第30話 昏鐘月


 山南と弓月が出掛けて直ぐのことだった。


 てっきり、弓月たちが戻ったのだと思った。

 弓月、どないしたん――と、表戸が開く音を耳にしたとき、楼月は弓月の名を口にした。


 ばたばたと走り寄り、「忘れもんでも――」と言いかけて、楼月は口元を両手で覆った。


「結月……」


 そこに結月が立っていた。


「あんた、今までどこで何をしてはったん」


 使いに出た時と同じ姿でそこに立つ結月を、楼月は抱き締めた。


「心配したんやで」


 緊張が解け、楼月の口からため息が漏れる。


「……良かった」


 結月が無事に帰ってきた。その安堵のせいだろう。

 結月の瞳が焦点もなさず、虚ろを見ていることも、未だ一言も声を発していないことも。その不自然さに楼月は気が付かなかった。

 着物に乱れが無いことも、眼を曇らせた一因かもしれない。

 だが平素の楼月であれば、そのような事はまずない。


 ここねに続いて結月までもが――と言う不安から転じての、安堵の涙が楼月の眼を曇らせたのだ。

 だが――


「――うっ」


 楼月の瞳に微かな痛みが走った。

 それは遠い昔に捨てた力。封印の巫女であった時の能力の残滓――楼月の瞳が微かに紅く光を帯びていた。


「結月。あんた……」


 漸く、結月の身体が氷のように冷たいことに気が付いた。師走の夕暮れに外から帰ったせいと思い込んでいた。

 だが、身を離し結月を見た時、楼月の美しい顔が絶望に歪んだ。


 あぁ――と、楼月の口から嗚咽が漏れた。

 青白い死蝋のような肌――それは命ある者のそれではない。


「……結つ――」


 白く濁った結月の瞳に、ぽつんと一滴――墨を落としたように闇が広がった。


「――古き、まりあ……には、老いた羊の――役目、が、おにあ――いです」


 結月の、痙攣したように震える口から絞り出された声は、掠れた男の声だった。


「あ、あんたは――」


 結月に何をしはったん――と、楼月が幼い肩を揺すった。

 そんな楼月の首筋に、結月の蒼白い手が伸びる。


「ゆいつき――止め……」


 首に喰いこむ細い指を引きはがそうと、楼月がその手を掴む。しかし、幼い身体のどこにそんな力が有るのか。微動だにしない。

 苦悶に顔を歪める楼月を見つめ、結月が嗤った。

 みちみちと唇の端が千切れるのも構わず、結月が口を大きく開く。


「ゆ、ゆいつ――――き――」


 結月の顔が、楼月の白い首元にゆっくりと近づいていく。

 ばっくりと、破顔したように開いた結月が、楼月の首に噛りつく。


「あぁ――」


 一瞬、楼月が恍惚としたような、なんとも艶めかしい表情を浮かべた。

 結月が首を左右に振り、首筋の肉を喰いちぎる。

 すると朱い鮮血が噴きあがった。

 二人の身体を血の雨が朱く濡らしす。


 楼月が幼い娘を抱き締た。

 結月……堪忍やぁ――と、結月に覆い被さるように倒れていく。

 ――と、結月の眼尻に、楼月の血が垂れた。

 それは結月の眼の縁を流れ、瞳を紅く彩る。


 楼月の血は、結月の眼から溢れると、一筋の雫となって――流れた。

 おかあさん――と、結月がそう呟いたように聞こえた。

 もう一度、結月を抱き締めようとしたが、楼月にはもう力が入らなかった。

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