第25話 淫靡式


 眼を醒ましたのは、ほんの偶然だった。


 胸に息苦しさを感じて、夜具の上に身を起こす。真冬だというのに、ねっとりとした嫌な汗をかいていた。

 冷たい空気が張り詰めている。

 正確には分からないが、丑の刻の頃であろうか。

 命あるものが活動してはならぬ狭間の刻――耳鳴りがするほどの静寂に耳が痛い。


 そのあまりの静寂に、葉沼屋藤兵衛はぬまやとうべいは眼を覚ました。

 金属を爪でひっかいたような、静寂の発する音ならぬ音。それが耳の奥で鼓膜を揺らしていた。

 隣を見れば妻のよしが、背中を向け静かな寝息をたてている。


 葉沼屋は五条橋の東、六波羅蜜寺の裏手に位置する薬種問屋である。

 常の商いは、腹痛止めやら虫封じなどの生薬を、諸国津々浦々より取り寄せては、行商に卸す商いを行っている。

 しかし寛永年間から続く老舗であるが、父である先代・藤八朗の代には店は傾き始めていた。十年ほど前に藤兵衛が跡目を継いだときには、台所事情は火の車。店を畳む寸前まで追い込まれていた。

 だがこの数年、政情の変化により京の都に多くの人間が上洛するようになると状況は一変。更には『天誅』と呼ばれる人斬りが横行し京の治安が悪化の一途をたどると、傷薬を筆頭に、薬種の需要が増えていった。そのおかげで、傾きかけていた店の身代も順調に回復していった。


 細々と商いを続けているときは、日々の生活もそれなりに満足が行くものであった。だが不思議なもので、商売が好調になり旨みを知ってしまうと、欲望は際限なく膨れ上がる。  

 結果、より多くの財を欲するようになっていく。そうなると困ったもので、頭打ちになった売り上げに満足がいかなくなる。

 店は持ち直してものの、藤兵衛は今までとは違う不満を抱えるようになっていた。


 半年ほど前の事だった。

 葉沼屋に二人の男が現れた。

 一人は、背丈が六尺ばかりある大きな男だった。癖の強い髪を無理やりひっつめていた。腰に剣を帯びているのを見るまでも無く、薄汚いなりは落ちぶれたた攘夷浪士であろうことは明白だった。

 坂本と名乗ったその男は、背丈の大きなことを気にしているのか、顎を前に突出し、背は猫背気味である。

 そしてもう一人。こちらは眼元の涼やかな、端正な顔立ちの男前。慇懃な態度で、藤兵衛に話しかけてきたのはこちらの男だった。


 男は『豊壺屋』の主人、木下草摩きのしたそうまと名乗った。

 豊壺屋であれば知っている。油小路通にある油問屋である。

 その油問屋と不逞浪士が何故――と訝しく思うが、油問屋の若主人から「良い儲け話」と言われると、藤兵衛の頬が緩んだ。


『南蛮渡来の御禁制の生薬』の精製販売――草摩が言った。

 南蛮――最近で言うところの西洋――から仕入れた材料を使い、強壮薬を作りそれを密かに売り広めるという話だった。

 無論、最初は断った。

 いくらなんでも、おおっぴらに御禁制の品を扱うわけにはいかない。それに、そんな事をすれば、おとなしくなったとはいえ攘夷派の連中に眼をつけられてしまう。

 なにより油問屋である豊壺屋が、持ってくる話としては、納得がいかない。

 加えて、懇切丁寧に語る草摩に対し、横で不機嫌そうに押し黙っている坂本という男のの得体が知れない。

 藤兵衛のその様子に気が付いたのか。


「坂本様は土佐勤王党をまとめておられる方です」


 そう説明した。

 土佐藩の攘夷派の急先鋒であった勤王党は、長州の失脚に伴い、その勢力を急速に失っていった。党首である武市半平太が、国許土佐に強制帰国されると、土佐勤王党は事実上瓦解。その後、土佐勤王党の残党をまとめているのが、この坂本だと言う。


