第59話 朧月宴

 べべん――と、三味の音が夜気に零れる。


 陽が落ちれば、しんとした冷たい夜気がしっとりと都を包み、身を震わせる。

 山南は窓辺に浮かぶ月を見ながら、盃を口に運んだ。


 

 天羽の一件から半月近くが過ぎていた。

 あれ程の騒ぎが嘘のように、京の都は日常を取り戻していた。

 施楽院での療養により、体調の回復した松平容保が、黒谷の本陣に戻ったのは、つい三日ほど前のである。


 それを見計らったかのように、将軍後見職である一橋慶喜ひとつばしよしのぶが上洛したのが先日。

 この一橋慶喜の上洛は、尊皇攘夷派を京より一掃したと示すための、一種の示威行為である。

 だが水面下では様々な勢力が魑魅魍魎の如く跋扈ばっこし、虎視眈々と牙を研いでいる。

 今この瞬間にも情勢は一変する可能性は小さくない。


 そのような状況下、事件は土佐勤王党の残党による最後の悪足掻きと結論付けらた。

 残党たちは土佐藩にあっては扱いの低い下級武士たち。なおかつ、皆が脱藩者であることから、土佐藩自体にお咎はなかった。

 当然のことながら、調べの中に天羽四郎衛門の名も豊壺屋の名もない。伏見丹の文字すらない。

 その手際の良い幕引きを見れば、どれだけ強大な権力が動いたのかは想像に容易い。



 あれから――意識を取り戻した沖田を連れ、壬生の屯所に戻った山南は、単独行動を糾弾される覚悟でいた。

 だが、記憶の曖昧な沖田を助け出し、加えて伏見丹の製造元であった豊壺屋を突き止めた功により、山南の行動は不問とされた。


 それに、主人であるが放った火で豊壺屋は全焼。それ以上の詮索は不可能となり、全てが有耶無耶のまま、新撰組としても事件は終わったのだ。


 有耶無耶と言えばもう一つ。

 あの後、修験者の件で奉行所に加護石人を訪ねた。だが奉行所に加護を知る者は誰一人としていなかった。


 こうして一連の事件は、まるで一夜の夢の如く幕を閉じた。


「どうぞ――」


 空になった山南の盃に、弓月が酒を注いだ。


 幸いなことにあの後、弓月は直ぐに意識を取り戻した。

 身体は衰弱し氣の消耗も激しかったが、元の生活に戻るのに支障はなかった。


 ただ……


 酒を呑み干すと、山南は月を見上げた。

 十六夜の月は、静かにそこに佇んでいる。


「もう、半月になるんどすなぁ――」


 弓月が微笑んだ。


「あの時、山南はんに助けてもらわへんかったら、ほんにどうなっていたか」


 山南の隣に身を寄せ、弓月が蒼く光を零す月を見あげた。


「あない激しい火事場から、よう助けてもろうて――御恩は一生忘れまへん」


 しっとりとした弓月の体温が、山南の肩に溶け込んでくる。


「せやけど、なんで、あないな場所におったんか――」


 思い出せへん――と、柳眉をしかめた。


「無理に思い出す必要はありませんよ」


 労わるように山南は弓月の肩を抱いた。


 

