第47話 黄泉聖殿
草摩に案内されながら、中庭に面したくれ縁を進んでいくと、庭の奥に大きな蔵がみえた。
だがそれを蔵と呼んでよいものだろうか。
普段目にする白壁の瓦屋根のそれとは異なり、切り出した四角い岩を組み上げた壁は、城壁のようだった。
半球状に組み上げた石の屋根は、山南の知る蔵のとは大きく異なる。
神殿か――直感的に、山南はそう思った。
明らかに人為的に造られたものであるが、そこから受ける印象は
事実それは、遠き
「こちらへ」
草摩がくれ縁を降り、石段の前に案内する。
石造りの神殿の大きさは、母屋よりも小さい。だがそれでも、寺の本堂に匹敵するかもしれない。
建物の中央部に、装飾の施された観音開きの石扉がある。その扉の手前に円形に組まれた、石造りの井戸のようなものがあった。
なんとも奇妙だった。
石段の中央にも同じようなものがあるのだ。どちらも、通り道の真ん中に配されており、石段を昇るにしても、中に入るにしてもそれを避けねばならない。
「んっ?」
月下のなか見渡せば、同様のものが幾つも点在しているのだ。
つくづく奇妙である。井戸が枯れたのであれば、このように近くに彫ることなどあるまい。それも一つ二つの話ではない。数えてみれば十個ほどもある。
石段を進むとき、山南はそれとなく底を覗き込んだ。
ぞくり――と、山南の背筋が粟立った。
それは、底から微かに吹き上がる風のせいではない。冷たい針のような気配が底の方に満ちているのだ。
「枯れ井戸です」
草摩が言う。
「どうぞ」
と、草摩が石扉を開いた。
扉の脇に避けた草摩に促され、山南は脚を踏み入れた。
「こ、これは――」
そこは霊気に満ちた
周囲の壁には燭台があり、そこに火が灯されている。あの香油の匂いがカビ臭さと共に、山南の鼻腔をくすぐる。
周囲を窺う山南をよそに、草摩が奥へと進む。突き当りの壁の手前に、地下へと延びる階段があった。
「こちらへ」
返事も待たず、草摩が降りていく。
山南もその後に続いた。
地下へ続く階段は足元が明るかった。
先ほどまでの、切り出された平らな石とは違い、手掘りの通路の様である。所々に窪みがあり、蝋燭が灯されている。先を見通せるほどではないが、草摩の背を見失わない程度には明るい。
階段は緩やかな螺旋を描きながら下へと向かっていた。
石室から階段を降りはじめた時は、北を向いていた筈である。だが螺旋状に何度も向きを変える階段に、方向のみならず、時間の感覚も狂っていく。
まるで、黄泉の国に誘われているような錯覚に陥りそうになる。
「貴方は、本当に信じているのですか」
山南は気を紛らわせるように、草摩の背中に問いかけた。
「何をでございますか」
闇が揺れた。
「天羽四郎衛門が、豊臣の血を継いでいるという事を――」
益田四郎とは言わず、敢えて天羽と、山南は言った。
「あのお方は、確かなる証をその身に持っておられました」
「それは?」
「貴方様にお答えする謂れがございませんが――」
と、言葉を切り、
「この神殿の扉が開いたことが、その一つにございます」
矢張り、この
だとすれば、豊臣秀吉という男は己の血筋に聖月杯を渡すために、このような仕組みを作ったということになる。
だが、弓月の話によれば、織田信長からの命により、明智光秀は聖月杯を封印しようとしていた。そして光秀を討った秀吉が、この件を引き継いだというのだ。
だが秀吉は、亡き主君である信長の意志を継いだものでなく、己の私欲の為に成したということなのだろうか。
だが何故にそのような事を――湧き上がる疑問に、山南は嘆息する。
草摩の背はそれ以上の話を受け付ける様子もなく、二人は無言のまま階段を下りてゆく。