 それを聞いた藤兵衛には一も二も無く、この話を快諾するしかなかった。

 この葉沼屋藤兵衛。そもそも勤王の志熱い、生粋の尊皇派であった。

 そんな中で、土佐勤王党は葉沼屋を贔屓ひいきにし、土佐藩邸の薬の取引を一手に任せてくれた。その結果、葉沼屋が盛り返したことは紛れもない事実であった。

 言わば武市こそが、葉沼屋の恩人であると言っても過言ではなかった。

 坂本は、公武合体派を引き摺りおろし、帝のお傍にいま一度、尊皇派を上げる為に動いているという。そして再び武市半平太を、この京へ呼び戻したいのだと。


 その為に必要な金と力を得る為に、是非に協力してほしいと、草摩が説明した。攘夷派の勤王党が、西洋の品を扱うなど矛盾しているようだが、背に腹は代えられない。


「それ以上は言わんでよろし……」


 こうして藤兵衛は、二つ返事で協力を約束した。

 だがその実、藤兵衛の快諾を後押ししたのは、この話が莫大な財を産む可能性があるという下心あっての事だった。

 草摩の言う生薬は、気分の高揚を始め、滋養強壮・万病回復・精力増強。傷の直りも良い等々。その効能を数え上がればきりが無かった。だがその中でも藤兵衛が注目したのは、この薬には常習性があると言うことだった。

 甘露のように甘く、口当たりの良いこの薬は、服用した時の高揚感と、肉体の強壮を味わってしまうと、手放すことが出来ないのだという。


「まるで阿片と真逆やな」と藤兵衛がいうと、草摩は「これは強壮薬ですから」と言った。

『伏見丹』と名付けられたこの薬は、伏見稲荷の界隈でひっそりと売り出された。

 売り出してひと月を過ぎたころには、人伝の売込みにも関わらず、予想以上の身入りをもたらしていた。

 そうなると、藤兵衛に一層の色気がでた。

 伏見丹の材料は、豊壺屋から格安で卸される。その代り、売り上げの二割を土佐勤王党の活動資金として提供する事となっていた。条件としては悪いものでは無なかった。

 但し、全てが手放しで喜べるものでもなかった。


 それは材料の供給制限による、販売数の管理であった。

 豊壺屋から一定数の材料しか供給されぬため、売れるからといって葉沼屋で自由に捌く訳には行かないということである。

 需要はあるのに売れない――それは藤兵衛にとって、とてつもない苛立ちとなっていた。

 そこで藤兵衛は一計を案じた。


 届けられる材料は、白く生臭いどろりとした粘液のようなものである。それが壺に入れられ、週に一度届けられた。

 仔細は知らされていないが、南蛮に生息するある動物より取り出した獣油と薬草、それに某かの鉱物を混ぜ合わせたものであるということだった。

 それを葉沼屋で米ぬかや酒精などと合わせ、一見すると飴玉のような丸薬として形を整えるのだ。

 一計を案じた藤兵衛は、それを酒で希釈し、葛粉を加え濃度を薄めた丸薬を別に作り、それを豊壺屋に気づかれぬように売ることを企んだのだ。

 だが、京で売ったのでは、いつ豊壺屋にバレるか分からない。


 京より離れた場所。更にいえば、大きな土地であれば脚も付きにくいだろうと考え、長崎と横濱で密かに売り出した。西洋と頻繁に接触のある場所なれば万が一バレたとしても、言い逃れが聞くであろうと考えたのだ。

 そしてそれは藤兵衛の思惑以上に利益を生み出していた。味を占めた藤兵衛は、その販路を江戸にまで伸ばしつつあった。


 ふと、耳鳴りのする静寂のなかで、囁くような声が聞こえた。

 最初それは、紙一枚ほどの障子の隙間から洩れる風の音かと思った。

 だがそうではない。

 それは強弱を持った囁き。

 押し殺した荒い息遣い。

 衣擦れの音。

 そしてそれは、愉悦に打ち震える睦言……


 確かに、使用人同士がそうなることはある。

 だが使用人の部屋は母屋より離れている。幾らなんでも、そのような艶声が主である藤兵衛の部屋まで聞こえてくる事などまずない。

 藤兵衛はそこで、はたと身を起こした。

 もしや娘のもとに、何者かが夜這いでも押しかけたかと、疑念がよぎる。


 歳をとってから産まれた一人娘であるが故に、眼に入れても痛くない。箱入り娘と揶揄する声も聞こえぬではない。だが娘はまだ十六になったばかり。好いた男がいるとも聞かぬ。

