第31話 昏鐘月


 山南たちが毬屋を後にして直ぐである。まだ一町も行ってないはずだ。


 てっきり、弓月たちが戻ったのだと思った。

 だから――

 どないしたん――と、楼月は表戸が開く音を耳にしたとき、廊下の奥から弓月の名を口にした。


 ばたばたと走り寄り、「忘れもんでも――」と言いかけて、楼月は口元を両手で覆った。


「結月……」


 そこに結月が立っていた。


「あんた、今までどこで何をしてはったん」


 使いに出た時と同じ姿でそこに立つ結月を、楼月は抱き締めた。


「心配したんやで」


 緊張が解け、楼月の口からため息が漏れる。


「……良かった」


 結月が無事に帰ってきた。その安堵せいだろう。いつもであれば直ぐに気が付く不自然さに楼月は気が付かなかった。

 結月の瞳が焦点もなさず、虚ろを見ていた。未だ一言も声を発していない。

 それに楼月は気が付かなかった。着物に乱れが無い事も、眼を曇らせた一因かもしれない。だが平素の楼月であれば、そのような事はまずない。


 ここねに続いて結月までもが――と言う不安から転じての、安堵の涙が楼月の眼を曇らせたのだ。

 だが――


「――うっ」


 楼月の瞳に微かな痛みが走った。

 それは遠い昔に捨てた、封印の巫女であった時の能力の残滓――楼月の瞳が微かに紅く光を帯びていた。


「――結月。あんた……」


 ここに至り漸く、結月の身体が氷のように冷たいことに気が付いた。

 それは師走の夕暮れに外から帰ったせいと思い込んでいた。

 だが、身を離し結月を見た時、楼月の美しい顔が絶望に歪んだ。


 あぁ――と、楼月の口から嗚咽が漏れた。

 青白い死蝋のような肌――それは命ある者のそれでは無い。


「……結つ――」


 白く濁った結月の瞳に、ぽつんと一滴――墨を落としたように闇が広がった。


「――古き、まりあ……には、老いた羊の――役目、が、おにあ――いです」


 結月の、痙攣したように震える口から絞り出された声は、掠れた男の声だった。


「あ、あんたは――」


 結月に何をしはったん――と、楼月が幼い肩を掴んだ。

 だがそんな楼月の首筋に、結月の蒼白い手が伸びる。


「ゆいつき――止め……」


 首に喰いこむ細い指を引きはがそうと、楼月がその手を掴む。しかし、幼い身体のどこにそんな力が有るのか。微動だにしない。

 苦悶に顔を歪める楼月を見つめ、結月が嗤った。

 みちみちと唇の端が千切れるのも構わず、結月が口を大きく開く。


「…………ゆ、ゆいつ――――き――」


 結月の顔が、楼月の白い首元にゆっくりと近づいていく。

 ばっくりと、破顔したように開いた結月が、楼月の首に噛りつく。


「あぁ――――」


 一瞬、楼月が恍惚としたようななんとも艶めかしい表情を浮かべた。

 結月が首を左右に振り、首筋の肉を喰いちぎる。

 すると、まるで蒸気が噴き出すように朱い鮮血が噴きあがった。

 二人の身体を、朱い血の雨が濡らした。


 結月……堪忍やぁ――と、楼月が幼い娘を抱き締めた。

 そしてそのまま、結月に覆い被さるように倒れていく。

 ――と、結月の眼の端に楼月の血が垂れた。

 それは結月の眼の縁を流れ、瞳を紅く彩る。


 楼月の血は、結月の眼から溢れると、一筋の雫となって――零れた。

 おかあさん――と、結月がそう呟いたように聞こえた。

 もう一度、結月を抱き締めようとしたが、楼月にはもう力が入らなかった。

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