第26話 獣王奏
やはり手前ぇらだったか――と、柔志狼が舌を鳴らす。
「おや、貴方でしたか。先日は連れがお世話になりました」
蕎麦屋の出前の方だとは――と、れん《娘》を抱きよせて、
「ですが、客の家にどんぶりを下げに来るには、少々時間が遅いのではありませんか」
非難めいたことを言いながらも、その言葉には感嘆の響きが含まれている。更にいえば、その言葉には柔志狼の登場を予期していたようなそれすらあった。
「それりゃ悪かったな」
苛立ったように、柔志狼が部屋に踏みこんだ。
いまだ妖異な彩を放つ天羽の瞳は、柔志狼の表情から一挙手一投足までも、事細かに観察している。
柔志狼はその様子を無視し、人形のように佇むれんを見つめ、奥歯を噛みしめる。
「贄に使いやがったな」
そう言って、畳の上の葉沼屋一家を見つめ、眼を細めた。
「そこの
それによ――と、再びれんを見つめ、
「その娘には、なんの因果も無いんじゃねぇのか。なぜ巻き込む」
隠しても押さえきれない静かな殺気が、柔志狼の身に揺らめく。
「おや?この
天羽の白い指先が、れんの紅い唇を嬲り指を滑りこませる。
なんとも淫靡な光景に、柔志狼の頬がぴくりと震える。
「何が目的だ?」
柔志狼は動じることなく、天羽を一瞥する。
「知っているのではありませんか」
天羽が嘲るように言った。
「伏見丹を製造してるのが、ここだったってわけか」
天羽は答えない。
「葉沼屋が邪魔になったか?口封じにしちゃ無駄に仰々しいな」
柔志狼がゆらりと間合いを詰める。
「霊薬と言えば聞こえはいいがよ、ありゃあまるで
つまりは――と、黒い獣を睨み、
「そこにいる獣人の精を使いやがったな」
「蕎麦屋のどんぶり下げにしては、博識ですね」
天羽が感心したように笑う。
「何故首を突っ込むのです?」
「仕事だからな」
「仕事?」
「あぁ、そうだ。この忙しい師走の時期に、外国なんぞからやって来て、好き勝手されたんじゃ、まっとうな蕎麦屋は商売あがったりだ」
「では貴方は、さしずめ蕎麦屋の用心棒ですか」
そう俯くと、天羽の口元が微かに綻んだ。
「蕎麦屋の屋号は徳川……或いは松平。それにしては少々品位に欠くような気がしますね。柳生か
「さあな。どう思ってもらっても構わんがな」
「どこまで知っているのです」
何かを計るように天羽が見つめる。
「手前ぇの本業が、廻船問屋でも薬売りでもなくて、宝を探す山師だってぐらいは知ってるぜ」
こんなモノを使ってな――と、柔志狼が懐から黒い塊を放り投げた。
鈍い音をたてて、赤子の頭ほどの黒い塊が畳の上に転がった。
それはあの夜、山南たちから手に入れた黒塗りのマリア観音だった。
「大切なものなんだろ」
一瞬、視線を落とした天羽だが、
「それほどでも」
と、首を振った。
次の瞬間――天羽が大きく手を振った。
一閃――
眼に見えないなにかが、柔志狼めがけて空気を切裂いた。
間一髪。柔志狼が身を沈めると、頭部の有った空間を見えない刃が走りぬけた。
柔志狼の髪が、残滓の如く宙を舞う。
そこへ獣人が動いていた。
だが、柔志狼の反応の方が速かった。
獣人を無視し、天羽に向かって動いた。
とは言えども、柔志狼の手に武器らしいものは無い。
両の手は無造作に腰だめに置かれている。
滑るように剣の間合いの内に入り込むと、更に深く踏みこみ――柔志狼の貫手が天羽の顔面を狙う。
それに対し天羽は避けるでもなく、れんの身体を盾にするように、柔志狼に突きだした。
「ちぃ!」
れんの鼻先寸前で、柔志狼が貫手を止める。
「甘いですね」
それを見た天羽が、唇の端を持ち上げる。
「腐れ野郎が」
柔志狼が奥歯を軋らせる。
その一瞬が、僅かに隙になった。
獣人の鋭い爪が、背後から柔志狼に襲いかかる。
羆の一振りにも匹敵しそうな爪撃が、柔志狼の後頭部を薙ぐ―――が、
咄嗟に、柔志狼は身を跳びこませると、紙一重で躱す。
身を捻り、膝を付いた瞬間――息つく間もなく、全身の毛が総毛立つ。
天羽が胸の前で十字を切ると、先ほど柔志狼に向かって疾った一閃――不可視の空気の刃が柔志狼に襲いかかった。
「哈っ!」
鋭い呼気を吐くと瞬間、柔志狼の身体が朧気な燐光を発した。
手刀を袈裟に切り下ろすと、不可視の刃を叩く。硬質な金属音をたて、天羽の妖技が砕けた。
その余波が柔志狼の両の頬に朱の筋を描く。
「ほう――ラファエルの剣を破りますか」
天羽が白く染まった瞳を、感嘆に見開く。
「けっ、単なる鎌鼬だろ」
柔志狼が体内で練り上げた氣を手刀に籠め、天羽の放った真空の刃を打ち砕いたのだ。
「やはり面白い技をつかいますね」
「褒められても嬉しくも無いね」
袴の膝を払い、柔志狼が立ち上がった。
「葛城柔志狼……貴方に興味が出てきましたよ」
「あいにく
鳥肌が立ちそうだ――と、柔志狼が露骨に顔をしかめる。
「その技や蕎麦屋の仕事など、諸々の興味は尽きませんがね。
天羽が眼を閉じる。そして再び開くと、その瞳は元に戻っていた。