既に時間の感覚はない。どれくらい階段を降りたのかも分からない。だが四半刻は経ってはいない筈である。
そんな山南の心中を見透かしたかのように、唐突に視界が開けた。
「なんなのだ……ここは――」
そこは一言でいえば、神を讃える為だけに存在する空間だった。
太古の石舞台を思わせる巨石で囲まれた、広大な空間。
それは断じて自然に出来上がったものではない。外の神殿よりも遥かに高い精度をもって、人の手により丹念に作り上げられたものだ。
装飾を施された柱状の石が、左右に等間隔で配されていた。また両の壁を繋ぐように渡された石梁も、緻密な装飾を施されている。いずれも、木造の建築物の多い日本とは違う、異国の文化の仕様である。
磨きこまれた大理石による床は、白い鏡面のような輝きを発している。
それが燭台の灯りを受け、仄かに光を発しているように見える。
山南は切支丹の教会や聖堂といった類のものに詳しいわけではない。だがそれでも、眼前のこの光景が、何のために作られたのか、一瞬で理解が出来た。
静謐な霊気の漂うこの空間全てに、神の寵愛を受ける喜びが満ちているのだ。
様式の違いこそあれ、寺社仏閣と同じ意図をもって作られた空間である。
溜息と共に仰ぎ見れば、半球状の円蓋が見えた。
中央には太陽が描かれ、そこから淡い光が差し込んでいた。
もしや――と、周囲を見渡せば、全部で十の天窓が存在する。
神殿の中央に縦に等間隔で三つ。少し離れて、奥にもう一つ。その左右を挟むように、それぞれ三つ。全部で一〇の天窓が配されていた。
「そういうことか」
全ての天窓が、あの枯れ井戸と繋がっているのだろう。微かな月明りが、光の柱となって聖堂を照らしている。
そして光に照らし出された、色の違う石床は全て――
「要石――
まさかこの場所に、これほど集中して要石が配されているとは思わなかった。これが全て解放されれば、どうなるか分かったものではない。
「素晴らしいと思いませんか」
嬉々とした声が、静謐な空間に響き渡った。
いつの間に姿を現したのか、神殿の中央部に天羽が立っていた。
「いったい誰がこのようなものを」
京の地下に、これほどまでの規模の地下聖堂を作るなど、いつ誰が成し得たというのだろうか。
「かつてここが、何と呼ばれる場所であったか――憶えておられますか」
先達、豊壺屋にて天羽の口から聞かされた話だ。
「本能寺――そうか。そういうことか」
自分の口を突いた言葉に、山南の全身が粟立つ。
天正一〇年六月――明智光秀の謀反に会い、織田信長がその命を落とした場所である。
その後、信長の跡を継ぎ天下を治めた豊臣秀吉は『安寧楽土』を築くために、京の町の大改造に着手した。天下人となった己の力を広く誇示する為に、政庁と豪邸を兼ねた『聚楽第』を建設。その際、多くの寺院が一つ所に集められ、本能寺も寺町通沿いに移転されている。つまりこの場所は、始めに本能寺の建てられていた場所なのだ。
「そもそも、秀吉が京の町を作り変えた理由が、これ《地下聖堂》を築きたかったのからなのですよ」
あり得るかもしれない。というよりも、このような大規模なものを秘密裏に築くことの出来るだけのの人間は秀吉以外にないだろう。
「美しいでしょう」
山南の思考を遮断するように、天羽が言った。
円蓋から零れる光を浴びる様に、ゆっくりと近づいてくる。
「私も海の向こうで色々と見てきました。ですが、これほどのものは、西洋でも中々お眼に掛かれるものではありません。何故ならここは、神の御子の再誕せし場所となるのですから」
御覧なさい――と、天井を指し示す。
円蓋を取り囲むように、白い翼を生やした幼子たちが描かれていた。頭頂部に光る輪を浮かべた裸の幼子らは、一様に舞い踊り、謡っている。また或いは、金色の楽器を吹き鳴らし、あるものは竪琴を引く。
