第41話 獣奏怪
油を舐めるような奇妙な音に庄吉は眼を覚ました。
ぺちゃり――
ぴちょり――
化け猫でもあるまいし。
この家には自分と年老いた両親しかいない。
父は腕の良い宮大工だった。だが数年前、仕事中に鐘楼から落ち怪我をした。
怪我はすぐによくなった。だが年齢のせいもあり、そこから床に伏すようになった。
そんな廃れた生活を見兼ねた庄吉は、巷で噂の「伏見丹」なる妙薬を呑ませてみた。
すると、一度服用しただけで、父は嘘のように元気を取り戻した。
その姿に、母も大層喜んだ。正直、左官の庄吉の稼ぎでは、伏見丹を何度も買うのは厳しかった。だが、それでも無理をすれば、月に二度ほどであれば呑ませることが出来た。
ひと月もすると日常の生活に支障はなくなり、先週から父は宮大工の仕事に戻った。
むしろ以前よりも若々しくも見える父であるが、仕事に戻った疲れはあるようで、床に就けば朝まで起きることはない。
ならば母だろうか――小首を傾げながらも、庄吉は両親の部屋を窺った。
ぺちゃり――矢張り音はここから聞こえる。
寝酒でも呑んでいるのだろうか――有り得ぬ話ではない。
まぁ偶には良いさと、庄吉が寝直そうとしたときだった。
「おぉい――」
父の声がした。
「庄吉おるんやろ――」
こっちこんか――どこか嬉しそうに、父が言った。
「いや、わいも朝早いんや寝るで」
欠伸を噛み殺し、庄吉は背中を向けた。
その時だった。
どん!
と、障子に何かがぶつかった。
「な、なんや!」
心臓が縮み上がるくらい驚いた。
「驚くやないか。なにしよんのや」
「親が来い言うとんのやで」
聞いたこともない低い声で父が言った。
おかんが起きるで――舌を打ちながら、庄吉は渋々と障子に手を掛けた。
庄吉が開けるよりも一瞬早く、向こう側から障子が開いた。
「心配すな。おかんなら――」
もう二度と起きんわ――と、母の頬の肉を喰いちぎり、父が嗤った。
「ひぃっ!」
庄吉は腰を抜かした。
「な、な、な、なななな――な、なんやの……」
暗がりに眼を凝らせば、両親の寝床が真っ赤に濡れ――母の足先が、転がっていた。
「なんや、腹が減って腹が減って堪らんでな――」
母の首を抱えた父が、口元を歪ませた。
唇がめくれ上がり、白い脂と血肉を絡みつかせた歯が見えた。
庄吉の見ている前で、黄色く汚れた歯が、ぞろりと伸びていく。
「しょうきち、お前もうまそうやな」
父の顎がせり出し、身体の毛が濃くなっていく。
ちと、味見させぇ――父の蛇のように長い舌が、庄吉の頬をべろりと舐めあげた。
ひぃっ!
庄吉は逃げた。
恥も外聞もなく、芋虫のように這う。
「ひょうきち――なんやお前、洩らしたんか――」
ええ歳して、みっともないの――と、父が嗤いながら近づいてくる。
「い、ひひ。ひゃ」
心棒を外し、転がるように外に飛び出すと、遠吠えが聞こえた。
無数の獣の気配が周囲に立ち込めている。
庄吉が顔を上げた。
「――ぐひっ」
するとそこには、五十や百では効かぬような人がいた。
その中には三軒隣の婆さんも裏の後家さんの姿もあった。
他にも見知った顔がある。
確かいずれも体調を崩し、伏見丹の世話になって元気になったような話をきいた。
裏の後家さんが、庄吉を見つめ、にやりと嗤った。
その手には――腹から紐を垂らした幼い娘があった。
紐の端を後家さんが咥えている。
くちゃくちゃ――と、噛んでいたものを、後家さんが吐き出した。
それは、娘の
「あが、あが」
思わず庄吉が後ずさると、何かにぶつかった。
「逃げちゃあかんやろ」
獣のような顔をした父が嗤った。
庄吉の正気が保てたのもここまでだった。
犬のように伸びた顎先が、庄吉の首元に噛みついた。
外に溢れた人々は、ぞろりぞろりと同じ方へ向かい歩き出した。
丑寅――鬼入る北東の方角。
その先には御所があった。
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