 いずれは婿をとって、この葉沼屋を継いでもらわねばならぬ。

 だがそれは、まだ先で良い。

 そんな娘のもとへ、どこの馬の骨とも知らぬ下賤の輩が忍んだのであれば


 ――許せん。


 隣で寝息を立てる妻を起こそうかとも思うが、藤兵衛は白い息を吐きながら夜具を剥ぎ、静かに立ち上がった。

 しかし、よくよく考えてみれば妙であった。

 娘の部屋は母屋の反対側。睦言の声など聞こえるわけがない。

 だが押し殺したような微かな声は、藤兵衛夫婦の寝ている部屋の隣から聞こえてくるのだ。なれば、声の主は娘ではない。

 まさか使用人が、主の寝室の隣で、とも思えぬ。

 ますます不振に思いながらも、藤兵衛は息を殺し、襖の前に立った。


 くふ――っと、甘い吐息が漏れたのを確かに聞いた。

 その瞬間、勢いよく襖を開いた。

 途端、藤兵衛は言葉を失った。

 そこには涅槃が広がっていた。


 麝香じゃこうだろうか。微かに鼻腔をくすぐる甘い香り。

 二十畳ある部屋の周囲に、見たこともない燭台が六つ。

 それぞれに蝋燭が灯されている。

 燭台で囲まれた空間の真ん中で、頭頂から足先まで、全身を漆黒に濡れる毛に覆われた巨大な獣が激しく腰を振っていた。

 その動きに同調するように黒い尻の付け根で、荒縄をよじったような尾が揺れる。 

 獣は何かに覆いかぶさり、それに腰を打ちつけているようだった。

 七尺はあるであろう巨大な背中。影になり良くは見えないが、その毛に覆われた背の隙間から覗く小さく白い足の裏を見れば、自ずと察しがつく。

 それは世にもおぞましき光景だった。


 獣が動くたびに、蝋燭に照らし出された闇のごとき影が、妖しく淫らに躍る。

 巨大な黒い獣に、女が四つん這いに組し抱かれ、悶えているのだ。

 獣が腰を振るたびに、その足の裏の持ち主が押し殺したような愉悦の声を漏らしている。


 ――まさか!


 藤兵衛の脳裏に、幼く可憐な娘の姿が浮かぶ。

 だが、想像を絶する異様な光景に身体が動かないばかりか、声まで出せない。

 それでいて、自分の股間に熱いモノが滾っていくのだけは分かった。

 それは褌の下で、痛いぐらいに猛っている。

 藤兵衛がそこに居ることなど、気が付いてもいないのだろう。

 黒い獣毛はタテガミの如く逆立ち、獣の動きが一層激しくなる。

 それに合わせて、押し殺していた女がついに耐え切れず、獣の如く叫んだ。

 決壊した堤防から一気に濁流が流れ出すように、耐えていた歓喜の声が絶叫となって迸る。


 その瞬間――

 まるで狼が、満月を見上げて歓喜の咆哮を迸らせるように、獣の背中が反り返り、垂直に立てた咽喉から雄叫びが上がる。

 同時に獣の下で、女も絹を引き裂くような叫びをあげた。

 二度――三度――と、

 獣の身体が大きく身震いをすると、その下の白い足も激しく痙攣をする。


「おぉ――――あぇっ…………」


 無意識のうちに、藤兵衛の口からだらしのない溜息が漏れていた。


「どうです。たまらないでしょう」


 藤兵衛の身体が、びくりと震える。一番敏感なところに、熱い吐息を吹きかけられたような、蕩けるような甘美な声だった。


「あっ、ああ…………」

「お互いの臓腑の底までも抉り、骨髄まで犯し貫くような濃密な姦淫。これこそ生命の根源的な解放。だが葉沼屋藤兵衛、あなたの心の奥底にはあれよりもなお、淫靡で罪深き情欲がどろどろと渦を巻いているのでしょう――――」


 股間から脊椎を愛撫されているような、甘い囁き。


「あなたも、あのように若い娘を犯し貫きたいのでしょう」

「ぶぬぅ…………」


 藤兵衛は音をたてて、乾いた咽喉に唾を飲みこんだ。


「否。よその娘では満たされぬ。そう、己が手塩にかけ育てた愛娘――――その愛娘を――――」

「違う!」

「嘘は良くない。己の欲望に素直になりなさい」


 その甘美な囁きが、身の内に燻っていた見たくない欲望を露見させる。


「違う…………違う。ちが――――」


 んっ?

 藤兵衛はふと我に返る。

 自分はいったい誰と話しているのだろうか。

 寝室には自分と、妻のよしだけだった。

 つまり、背後には寝ているしかいない。

 そもそも、この眼前で繰り広げられる狂宴は――誰だ?


