第45話 陰陽稽古
稽古をつけてくれ――沖田が言った瞬間、二人の間に
山南は本能的に跳び退り、沖田と間合いとる。
およそ畳二枚――二間にも満たぬ間合い。互いに剣を抜けば、一足一刀の間となることは必至。だが二人の剣は、いまだ互いの鞘の内だ。
山南のすぐ左側には樫の机。対して右側は廊下を隔てる障子。
これでは、山南が抜刀する際に、樫の机を気にしなければならない。それに対して、沖田が剣を抜くに妨げるものは無い。
沖田相手に、この立ち位置の差は致命的である。
――と、そんな山南の心中を察したか。沖田の腰がわずかに沈んだ。
すぅ――と、沖田の右手が上がり指の皮一枚、柄に手が触れる。
握りはしない。触れているだけである。
同時に、全身が
それに対し山南は、静かにそこに在った。
自然体――気負いも力みもなく、程よく弛緩した筋脈。その一方で、足の裏から頭頂まで芯が透り骨で立っている。
その姿は天地を貫く一本の柱のようである。
両手は脇に垂らされ、剣を握るそぶりすらない。
静で在りながら動に満ちた沖田。
柔で在りながら剛を秘めた山南。
同じようにそこに在りながら、全く異なる
すでに、沖田の抜身の殺気が痛いくらいに、山南の頬を嬲っている。
「どうしました。稽古をつけて欲しいのであれば、そちらから来るのが礼儀ですよ」
「――山南さんこそ」
「なんです?」
「そのように構えも取らず、私を甘く見ているのですか」
「まさか」
山南の眼尻に、春風のような笑みが浮かんだ。
「……舐めるな」
ぽつり――と、沖田が呟いた。
瞬間――たわめた全身の
颶風の如く、一瞬で間合いを詰めた沖田が、躊躇なく剣を抜き放つ。
右脇から首へ斬り上げる、必殺の斬撃。
切っ先が、山南の襟に触れたその刹那。
ふわり――と山南が下がった。
一瞬でも遅れれば身を斬られ、逆に早ければ更に詰められる。
まさにその狭間となる絶妙の呼吸で、沖田の剣を外す。
沖田に生じた刹那の虚に、山南は手に隠し持った呪符を放った。
最初から山南には、沖田と斬り結ぶ気はなかった。
天羽にかけられた呪を解くために、この一瞬を誘ったのだ。
だが――
切り返した沖田の剣が、山南の呪符を切裂いた。
「このような子供騙し!」
舐めるな――と、沖田が踏み込む。
迅い――
沖田の剣が、山南の頬を裂く。
血飛沫が糸を引き、次々と繰り出される剣を、山南が躱す。
だが。
きゅいぃん!
咽喉の真ん中を狙って突いてきた沖田の切っ先を、山南はついに己の剣を抜いて弾くしかできなかった。
「やっと本気になってくれましたね」
鬼火のように沖田の瞳が嗤う。
「仕方ありませんね」
そう呟く山南の眼に、先程までの笑みはない。
出来る事ならば、沖田相手に剣を抜きたくはなかった。だが、天羽の呪を解く為には、まず沖田の剣を黙らせるより方法はない。
「本気で相手をしますよ」
この戦いで初めて、山南から動いた。
嵐の如き勢いの沖田の剣に比べて、山南の剣は清流のようだった。
滑るように
くかか――
だがそれを、沖田はいとも容易く受けていく。
沖田に剣を弾かれ、山南の身体が樫の机にぶつかる。
そこに沖田の剣が振り降ろされた。
「ちぃ!」
それを寸前で躱すが、刃が左の肩を掠め山南が転がった。
「山南さんの本気はこんなものですか」
沖田が剣先を向け、無邪気に笑む。
「これはどうにも参りましたね」
山南は立ち上がると、剣を構え直す。
二人の剣の腕に見た目ほどの差はない。だが、あるとするならば質の差。
つまり、一切の躊躇の無い沖田の剣に対し、本気とは言え沖田を傷つけたくない山南の剣。この本質的な気組みの差が、この状況を生み出しているのだ。
「分かったんですよ」
沖田が動いた。
「私は難しく考えすぎていたんです」
上段から中断に変化した剣が、山南を襲う。
山南がそれを外に弾く。
「四郎さんが、それを教えてくれました――」
自由であればよいと――沖田の身体が独楽のように反転し、逆側から斬りこんでくる。
「私はね、斬りますよ。斬って斬って斬りまくります。この剣を振るって、神だろうが仏だろうが鬼だろうが斬ります!」
酔いしれるように叫ぶ沖田の剣が、山南を襲う。
だらり――と剣を降ろし、山南は部屋の隅まで追い詰められてしまう。
「どうです。これでもう私を子供扱いしませんよね」
右手で持った剣を突きつけ、沖田が言った。
「残念ながら君は、少しも強くなどなってはいない」
「なんだって?」
「これはそもそもが沖田君の持っている
弱くなった――と、山南が首を振る。
「黙れ!」
沖田が歯を軋らせ敵意をむき出しにする。
「現にここまで追い詰められたくせに、なにを言う!」
山南の咽喉元に、沖田の剣先が触れる。
「紛い物の力を、己の力と勘違いしないことだ。そんな力では――」
私は斬れない――と、山南の咽喉に赤い血の珠が生じた。
「煩い!負け惜しみを言うな!」
沖田は剣を引くと間合いを取り、平青眼に構える。
それに対し、山南は剣を鞘に納めた。
「愚弄する気か!」
沖田の瞳に妖しの鬼火が揺らめく。
全身から殺気を放ち、沖田が動いた。
それは、沖田のみが放てる神速の妙技――三段突き。
眉間。
咽喉。
胸。
くっきりと残像を残し三本の凶刃が、山南に同時に襲い掛かる。
なす術もなく、三条の煌めきが山南の身体に吸い込まれていく。
だが――確かに貫いた筈の山南の姿はそこになかった。
馬鹿な――驚愕に眼を剥く沖田の脇腹を、鞘に納めたままの剣で山南が打つ。
「がはっ――」
沖田が血を吐き、その手から剣が零れ落ちた。
沖田が突いたのは虚像。既に山南の現身はそこには無かった。
膝を着く沖田を見下ろす山南の手に、白い呪符があった。
「――急々如律令!」
剣印で五芒星を描くと、沖田の額に白い符を押し当てる。
「濁氣浄散。邪氣散華――」
見る見る間に白い符が、黒く染まっていく。
「転!」
山南が印を組みかえると、沖田から剥がした呪符が、ぼろぼろと崩れた。
沖田が床に倒れ込む。
ふぅ――と、息を吐き、沖田の額に触れる。
安堵するように頷いた山南が。一瞬膝を崩す。
だが、壁に手をつくと持ち直す。
剣を腰に挿すと、もう一度だけ沖田を見やり、山南は天羽の後を追う。
障子を開けたところで、
「ご案内致します」
草摩が慇懃に頭を垂れ、山南を出迎えた。
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