仏教で言うところの童子に似てはいるが、趣は明らかに異なる。
それは西洋で大聖堂などに描かれる、フレスコ画と呼ばれる画法で描かれた宗教画である。だがそのようなことを、山南は知らない。
ただ、そのあまりにも緻密で、神への賛辞を生々しく主張する写実的な手法に、感嘆の溜息を漏らすしかない。
大蛇がのたうつような躍動感と、生命力の溢れる幹を持つ大樹には、零れんばかりに覆い茂る葉が描かれている。どこまでも高く延びるその姿は、天を掴もうと腕を伸ばす巨人のようでもある。
そんな大樹には、毒々しいまでに紅い果実が実り、それを口にする一組の裸の男女が描かれていた。
またそれとは別に、大樹をよじ登り紅い果実を踏みつけながら、尚も天空へ向け必死に手を伸ばす男の姿もあった。
そして更にその上には、翼ある幼子を蹴散らし、光り輝く太陽に掴みかからんとする者の姿もある。その鬼気迫る様子を見れば、単に神に対しての賛美のみを描いているわけでもないようだ。
山南の眼前に広がるのは圧倒的な蠢き。その写実的で躍動感あふれる動の描写は、人の持つ生への執着を暴力的に突きつけてくる。
「神に至るまでの
忘我し視線を奪われる山南を、天羽の声が引き戻した。
「エデンにて、永遠の命を約束されていた神のひとつ子たるヒトが、禁断の果実を口にした為に、有限の命に堕した姿」
「禁断の果実……」
「自ら手放してしまったのに、ヒトは失ったものを追い求めもがき続ける。それこそが神より与えられし真の罰――」
冷徹な声が響き、周囲に余韻を残す。
「改めて。お待ちしていましたよ。山南啓助」
山南を迎え入れようとするかのように、天羽が両手を大きく広げた。
「マリアもお待ちですよ」
黒いフロックコートを翻し、天羽が身を開く。
聖堂の真正面。奥の壁の前に、西洋造りの祭壇が置かれていた。
壁の上方には赤子を抱いた、七尺程の白いマリア像が祀られており、その足元には十字架が設えてある。そしてそこには――
「弓月さん!」
白い裸体を露わに、磔にされた弓月の姿があった。
貴様――と、山南が走り出さんとしたその時、
「ば、馬鹿な――」
踏み出そうとした脚が、ぴくりとも動かなかった。
「口も利けぬようにしたつもりなのですがね」
いつの間にか、天羽の左眼が黒く染まっていた。
「
「流石ですね山南敬助。心の隙を突いたつもりですが、さすがは陰陽の術師」
天羽の瞳の中心で、白銀の光が妖しく煌めく。
あの時――弓月の姿を見た山南に、僅か毛ほどの感情の乱れが生じたあの瞬間。山南自身が自覚できぬほどの刹那。
その一瞬に、術に掛けられたのだ。
天羽は、言霊を使えぬように術をかけたのだが、山南の無意識下の本能が抗った。
その事に対し、天羽は賛辞の言葉を贈ったのだ。
「いま一度じっくりと、この素晴らしい絵を御覧なさい」
天羽が両手を広げ、天井に描かれた絵を見上げる。
「貴方も心を奪われたこのフレスコ画。凄まじい出来栄えでしょう。先ほども言いましたがこれ程、緻密で生々しいものは、本場の西洋でもそうお眼にかかれるモノではありません。これだけの狂気を筆に乗せられる者など存在しません」
「狂気だって?」
「そうです。神という狂気に憑りつかれた者が、魂の奥底の深淵――己の身の裡の煉獄まで踏み込まねば、これだけのものを描くなど不可能」
確かにこの画には、技法や構図も然ることながら、観るものの魂を鷲掴みにする狂気のようなものを感じる。そしてそれは天羽の言う通り、人の分を超えた領域に踏み込まねば描けぬものなのであろう。