 意識を取り戻した弓月は記憶を失っていた。


 それは大切な人を次々と亡くしたが故か、あるいは高台院の妄執に持っていかれたのだろうか。

 自分が封印の巫女であったことも、蓮のことも、ここねのことも。

 そして山南の事も……


 現実を受け止めて生きていくには、弓月の負った傷はあまりにも深すぎた。人が健やかに生きていくためには、忘却は時になによりの良薬となる。


 濡れたように潤む瞳に、深い悲しみの傷跡はみえない。だがその奥底には、死ぬまで消えることのない疵が潜んでいるのだ。

 だとしても、このまま一生忘れていられるのなら、痛むこともないだろう。

 山南はそれで良いと思う。


 だとしても、山南の杞憂が消えたわけではない。

 そもそも『聖月杯』は、本当に実在したのだろうか。少なくとも、宣教師ルイスフロイスの手により、織田信長にが献上されたことは事実だろう。

 ひとつの時代を築いた武将たちの人生を狂わせた神の御子の髑髏聖杯。それはまた、ひとりの青年にこの世のことわりを破壊させた。


 そのようなモノなど、存在してくれるなと思う自分がいる。

 またそれと同じくらい、存在して欲しいと思う自分もいた。

 それがこの先、大きな混乱の火種になるとしても、実在するのならこの眼で見てみたいと思う自分も確かに存在するのだ。


 釈然とせぬ一抹の不安と、童のような好奇心を誤魔化すように、山南は弓月の肩を抱き寄せた。


「でも、どないして、名前も知らんかったうちに、こないに優しくしてくれますの」


 弓月の瞳は、あの頃の輝きとは異なる憂いを秘めていた。


「似ているのです」

「えっ」

「あなたが、昔の知り合いに良く似ていたものですから――」


 眼尻に深い皺を蓄え、山南がどこか寂しそうに微笑んだ。

 少なくとも弓月にとっては、事件は終わったのだ。

 全てを失った代償として、弓月は漸く『さと』として生きていくことが出来るのだ。


 山南は、松恋に頼み壬生から近いこの島原に、弓月さとの生きる場所を用意してもらったのだ。


「昔の知り合い――って、うちに似てはりましたん」


 どこか拗ねたように、弓月が唇を尖らせる。


「もう、亡くなってしまいましたがね」


 これで良かったのだ。


「あ……」


 寂しそうに微笑むその横顔に、弓月は申し訳なさそうに視線を落とした。


「過去に引きずられることなく、あなた自身の明日を見つめて生きていけば良いのです」

「でも……山南はんは?」


 弓月の掌の温もりが、山南の手に重ねられた。


「亡くなったお人のこと、忘れられへんのと違います」


 真っ直ぐな瞳に、山南が苦笑する。

 そうですね――と、息を吐き、眼尻に深い皺を蓄え、山南は頷く。


「私の御役目は一日も早く、人々の暮らしに安寧をもたらせること――」


 弓月の瞳を見つめ直し、


「私は、いや新撰組我らはそのために、この京の都に在る……そう在りたい」

「答えになってまへん」


 顔を曇らせ、弓月が詰め寄る。


「そうですか」


 山南は眼尻の皺を深めた。


「我らの暮らすこの国の行く末は人の手で決めるもの。決して人智を超えた力などを頼ってはいけない。過ぎたる力は自らを見失わさせ、容易く飲み込まれてしまう。私たちの明日に分を超えた力などいりません」


 幼子を諭すように、山南は優しく掌を離した。


「なれば私は、その為に――」

 

