第25話 獣王奏


 やはり手前ぇらだったか――と、柔志狼が舌を鳴らす。


「おや、貴方でしたか。先日は連れがお世話になりました」


 蕎麦屋の方でしたか――と、れん《娘》を抱きよせて、天羽四郎衛門死神が微笑する。


「ですが、どんぶりを下げに来るには、少々時間が遅いのではありませんか」

「それりゃ悪かったな」


 苛立ちも隠さず柔志狼が部屋に踏みこんだ。

 いまだ妖異な彩を放つ天羽の瞳は、柔志狼の表情から一挙手一投足までも、事細かに観察している。

 そんな天羽を無視し、柔志狼は人形のように佇むを見つめ、奥歯を噛みしめた。


「贄に使いやがったな」


 畳の上の惨状見つめ、眼を細めた。


「そこの狒々ひひおやじが死ぬのは因果応報。同情する気なんざねぇがな、女房娘に罪はなかろうよ」


 それに――と、再びれんを見つめ、


「その娘には、なんの因果もねぇだろ。なぜ巻き込む」


 静かな殺気が、柔志狼の身に揺らめく。


「おや?このれんに惚れましたか?」


 天羽の白い指先が、れんの紅い唇を割り指を滑りこませる。


「何が目的だ?」


 柔志狼は動じることなく、天羽を一瞥する。


「知っているのではありませんか」


 天羽が挑発する。


「ここで伏見丹を作っていたんだろ」


 天羽は否定しない。


「葉沼屋が邪魔になったか?口封じにしちゃ、ちと仰々しいぜ」


 柔志狼がふらりと間合いを詰める。


「霊薬と言えば聞こえはいいがよ、ようはあやかしの精」


 つまりは――と、黒い獣を睨み、


「そこにいる犬畜生のか」

「どんぶり下げにしては、博識ですね」


 天羽が手を叩いた。


「何故、関わるのです?」

「仕事だからな」

「仕事?」

「あぁ、そうだ。この忙しい師走の時期に、外国なんぞから帰って来て、好き勝手されたんじゃ、まっとうな蕎麦屋は商売あがったりだ」

「では貴方は蕎麦屋の用心棒ですか」

「かもな」

「蕎麦屋の屋号は徳川……或いは松平。いずれにしても少々品位に欠きますね。柳生か服部はっとりも今や昔といったところですが、さてはて」

「どう思っても構わんがな」

「どこまで知っているのです」

「手前ぇの本業が、廻船問屋でも薬売りでもなくて、宝を探す山師だってことは知ってるぜ」


 こんなモノを使ってな――と、柔志狼が懐から黒い塊を放り投げた。

 鈍い音をたてて、赤子の頭ほどの黒い塊が畳の上に転がった。

 それはあの夜、山南たちから手に入れた黒塗りのマリア観音だった。


「大切なモノなんだろ」


 一瞬、視線を落とした天羽だが、


「それほどでも」


 と、天羽が大きく手を振った。


 一閃――


 眼に見えないなにかが、柔志狼めがけて空気を切裂いた。

 間一髪。

 柔志狼が身を沈めると、頭部の有った空間を見えない刃が走りぬけた。


 柔志狼の髪が、残滓の如く宙を舞う。

 そこへ獣人が動いていた。


 だが、柔志狼の方が速かった。

 獣人を構わず、天羽に向かって動いた。


 だが柔志狼の手には武器らしいものは無い。

 両の手は無造作に垂らしたままだ。


 滑るように懐に入り込むと、柔志狼の貫手が天羽の顔面を狙う。

 それに対し天羽は、の身体を盾にするように、柔志狼に突きだした。


「ちぃ!」


 の鼻先寸前で、柔志狼が貫手を止める。


「甘いですね」

「腐れ外道が」


 柔志狼が奥歯を軋らせる。

 その一瞬が、僅かに隙になった。

 獣人の鋭い爪が、背後から柔志狼に襲いかかる。

 羆の一振りにも匹敵しそうな爪撃が、柔志狼の後頭部を薙ぐ―――が、

 咄嗟に、柔志狼は身を跳びこませると、紙一重で躱す。


 身を捻り、膝を付いた瞬間――全身の毛が総毛立つ。

 天羽が胸の前で十字を切ると、先ほど柔志狼に向かって疾った一閃――不可視の空気の刃が柔志狼に襲いかかった。


「哈っ!」


 鋭い呼気を吐くと瞬間、柔志狼の身体が朧気な燐光を発した。

 手刀を袈裟に切り下ろすと、不可視の刃を叩く。硬質な金属音をたて、天羽の妖技が砕けた。

 その余波が柔志狼の両の頬に朱の筋を刻む。


「ほう――を破りますか」


 天羽が白く染まった瞳を、感嘆に見開く。


「けっ、単なるだろ」


 柔志狼が体内で練り上げた氣を手刀に籠め、天羽の放った真空の刃を打ち砕いたのだ。


「やはり面白い技をつかいますね」

「褒められても嬉しくもねぇ」


 袴の膝を払い、柔志狼が立ち上がった。


「葛城柔志狼……貴方に興味が出てきましたよ」

「あいにく衆道そんなの趣味はねぇよ」

「その技や蕎麦屋の仕事など、諸々の興味は尽きませんがね。淑女レディをいつまでもこのままにしておくわけにいきません」


 天羽が眼を閉じた。