「限りある生の中でもがき苦しみ、そして足掻くちっぽけで惨めな存在。そんな己を蔑み、神を求める。これは人が神に至るまでの階梯を描いたもの。人が神の御座に座るための法を模索する姿」
天羽が、自分に言い聞かすように頷く。
「仏門における
天羽の声が静かに響く。
「なればこの画。これは異端であり外法」
「なにが言いたいのだ」
「神の御座はあくまで神のモノ。人は人としての分のままあるべき。神の御力によって我らは導かれ、約束された地に赴くことが出来る――これが教え」
ですが――と、天羽が背を向ける。
「人としてこの世に生れ落ちながらも、神の御力を手にした御方が一人だけいるのですよ。彼こそは神と等しき者。神と父と霊の三位をその御身に内包せし尊き御方」
なれば――と、声を潜め、
「神の御子として定められし、我らが主の力を手にすることが出来れば、それは正しく神の力を手に入れた事と同じだとは思いませんか?」
再び天羽が、山南に向き直る。
「我らが主――すなわちゼスの断末の血と霊を受けし聖なる器。千数百年にわたる悠久の年月、数多の人々が探し追い求めた神の御力を秘めし聖なる遺物。それこそが聖杯。すなわち――」
聖月杯なのですよ――と、天羽が嗤った。
「聖月杯にそのような力が宿っているというのか」
「我らが主は、愚帝の命により処刑された三日後に、この世に復活をなされた。然る後、再び天に召されました」
だが――と、天羽が声を強めた。
「真実はそうではない。主は復活された後、神の教えを更に広めるため、この世を神の愛で覆い尽くす為に旅立った――これこそが真実」
主はたった一人、荒野に脚を踏み出した――まるで見てきたように天羽が語る。
「砂漠を超え暗黒大陸に渡り、乾いた大地の上で神の愛を説いた。その後、海へ漕ぎ出し天竺へと至り神の奇跡を伝えた。だがそこで、再び天に召された」
「そのような……」
「主はその御力を、次なる神の御子に継承するため。即ち、聖なる力をこの世に残すべく、肉の身を捨てる必要があったのですよ。主の力を封じたそれこそが『聖月杯』」
神の器は、刻満ちるまで天竺に眠り続けたのです――と、天羽は言った。
「千年以上の月日が流れ、ルイスフロイスの手により発見された聖月杯。主の力で満たされたこの聖具は、戦国期に彼の手により日本に運び込まれたのです」
その時、微かだが指先に力が戻りつつあるのを、山南は感じた。だが今少し時間が掛かる。
「『聖遺見聞覚書』に書かれていたのはこの事か」
それを気取られぬよう、山南が話をうながす。
「第六天魔王などと名乗り、神の力を欲するが故にサタンを模した
「それが、天草の一揆の真実か」
「唯ひとり
汚いものを吐き出すように、天羽が呟いた。
「このフレスコ画の偏執的なまでの完成度の高さが、あの
感情の欠片もない乾いた声で、天羽が嗤う。
「この私を――約束されし神の御子であるこの私を、自らの血統から作り出そうなど、誇大妄想に取りつかれた――」
成り上がり者が――と、天羽が呟いた。
刹那。あまり感情を露わさなかった天羽に、ドロドロとした情念のようなものが見えた。
「この私、益田四郎時貞こそがゼスの生まれ変わりとして、この極東の地において、神により約束された永遠の楽土――即ち、千年王国を築くべく生誕した契約の預言者。聖月杯はこの私の手に渡るべく、千数約年も前から定められていたのです」
「なんだって? 」
「
山南には、天羽の話す内容の半分も理解できない。だがそれが歴史の陰に埋もれてきた、真実だということは確信できた。同時にそれが、人の世に出してはいけない歴史の闇であるということも。
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