第46話 霧中夜行


 それは野犬の群れの様であった。


 否。

 そうではない。

 百をゆうに超える人の群れだ。


 老若男女は言うに及ばず。

 職人風の男もいれば、どこかの女中の女もいる。


 侍。

 商人。

 芸妓。


 中には禿頭の僧や公家と思わしき者もいる。

 その全てが、伏見丹に侵された暴徒であった。


 夜の闇の中で瞳は不気味な光を帯び、身体が黒々とした獣毛で覆われている者もいる。皆一様に、異様な妖気をまとい、威嚇するように近づいてくる。


「どうするよ、歳」


 近藤が、ごくりと咽喉を鳴らした。


 ちっ――と、土方が舌を打つ。


 すでに松平容保を乗せた駕籠は中立売御門に入り、門は固く閉じられた。だからといってこの状況を前に、土方たちが引くわけにはいかない。


 百や二百ではない。塀をよじ登ることも、門を壊すことも出来るだろう。一方の新撰組は、手負いの隊士を含めても二〇にも及ばない。


 そもそも、今宵の転居自体がなのである。門の内側に入った会津藩や御所の警護の増援は望めまい。


 良しなにな――と、会津の家老に暗に含められれば、新撰組のとる選択肢は他にない。

 とはいえど、この何とも禍々しく異様な暴徒を前に、勝ち筋が浮かばぬ。


「俺たちには一つしか道は無ぇだろ」


 違うかい、近藤さん――と、土方は言った。


「それもそうだ。違いない」


 土方の言葉に後押しされたように、近藤の唇に太い笑みが浮かぶ。

 それを見て、土方も唇を僅かに綻ばせた。


「総司はどうした」


 前を見据えたまま近藤が言った。隊士の中に沖田の姿がないのは近藤も気が付いている。


「奴なら逃げた暴徒を追ったよ」

「そうか」


 沖田が逃げるわけがないことは、師である近藤が誰よりも知っている。ならば理由は兎も角、土方の言葉を疑う必要はない。


「おいおい。どうすんのよ。かなりヤバい状況だぜぇ」


 左之助が後ろから頓狂な言葉を投げかけてくる。


「逃げる気か」


 土方が、じろりと振り返る。


「逃げたいねぇ」


 怖ぇ怖ぇ――と、肩を竦ませる左之助の顔には、獰猛な笑みが浮かんでいた。


「怖すぎて、震えちまうぜ」


 唸りを上げて、左之助の槍が大きく風を斬った。


「馬鹿野郎。無駄に力を振りまくな」


 お陰で気が楽になった。


「手前ぇら、分かってるな。生きて帰れると思うな。ここで命を捨てろ。尻込みして逃げ出す奴ぁ――」


 俺が斬るぜ――と、土方が剣を振る。

 その言葉に、ざわつく隊士たちに緊張が走る。


 ふん――と、鼻を鳴らすと、


「近藤さん」


 土方が促す。

 近藤の太い顎が頷き、


「新撰組。行くぞぁ!」


 銅鑼を鳴らしたような声が夜気に響き渡る。

 近藤が先頭を走り出すと、寸時遅れず土方が続く。


「行くぞ手前ら!」 


 槍を頭上で振り回し左之助が走ると、恐怖を奇声で塗り隠した隊士たちが続く。


「がぁあ!」


 野犬のように跳びかかってきた侍を、近藤が横殴りに斬りつけた。刃筋などあったものではない。こん棒で殴られたように、毛むくじゃらの侍が吹っ飛んだ。


 そこへ牙を生やした僧形が襲い掛かる。


「むぅ!」


 一瞬、僧侶であることに躊躇した近藤が剣を止めた。


「馬鹿!」


 それを土方が一刀に斬り捨てる。


「何やってんだ。死ぬ気か!」


 そう怒鳴りつける土方は、副長では無く多摩時代のバラガキであった。


「こいつらは坊主じゃねぇよ。ましてや――」


 人でもねぇ――と、立ち上がろうとする僧形に剣を突き立てた。


「助かったよ歳」 


 近藤が己の迂闊さに苦笑する。


「だがな――」


 と、土方に向かい剣を突き込んだ。


「お前もまだ甘い」


 土方の背後から襲い掛かろうとしていた男の口に、近藤の剣が突き込まれた。


「違ぇねぇ」


 首を僅かに捻った土方が苦笑する。


「千客万来だ。遊んでる暇ぁねぇな」


 左之助を始め、数人は奮戦しているが、殆どのものは妖異の群衆に逃げ腰である。


 全滅か――土方の脳裏に最悪の状況が浮かぶ。相手を殲滅しての全滅であれば良い。だがこのまま行けば、こちら側の一方的なやられ損である。といって、逃げるという選択肢はない。


 どうする――と、無意識に近藤を窺う。


 近藤の性格からすれば、全滅を避けるために撤退を言い出しかねない。だが、塀の向こうでは会津どころか、御所の連中だって見ているのだ。そんな事をすれば、新撰組は即座に価値を失う。


 それに気が付いているのか。近藤の眉間に皺が寄る。


「歳。これ以上は――」


 土方を見つめ、口を開き替えたその時だった。

 突然、群衆が突如踵を返し、闇の中に走りだし始めた。


「何が起こったのだ」


 近藤が眼を見開く。


「分からん。だが好機だ」


 追撃するか――と、口に仕掛けて、土方は言葉を飲み込んだ。

 多くの隊士が、安堵に座り込んだ。


「手前ぇ――」


 叱りつけようとする土方を、近藤が制した。


「敵は敗走したぞ。我らの勝ちだ!」


 近藤が銅鑼のような声で勝ちかちどきを上げた。

 その声に、隊士たちに気力が戻った。


「副長。体勢を立て直し、このまま御所の警備につく」


 急げよ――と、近藤が叫んだ。


「承知」


 近藤勇と言うおとこには、これがあるのだ。この土壇場であのような台詞を吐くことが出来る機転。一言で負け戦が勝ち戦に変えたのだ。更には「御所の警備」という事により、追撃をしない理由を明らかにし、隊士たちも救った。


 このまま追撃すれば、こちらの被害は甚大なものになっていただろう。

 つまり近藤は、たったの二言で、新撰組の面子も隊士も救ったのだ。


 適わねぇな――と、土方は誇らしく思った。だからこそ、自分は近藤勇と言う男についていくと決めたのだ。


 それにしても――


「奴らは何処へ向かった」


 先の見えぬ闇を見つめ、土方はひとり呟いた。



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