 突如、背中を冷たいものが走りぬけた。

 たった今まで、焼けるような熱を持っていたはずの背筋に、いきなり凍てつく氷の針を差し込まれた気分だった。

 全身に、一瞬で鳥肌が立つ。

 恐ろしくて、瞬き一つできない。

 全身が硬直していた。

 ねっとりとした汗が、一瞬で凍てついた。


「草摩殿から言われませんでしたか?」

「えっ?」


 思いもよらない言葉だった。


「伏見丹を勝手に売り捌くな――――そう念を押されたはずでは?」

「あっ――――」

「横濱や長崎――――挙句、江戸にまで販路を広げるとは……………あなたの商売の手腕、見事。そして何より、そのの強欲ぶりは私の想像を遥かに超えて、感動すら覚えます」


 藤兵衛の耳のすぐ後ろ。

 くすり――――と、闇が笑った。


 びくりと、藤兵衛が身を竦めると、後から背中を突き飛ばされた。

 背中を丸めた藤兵衛の身体が、つんのめるように畳の上に転がった。

 燭台で囲まれた畳の上に、藤兵衛はうっつ伏した。

 生温かくすえたような匂いが鼻をつき、咽かえりそうになる。


 何だ。

 なにが起こっているのだ。

 思考が混乱し、事態が把握できない。

 畳に両手を付いて、顔を上げた藤兵衛の眼に飛び込んできたのは、常軌を逸した魔界の光景だった。

 黒い獣が小柄な若い女を抱え、刺し貫いたまま立ち上がっていた。

 その姿は、巨大な狼が二本足で立ち上がったかの如き歪な異形。

 否。

 寧ろそれは、並外れた巨漢が獣の皮を纏ったようなと、評するべきか。

 伝え聞く犬神なる存在があるとしたら、まさにこのような姿なのではないだろうか。

 まさしく獣人とでも呼ぶべき異形の姿。


「――――あっ、あ、あああ――――ひひぃぃひ…………」


 恥も外聞も無い。恐怖に失禁したことすら気が付いていない。


 シィィィ――

「お静かに。皆さんが起きてしまいます」


 その声に、藤兵衛は思わず振り返る。

 人外の獣から視線を外し、恐る恐る首を巡らすと、そこには白い死神がいた。


「葉沼屋藤兵衛。あなたとの契約は終了です。伏見丹の代金因果を清算させていただきましょうか」


 蝋で出来たような白い肌に、ぬらりとした朱い唇が歪む。

 美しい死神が、藤兵衛の顔を覗き込んでいた。

「お、お前は――だ、誰や?そ、そ、それに何を言うんや。代金はきちっと支払っとるやないか…………」


 見知らぬ顔。誰だ。

 白銀の髪に、蝋燭の炎が揺れる。

 精気の無い肌に、血に濡れたような唇だけが、ひどく生々しい。

 線が細く華奢な体躯は、若いというよりも、幼さすら感じさせた。

 だが、冷たく藤兵衛を見下ろす瞳は、老練な落ち着きを含んでいる。

 異国人なのか日本人なのか? 若いのか老齢なのか? 男なのか女なのか? 生者なのか死者なのか? そもそも人なのかそうでないのか?


