白く血の気を失っていく。足元から這い上がる冷気が、山南の背筋を凍てつかせた。


「なんだよ。てっきり若白髪のとっちゃん坊やかと思ったら、三百近い本物の爺だったとはな」


 だがそんな山南とは裏腹に、柔志狼が声を上げて嗤った。


「誇大妄想にトチ狂った、死に損ないの糞爺の戯言なんざ、どうでも良いんだけどよ」


 じり――と、柔志狼が足の指一本分、間を詰める。


「手前ぇ躾の悪い馬鹿犬をよ、いつまでその娘とじゃれさせとくんだよ」


 いい加減、離せよ――と、柔志狼の身体から刃のような殺気が揺らめく。


「お優しいことですね。神の御心は常に慈愛に満ちています。愚かな子羊柔志狼が、心より欲すれば、望みは叶えられますよ。但し――」


 儀式の後の肉片としてね――と、天羽は言った。


「私が望んでいるのは、真のマグダラのマリアのみ。確かにこの娘は、間に合わせの代役として役立ちました。だが、本物の巫女が我が手に有る以上、こんな汚れた紛い物の巫女などなんの未練もありません」

「なんだと――」


 柔志狼の押し殺した声が震えた。


「手前ぇ、その娘をなんだと思っていやがる!」


 全身が憤怒に震え、烈火のごとく吠えた。

 出会ってまだ数日だが、常に飄々とし、時に達観したような言動で余裕を見せる柔志狼が、このような姿を見せるなど、山南には意外であった。


 だがそんな柔志狼の憤怒の気迫が、天羽の呪縛から山南を解き放っていた。


「葛城君、落ち着くのだ」

「煩ぇ!」

 

 一瞬――柔志狼の姿が消えた。


 否。地に沈み込むように膝を落とし、颶風と化し奔った。


「愚かな」


 しかし、その動きは天羽に見えていた。


「ルプス!」


 天羽の命でルプスが吼える。

 獣人の鋭い爪が、意識のない蓮のまだ固さの残る乳房に突き立てられる。

 だが構わず、懐より苦無を抜き打ちつつ、柔志狼が更に加速する。


「させません」


 天羽が腕を振るうと、見えない真空の刃が苦無を吹き飛ばす。


「ちぃ!」


 間に合わない――柔志狼が歯を軋らせ加速する。

 ルプスの爪が、蓮の白い肌に喰いこみ、血の珠が膨らむ。

 その光景に、弓月が声にならぬ悲鳴を上げ、紅く光る瞳を見開く。


 その時だった。


 さくっ――と、獣毛に覆われたルプスの手に十字状の刃――車手裏剣が突き刺さった。


 一瞬――ほんの一瞬、想像だにせぬ意識外からの攻撃に、ルプスの動きが止まった。


「何奴!」


 天羽が手裏剣の飛来した方へ視線を走らせる。

 誰だ――と、山南も視線を巡らせるが、気配すらない。

 誰だか知らんが、柔志狼はその機に乗じた。


「ちょっと、ごめんな」


 ルプスの真正面に立つと柔志狼は、蓮の白い腹に両掌で触れた。


「破っ!」


 呼気と共に両掌を突き出すと、蓮の身体を残しルプスの身体だけが、吹き飛んだ。

 なんとも不可思議な光景であった。


 瞬間的に足の裏から練り上げた力を、蓮の身体を浸透させ、背後にいたルプスに焦点を合わせ打ちこんたのだ。

 大陸の武術にある発勁と呼ばれる技術に似ている。


 ルプスの巨体が弾け飛び、石段に叩きつけられた。

 ぐったりとしたままの蓮を抱き寄せ、


「悪かったな」


 ぽんぽん――と、柔志狼は、意識のない蓮の頭を叩いた。

 すると、微睡む蓮が瞼を開いた。


「おっ――」


 安堵に、柔志狼の頬が緩みかけた――その時だった。


 蓮の瞳が黄色く輝き、

 柔志狼の腹に熱が広がった。


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