 山南は月に掌をかざし、


「――この将門流を使いましょう」


 凛とした揺るぎなき決意だった。


「あっ――」


 何故だろう。突然、弓月の頬に涙がこぼれた。


「嫌やわ。なんでやろ――」

 その瞳が微かに紅く揺れたのを、山南は確かに見た。弓月は慌てて、袖口で目元を覆った。

 恥ずかしい――と、弓月が顔を背けた。


 その時、廊下に人の気配がした。


「失礼します」


 襖の向こうから、幼い少女の声が聞こえる。


「『明里あけさと』姐さん。女将さんがお呼びです」


 なにか言いたそうな弓月明里に、山南は静かに微笑んだ。

 弓月は島原に来て、名を『明里』と改めていた。


「明里さん。行くといい。私も屯所に戻る頃合いだ」


 柔らかな微笑を浮かべ、山南が立ち上がった。

 刀を手にし、襖に向かう。


「すんまへんなぁ」


 明里はその脇に寄り添うように立つと、白い指先で山南の襟元を正した。


「また……来てくれはります?」


 明里の瞳が長い睫の向こうで、微かに揺れた。


「もちろん。また来ます」


 眼尻に皺を湛える山南に、白々とした月光が優しく瞬いた。




          ※




 湿気を含んだ冷たい風が、肌にまとわりつく。

 漆黒にうねる伏見の川面に、白々とした十六夜の月が浮かぶ。

 不規則に歪む月を、紅く色づいた楓が切り裂いて流れていく。


 蒼白い夜空が、寒さを際立たせているようである。

 本来は満天の星空なのだ。だが、煌々と照らす月明かりに闇夜が白々とし、星の瞬きは鳴りをひそめている。

 それに加え、提灯や燈籠が灯されているため、船宿の周囲はなお一層明るい。


 寺田屋浜の周辺は人々の喧騒と相まって、夜とは思えぬ活気に包まれていた。

 甘い酒の香気と共に、嬌声や歌声が風に乗り心地よく響いている。

 それが師走の寒気を感じさせなかった。


 船宿「寺田屋てらだや」の賑わいと、忙しなく船出の準備をする船頭たちの様子を眺めながら、男が二人、橋の欄干に腰をあずけ佇んでいた。


「しっかし、まっこと残念じゃ。ワシもその場にいて、この眼で是非に見てみたかったもんじゃ」


 癖の強い蓬髪ほうはつである。

 それを無理やり押さえつけ、強引に結ったのだろう。海藻を髪に乗せたような髷をした男が、残念そうに深い溜息を吐いた。

 六尺を超える体躯を持て余すようなその様子は、まるで大きな童のようである。


「冗談じゃねぇ。観劇じゃねえんだぞ」


 葛城柔志狼は苛立ち、眼の横の傷を掻いた。

 右腕は白い布で首から下げられ、分厚い胸板には幾重にもさらしが巻かれている。


「仕事は完璧だ」


 満足だろ――と、柔志狼が吐き捨てる。

 ワシは満足じゃ――と、男が嗤う。


「じゃがの、柔さんが納得しちょらんじゃろが」


 細い目をさらに細めて、男が意地悪そうに微笑した。


「煩せぇよ」


 不貞腐れたように柔志狼が横を向く。


「まさか、あそこに隠されちょったが、よりによって太閤殿下のとはの――」


 ぴしゃり――と、男は額を叩いて笑った。


「本当に知らなかったのか」


 当たり前じゃろ――と、男が真顔で言う。


「どうだかな」


 ふん――と、柔志狼が鼻を鳴らした。


「あぁ神よ《エリエリ》……なぜ《レマ》……我を見放したのです《サバクタニ》」


 口角を持ち上げ、男がにやりと嗤う。


「手前ぇ何を知ってやがる?」

「おう?」

「惚けやがって」

「篭目かごめ――」


 眼をさらに細め、男が口ずさむ。


「おい、龍の字よ、手前ぇいったい何に関わってやがる?国を守るために海軍を作るなどと、三味線弾いてた奴が、なんでこんな件に首を突っ込む?」


 柔志狼が訝しげに眉をしかめる。

 男は答えず、大きな身体を揺らして嗤った。


 分厚い柔志狼の体躯に比べ量感こそ見劣りするものの、背丈は柔志狼より頭半分は高い。それに肩幅の広い男の体躯は、柔志狼に決して見劣りするものではない。

 だが、どっしりと巨岩のように安定感のある柔志狼に比べ、男のそれは、どこか雲の如く掴みどころがない。それでいて、細い目をさらに細めて微笑む顔は、無邪気な童のようであり、人の心にするりと入り込む安心感がある。

 人たらし――そんな言葉がよく似合う。


じゅうさん。いまの日本の状況知っちょるがか?」


 急に改まり、男が、柔志狼の肩を叩いた。


「あん?」

「日本はな、このままじゃいかんのじゃ。今この瞬間にでも日本は一つに纏まらにゃいかん。勤王だの佐幕だの、同じ日本人同士が諍いを続けとっちゃいかんぜよ」


 小さな眼を見開いて、柔志狼の肩を掴んだ。


「西洋列国の力は想像以上じゃ。奴らは東洋の国々を次々と属国にしちょる。あの清国だって今や散々じゃ。それがの、こげに小さか国の中で、勤王だぁ佐幕だぁ――幕府に雄藩などと、せせこましく乳繰り合っちょるようじゃ、こん日本もいつ清国の二の舞になるか分かりゃせん」


 男の指に力が籠り、万力のように肩を締め付ける。


「おい――」

「ワシゃな、そないな事っ耐えられん。日本ちゅうこん国が、尊厳も踏みにじられ魂まで骨抜きにされ、異国に飼い殺しにされるなんぞ我慢できん。そげに情けなか姿――国許土佐だけで充分じゃ」