 全てが混沌としていて、全く判別がつかない。

 ただ、まるで造作物であるかのように、完璧に美しい。

 それはある種、菩薩像のような神々しさすらある。

 朱い唇には、菩薩のような笑みすら浮いているではないか。


「あなたが仰ってるのは、薬の仕入れの代金でしょう」

「そ、そうや。きちっと豊壺屋さんに――――」

「私が言っているのは、伏見丹に関する全ての清算なのですよ。葉沼屋藤兵衛殿」

「清算?」


 ええ――と、朱い唇が、微かに吊り上った。


「貴方との関係は、これで全て終わりということです」

「ばっ、馬鹿なこといいなや。あんたに何の権利があって――――」


 商売――という言葉が出たおかげで、藤兵衛の心に現実的な落ち着きが戻った。


「まさか、あんたが原料を用意しとんのか」


 はい――と、白い死神が言った。


「そ、それなら話が早い。豊壺屋を通さず、直にうちと取引をして貰えまへんか?そうすれば今の三倍――いや、軽く十倍は売り上げが伸びる」


 藤兵衛が唾を飛ばす。


「増産体制なんていくらでも整えることができる。どうや、悪い話ではないやろ」


 藤兵衛は身を起こすと、這うようにしてにじり寄り、足元にすがりついた。

 死神は、その姿を虫けらでも見下ろすように――否。感情の揺らぎの無い菩薩像のように見下ろした。


「なぁ。わしがいくらでも売ったる。こいつは阿片以上の金のなる木や。なぁ、そうやろ?そう思うやろ!」


 藤兵衛は媚びたような、下卑た笑みを浮かべる。


「弱りましたね」

「なにが弱るんや。金か?金の事なら心配せんでも――――」

「葉沼屋さん。あなた、なにか勘違いされていませんか?」

「えっ?」


 死神は腰を屈め己の顔を、藤兵衛の顔に近づけていく。

 ゆっくりと、ゆっくりと……今にも唇が触れそうなところで止まると、


「いいですね、実に素晴らしい。貴方のその強欲さ。それこそまさに私の欲していたモノです」


 喰いついた――藤兵衛はそう確信した。

 だが、そうでは無かった。


「伏見丹を飲んだ者は人としての生を捨てる。その事は理解されてますよね?その味を知ってしまえば、全てを投げ打ってでも伏見丹を手にしたくなる。阿片はね、人より堕ちることはあっても人を辞めるものではない。ですが伏見丹は不死身――――文字通り、人を捨てるのです。錬金術アルケミの叡智の産物たる伏見丹を、阿片などと同じに思わない方がいい」


 葉沼屋を突き放すように、死神が言った。


「あ、あるけみぃ?ふ、不死身って……そんなもの、単なる噂やないんか?」


 それでも尚、葉沼屋は死神にすがる。


「素晴らしい。実に素晴らしい。世話になった土佐勤王党を救う為と始めておきながら結局、貴方は己の欲望を満たすために、怖ろしい薬と知った上で、更に売り続けようと算盤を弾くのですね」