「このまま黙って帰れるとでも思うのか」
「貴方が言いますか」
天羽の言う通りである。
鎌鼬を凌いだといっても、獣人もいる。まして先ほどのように、れんを盾にでもされれば、柔志狼の攻撃の手は鈍るだろう。
客観的に見れば、柔志狼の方が圧倒的に不利である。にも拘らず、堂々と言ってのける柔志狼の豪胆さに、天羽の紅い唇が吊り上る。
「切支丹の『七つの大罪』だか何だか知らんがな、化物の精を使った
「つくづく――面白い
「嬉しく無ぇよ」
天羽の言葉に、柔志狼が唾を吐く。
「地獄というものを――――」
ぽつり――と、天羽が呟く。
「――地獄というものを見たことがありますか?」
「なに?」
柔志狼が眉をしかめる。
「……島原の民草の味わった地獄――」
天羽の顔から表情が消えた。代って浮かび上がったの、底の無い虚無だった。
「――
柔志狼の言葉など耳に入らないのか。
突如、天羽の纏う気配が変わった。どこか浮世離れしたような、掴みどころのない雰囲気が一変。天羽が鉛のような重く暗い気を纏う。それはまるで、爆ぜる寸前の地獄の窯を思わせた。
それを察した柔志狼も、丹田へ氣の圧を上げる。
天羽が指を鳴らした。
すると、屋敷全体を揺らす咆哮が上がった。
獣人が吼えた。
雄叫びの尾を引きながら、獣人が跳んだ。
怪鳥の翼のように両腕を広げ、柔志狼に襲いかかる。
鋭く鎌のような爪が柔志狼を襲う。
柔志狼がそれを掌で外に弾く。
畳を踏みしめ、獣人の爪が続けざまに柔志狼を狙う。
まるで二刀の剣を振るうかのごとき動きに、捌ききれぬ爪先が、柔志狼の頬を抉った。
刹那――獣の顎が沈み込んだ。
がら空きの腹に喰らいつこうと、牙が打ち鳴らされる。
寸前――柔志狼の膝が獣の顎を下から突き上げた。
獣人がのけ反る。
柔志狼は止まらない。
膝の反動を使い、後方に大きく跳び退る。
だが、魔獣の反応はそれを凌駕した。
獣人の顎が、柔志狼を迫う―――
「この気配まさか――」
それを躱しつつ、憶えのある殺気に、柔志狼が口走る。
「適当に遊んでおあげなさい」
主の言葉に、獣人が唸りで応じた。
天羽はれんを包み込むように抱え、柔志狼に背をむけた。
「おい、待ちやがれ!」
天羽の後を追おうとするも、獣人の攻撃がそれを許さない。
爪。爪。爪。
爪。牙。牙。爪。
牙、爪、爪、爪爪爪牙。
鉈のように鋭く、斧のように重い獣人の攻撃が、嵐の如く柔志狼を襲う。
直撃どころか、掠っただけでも骨ごと持って行かれそうな獣人の攻撃。
柔志狼はそれを紙一重で捌き、躱していく。
するとどうしたことか。攻め続けている筈の獣人が、徐々に不安定な様を見せていく。
「調子に乗るなよ、犬っころが!」
足元が縺れ、獣人の体軸の芯が安定を欠いていく。
だがそれでも、放つ攻撃は鉄槌にも等しい一撃。
一瞬の隙を見出し、柔志狼はそれを絡め取るように捌く。
手首を掴み、瞬間的に己の
その動きで、関節の極められた獣人の巨体が、畳に向かって崩れ落ちる。
うつ伏せに倒れる岩瘤のような首元に、柔志狼は追い打つように拳鎚を叩きこんだ。
「待ちやがれ!」
動かぬ獣人に残心しつつも、柔志狼は部屋を飛びだす。
開け放たれた襖や障子を頼りにして柔志狼が天羽を追う。
所々に残る黒い染みは、れんに付いた返り血が垂れたものだろう。
その跡が店の上がりを抜け、外に向かって点々と残されている。
店の表口が大きく開け放たれていた。余りにもあからさま過ぎる。
「――見え透いた事を」
十中八九、罠であろう。
その証拠に、外には無数の殺気が満ちている。
だが柔志狼の口元には、獰猛な笑みが浮かぶ。
柔志狼は敢えて殺気を解放すると、店の外に飛び出した。
暖簾を割って飛び出した熱風のような柔志狼に、殺気が一斉に反応する。
柔志狼に向かって左から、銀光を煌めかせ刃が討ち下ろされた。
体を躱し刃を潜ると、柔志狼は無操作に拳を突き出した。
「むごっ」
浅黄色の羽織に、柔志狼の拳がめり込んだ。
だんだら模様の羽織の男が剣を取り落とし、崩れる様に沈んだ。
その光景に、一斉に緊張が走る。
「神妙にいたせぃ!」
雷鳴のような声が空気を震わせた。
「京都守護職御預かり新撰組である! 抵抗すれば容赦なく斬り捨てる!」
そこには、天羽とれんの姿など、どこにも無かった。
代わりに柔志狼を待っていたのは、殺気に満ちた二〇人程の侍の一団。
浅黄色のだんだら羽織の一団が、葉沼屋を包み込むように囲んでいた。
それぞれが長槍や剣を構え、蟻の子一匹逃がさぬような布陣で、柔志狼を取り囲む。
集団の中心には、冷たい鉄のような双眸の男が立っていた。
鋭く射るような眼で柔志狼を見やるのは、土方歳三だった。錦絵に描かれそうな二枚目だが、その纏うものに甘さは微塵もなく、鬼の様な気を発している。
「――葛城……柔志狼」
その傍らに、眉間に深い皺を刻んだ山南敬助が立っていた。
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