 そして再び開くと、その瞳は元に戻っていた。


「このまま黙って帰れるとでも思うのか」

「こちらの台詞ですよ」


 天羽の言う通りである。

 客観的に見れば、柔志狼の方が圧倒的に不利である。にも拘らず、堂々と言ってのける柔志狼の豪胆さに、天羽の紅い唇が吊り上る。


「切支丹の『七つの大罪』だか何だか知らんがな、化物の精を使った糞薬伏見丹と宝探しになんの関係があるんだ」

「つくづく――面白いひとだ」

「嬉しくねぇよ」


 柔志狼が唾を吐く。


「地獄というものを――――」


 ぽつり――と、天羽が呟く。


「――地獄というものを見たことがありますか?」

「なに?」


 柔志狼が眉をしかめる。


「……の民草の味わった地獄――」


 天羽の顔から表情が消えた。代って浮かび上がったの、底の見えぬ虚無だった。


「――遊郭島原がどうした?芸妓たちの為にやってるとでも言いてぇのか」


 突如、天羽の纏う気配が変わった。

 どこか浮世離れした掴みどころのない雰囲気が一変。鉛のような重く暗い気に変わった。その奥底には煮えたぎる炉が見え隠れする。

 それを察した柔志狼も、丹田へ氣の圧を上げる。


 天羽が指を鳴らすと、屋敷全体を揺らすように咆哮が上がった。

 雄叫びの尾を引きながら、黒い獣人が跳んだ。


 怪鳥の翼のように両腕を広げ、柔志狼に襲いかかった。

 鋭く鎌のような爪が柔志狼を襲う。

 それを掌で外に弾く。

 だか獣人の爪も止まらない。まるで二刀の剣を振るうかのごとき動きで、柔志狼を詰める。

 ついに、捌ききれぬ爪先が柔志狼の頬を抉った。


 刹那――獣の顎が沈み込んだ。

 がら空きの腹に喰らいつこうと、牙が打ち鳴らされる。


 寸前――柔志狼の膝が獣の顎を下から突き上げた。

 獣人がのけ反る。

 膝の反動を使い、柔志狼が後方に大きく跳び退る。


 だが、魔獣とて尋常ではない。

 獣人の顎が、柔志狼を迫う。


「適当に遊んでおあげなさい」


 主の言葉に、獣人が唸りで応じた。

 天羽はを包み込むように抱え、柔志狼に背をむけた。


「おい、待ちやがれ!」


 天羽の後を追おうとするも、獣人の攻撃がそれを許さない。



 爪。爪。爪。

 爪。牙。牙。爪。

 牙、爪、爪、爪爪爪牙。



 鉈のように鋭く、斧のように重い獣人の攻撃が、嵐の如く柔志狼を襲う。

 直撃どころか、掠っただけでも骨ごと持って行かれそうな獣人の攻撃。


 柔志狼はそれを紙一重で捌き躱す。

 すると次第に、攻め続ける獣人の足元が縺れ、追い詰められているような様を見せていく。


「調子に乗るなよ、犬っころ!」


 一瞬の隙をついた柔志狼は、獣人の手首を掴み、瞬間的に己のたいを切る。

 その動きで、関節の極められた獣人の巨体が、畳に向かって崩れ落ちた。

 うつ伏せに倒れる岩瘤のような首元に、柔志狼は追い打つように拳鎚を叩きこんだ。


「待ちやがれ!」


 動きを止めた獣人に残心しつつ、柔志狼は部屋を飛びだす。

 開け放たれた襖や障子を頼りにして天羽を追う。

 所々に残る黒い染みは、に付いた返り血が垂れたものだろう。

 その跡が、大きく開け放たれた店の表口の外へと続いている。


「――見え透いた事を」


 十中八九、罠であろう。

 その証拠に、外には無数の殺気が満ちている。

 だが柔志狼の口元に、獰猛な笑みが浮かんだ。

 敢えて殺気を解放すると、柔志狼は店の外に飛び出した。


 暖簾を割って飛び出した柔志狼に、外の殺気が一斉に反応した。

 柔志狼に向かって左から、銀光を煌めかせ刃が討ち下ろされた。

 体を躱し刃を潜ると、柔志狼は無操作に拳を突き出した。


「むごっ」


 だんだら模様の羽織の男が剣を取り落とし、崩れるように倒れる。

 その瞬間、殺気がさらに圧を増した。

 

「神妙にいたせぃ!」


 雷鳴のような声が空気を震わせた。


「京都守護職御預かり新撰組である! 抵抗すれば容赦なく斬り捨てる!」


 そこには、天羽とれんの姿など、どこにも無い。

 代わりに柔志狼を待っていたのは、殺気に満ちた二〇人程の侍の一団。

 浅黄色のだんだら羽織の一団が、葉沼屋を包み込むように囲んでいた。

 それぞれが長槍や剣を構え、蟻の子一匹逃がさぬような布陣で、柔志狼を取り囲む。


 その中心には、冷たい鉄のような双眸の男が立っていた。

 鋭く射るような眼で柔志狼を見やるのは、土方歳三だった。

 錦絵に描かれそうな二枚目だが、その纏うものに甘さは微塵もなく、鉄のような気を発している。


「――葛城……柔志狼」


 その傍らに、眉間に深い皺を刻んだ山南敬助が立っていた。



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