「なっ、なにを言っているんだ…………」

「私は儲けるために、伏見丹を供給しているわけではないのですよ」

「……えっ?」

「私の目的は、伏見丹を京の町に蔓延させてもらうこと。それによって儲けようなど、露ほども考えていないのです。ましてや、負け土佐勤王党になど最初から何の興味も無い」

「な、なんやて!」

「ですが葉沼屋さん。貴方には、その肥えた腹の如く魂までも強欲にまみれ肥え太り、際限なく欲望を増長させて頂きたかったのです」

「いっ。な、なにを言っているんだ…」

「ですから全てを清算し、違約金として貴方の――――その汚れた魂の罪『強欲』をパライソに召させていただきたいのです」


 すうっ――と、藤兵衛の眼前から、死神の顔が離れていく。

 代って、入れ替わるように、藤兵衛の眼前によく見知った顔が現れた。


「えっ?」

「貴方の大切なものですからね。お返しいたしましょう」


 藤兵衛の眼前で、振り子のようにゆれているもの――――それは隣で寝ていたはずの妻の生首だった。


「――あぎゃぉぉぁ!」


 藤兵衛の口から、血を吐くような悲鳴が上がった。

 死神が、藤兵衛の眼前に差し出したのは、妻よしの首だった。

 まだ温かいのか。首から滴る血は白い湯気を上げている。


「そうそう。まだありますよ」


 死神が黒い外套を翻すと、そこには一糸まとわぬ姿の娘がいた。


「き、きえ!」


 まるで人形のように、精気の無い虚ろな瞳で藤兵衛を見下ろしている。

 きえの手に、なにか光るものが握られていた。

 それは見たことも無い、両刃の小刀――ルプスのナイフと同じものだった。


「な、なにをするんや!きえ、止め!」


 虚ろな瞳のまま、きえは逆手に持った刃の切っ先を、己の股間の茂みに当てた。


「止めや!」


 藤兵衛がナイフを取り上げようと手を伸ばした。

 だが。

 それよりも一瞬早く、きえは己の秘肉に切っ先を潜り込ませた。

 信じられぬ事に、そのまま一息に臍の上まで引き上げたのだ。


「きぃぃぃ――――えぇ――――!」


 きえの白い腹が裂け、そこから大量の鮮血と共に腸が溢れ出す。

 藤兵衛の叫びが虚しく響く中、きえが微笑んだ。

 そのまま、糸が切れたように崩れていく。

 その寸前。死神がきえの身体を抱きかかえた。


「倒れるのは、まだ早いですよ」


 反対の手には、黒い観音像があった。

 死神は手にした観音像を、きえの腹の中に押しこんだ。


「主よ、来ませり」


 アーメン――と、崩れ込むきえを見捨て、胸の前で十字を切る。


「あぁぁぁぁぁぁ…………」


 呆然と、藤兵衛が言葉を洩らす。

 すると突然、


「ひ、ひひ、ひぃぃぃやや――――」

 娘の死体と、妻の生首を交互に見つめ、藤兵衛が狂ったように首を振る。

 そして突如、狂ったように泣きじゃくり始めた。 


「いいですね。とても素敵な表情です。貴方の中に、極上の悲しみと怒り嘆き憤り――――人の有する濃厚な感情が満ち溢れています」


 菩薩のような表情で、死神が藤兵衛を見つめる。


「貴方の中で、はち切れんばかりに膨れ上がった負の感情が、出口を求めて心を突き刺しているのです。痛いでしょう?苦しいでしょう?葉沼屋藤兵衛。これも全て貴方の強欲が招いた当然の報いと知りなさい。これが今回の件の清算です。貴方は、己が欲望の代償を支払ったのです」


 藤兵衛が頭を抱えうずくる。


「どうです。貴方をさいなむ全てから救われたいでしょう?眼前に広がる現実を否定したいでしょう。苦しみ悲しみを捨て去り忘れてしまいたいでしょう」


 童のように蹲る藤兵衛の耳元に顔を近づけ、死神が囁く。


「ならば、一切を神の御許に差出しなさい。さすれば貴方の魂は、パライソへの階段を昇るでしょう」

「……ぱらい――――そ?」

「神に許されし魂のみが、永遠の安息に満たされる終わりなき楽園パライソ

「て、天国か――――」

「葉沼屋藤兵衛。私が、貴方をそこへ誘って差し上げましょう」


 藤兵衛が顔を上げた。死神を見つめ、泣きながら首を縦に振る。


「いざ――――」


 その瞬間、死神の瞳に変化が生じた。

 黒い瞳が墨のように滲みだし、白目を闇に染めていく。それと同時に、虹彩の中心に白銀の如き光が生まれると、瞳を白く染める。

 死神の眼の白黒が逆転していた。


「あがっあ、あ…………」


 その瞳に射られた瞬間、伝染したように藤兵衛の眼も白黒が逆転した。


「貴方の魂を『強欲』の贄として捧げていただきますよ」


 死神が胸の前で大きく十字を切った。


「あぁぁあああぁぁ――――」


 藤兵衛の表情が崩壊していく。

 それは恐怖からか、或いは愉悦からか。


「さあ今です」


 いつの間にか藤兵衛の背後に、黒い獣人が立っていた。

 獣人の巨大な爪が、藤兵衛の肩を鷲掴みにした。

 次の瞬間、藤兵衛の身体が襤褸(ぼろ)切れのように裂けた。

 獣人が藤兵衛の肩を掴むと、力任せに引きちぎったのだ。

 手にした肉片を投げ捨て、獣人が舌なめずりをする。


 死神の傍らでその光景を、紅い瞳をした娘が見つめている。

 それは先程まで、先ほどまで獣人とまぐわっていた娘だった。

 血のように紅い瞳で、藤兵衛の肉体が千切れる様子を見つめていた。

 畳の上に転がる妻の首と娘に寄り添うように、藤兵衛の肉片が散らばる。

 その光景を、冷たい無機質な眼で見つめる死神は、指先で宙に何かをなぞる。


 異国の呪を唱えると、燭台で囲まれた畳の上に二重の円が浮かび上がった。

 更に、その円に内接するように六芒星が浮かび上がった。

 その方陣の中心に、藤兵衛の娘の遺体はあった。

 一瞬、きえの遺体が仄かに光に包まれた。


「あと二つ――――」


 死神が満足そうに頷いた。

 傍らに立つ娘は、己の頬に血飛沫が跳ねていることにも気がついていない。

 ただ、人形のように佇んでいる。


「間に合わなかったか」


 溜息交じりの声が、障子の向こうで響いた。


「自業自得とはいえ、なんとも――――むごいこったな」


 障子の向こうは中庭である。

 咄嗟に、死神は娘の腕を引き、身を翻しながら下がる。

 それを庇うように、獣人が前に出た。


「どちら様ですか?」


 死神が優しく問いかける。

 だが返事は無かった。

 この屋敷には自分たち以外に動く者は居ないことは、誰よりも分かっている。


「どんぶり下げに来まし――――」


 どこか馬鹿にしたような、嘲けたような声をかき消すように――獣人が動いた。

 鋭い爪先が大きく宙を切り裂くと、障子が襤褸クズのようにけし飛んだ。

 だがそこには誰の姿も無い。

 すると、いきなり背後の襖が勢いよく開け放たれた。


「大外れ」


 そこには、仏頂面をした柔志狼が立っていた。



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