 男の瞳に暗い炎が揺れる。


「りょうの字――」

「ワシゃの、その為なら、使えるもんは何でも使っちゃろう思うちょる。それが例え毒でも――いやさ、例えそれが鬼でも、神さんでも……」


 男の瞳に籠る鈍色《にびいろ)の炎は、狂気にも似ていた。


「どこまで本気なんだ?」


 男の手を払い、柔志狼が真意を探るように睨む。

 その視線を、男は正面から見据えた。

 まるで殺気が凝るように、二人の間の空気が張り詰めていく。


 耐え切れず、柔志狼が動こうとしたその刹那。

 ふっと微笑むと――


「ほいじゃ、ワシゃ行くきに」


 男は身を引いた。

 絶妙の拍子だった。二人の間に張り詰めていたものを、男は一瞬で外した。


「急いで大阪に戻らんといかん。明日の昼前には神戸村に戻らにゃいかんのじゃ。柔さんも行くんじゃろ近江へ?」


 先ほどまで張り詰めていたものが嘘のように、あっけらかんと男が微笑む。

 ちっ――と、舌を鳴らし柔志狼も緊張を解く。


「今回は世話になったの。こじゃんと怪我までさせてしもうて……いくら礼を言うても足りんぜよ」


 男は痛ましそうに柔志狼を見つめ、肩をぽんと叩いた。


「気にするな。仕事だからな」

「そん娘さんらを、早いところ故郷に連れ帰ってやらにゃの」


 柔志狼が左手にぶら下げた白い風呂敷包みを指さす。


「あぁ」


 それは荼毘にふした蓮と、二人の遺骨だった。


「あまり自分を責めるもんじゃないきに」

「そんなんじゃねぇよ……」


 川面に映る月に視線を泳がせる。


「優しすぎるんじゃよ、柔さんは」

「うるせぇよ」


 バツが悪そうに、柔志狼が横を向く。


「ほい」


 男が懐から袱紗包みを投げる。

 風呂敷をぶら下げた手で、柔志狼はそれを器用に受け取った。


「なんだこりゃ?仕事料はもらったぜ」

「ワシからの線香代じゃ」


 男がにんまりと微笑む。


「ふん」


 柔志狼は一瞬、不満そうに口元を曲げたが、それを黙って懐に入れた。

 それを見た男は、何も言わず眼を細めて微笑んだ。


「ワシゃ行くぜよ。待たせとる人もおるしな」


 寺田屋浜の喧騒が慌ただしくなる。

 伏見川に浮かぶ三十石船が、出発の刻を迎えようとしていた。


「ほいじゃまた」


 隣の長屋にでも帰るかのような気軽さで、男は流れる雲のように歩き出した。

 その背をしばし見送った柔志狼が、自身も背を向け歩き出そうとしたその時だった。


 あぁ――と、大声を聞いた。


「――いかん、いかん。大事なことを忘れちょった」


 あっけらかんと、男がバタバタと駆け戻ってきた。


「相変わらず落ち着かねぇ野郎だな」


 苦笑いを浮かべて振り返る柔志狼の眼前に、男は一枚の紙切れを突きつけた。


「なんだこりゃ?」

「これは横濱の港を撮った『ふぉとぐらふぃ』ちゅうやつじゃ。『きゃめら』いうカラクリ機械でな、絵を写すもんらしいがの」


 船から降りる外国人の姿を写し撮ったたというそれは、柔志狼の知る絵という概念では計り知れないほど緻密だった。

 そこに写る人の表情までもが、はっきりと認識ができるほど描き出されている。


「おい、こ、これは……」


 その中の一点で、柔志狼の視線が釘付けになった。 


「どうじゃ、面白いじゃろ」

「手前ぇ、これは一体……」


 柔志狼の声が微かに震えていた。

 そこには、洋装をした西洋の紳士や貴婦人の中に、フロックコートを着た三人の男が写っていた。その背格好は、まるで三つ子を思わせるような、瓜二つならぬ瓜三つ。


「天羽四郎エ……」


 そこに写るのは忘れるべくも無い、あの天羽四郎衛門こと益田四郎その姿だった。

 天羽と同じ顔をした男が三人。船から横濱の地に降り立つ姿が写っていた。


「おい、。お前ぇ何を知ってるんだ!」

「巻き込んでおいて、言えた義理じゃないがの。くれぐれも気をつけとうせ」


 ほいじゃ、また――と、再び別れを告げると、欄干の端で待つ男の元へ向かった。

 龍馬を待つその男が加護石人を名乗り、山南の前に現れた男であることを、柔志狼は知らなかった。



 かごめ かごめ

 駕籠の中の鳥は――

 いついつ出会う

 夜明けの晩に――



 柔志狼の手に忌まわしき写真を残すと、童唄を口ずさみながら手を振り、坂本龍馬は闇へと消えた。


 呆と立ち尽くす柔志狼の足元に、冷たい刃のような月が、ただ蒼い影を落としていた。



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