第58話 青龍帝


 爽やかな風が柔志狼を包み込むように渦を巻く。


 それは陽の光を浴びた樹々の梢を吹き抜ける、清涼な一陣の春風。

 だが次の瞬間、一転する。

 鋭い颶風ぐふうとなり吹き上がると、地下聖堂にたちこめる瘴気を一瞬で切り裂いた。


 翡翠色の透明な風がうねり、天羽を弾き飛ばす。

 青龍――と、柔志狼が呟く。


 螺旋のうねりを描きながら、柔志狼の前に立ち塞がったそれは、翡翠色の龍だった。

 それは朧げでありながらも、凛とした神々しさと存在感を放ち、神獣のさがを宿した、高密度な氣の塊。


 蒼い龍が身を翻し、螺旋を描くように柔志狼の身体を掠めながら上方へ抜けると、痛みが和らぎ氣脈に力が戻った。

 柔志狼は、胸に刺さった魔剣を一息に引き抜くと放り投げた。

 頭上の龍がその刀身を尾で薙ぐと、魔剣は塵と化して消えた。


「将門流 陰陽ノ術 五行招来ごぎょうしょうらい 天守五獣門てんしゅごじゅうもん青龍帝せいりゅうてい召喚」


 山南が蒼い光を帯びた楓の枝を手に、柔志狼の傍らに立った。

 その身体は青龍帝の纏う氣と同じく、翡翠の揺らめきに包まれている。


「待たせましたね。葛城君」

「木氣の――青龍帝か。将門流の最高位の護法鬼を拝めるとはね。踏ん張った甲斐があったぜ」


 柔志狼は口角についた血を拭った。


「さて……」


 楓の枝を剣印と共に天にかざすと、山南の頭上で青龍帝が螺旋を描く。


「時間がありません」


 弓月の周囲に施した急場凌ぎの結界では長くは保たない。


「天地陰陽の理を乱し、人の世の安寧を壊さんとする者は、たとえ太閤であろうが――いや、それが例え神であっても断じて許すわけにはいかぬ」


 青龍帝と一体となって放つ山南の荘厳な気迫に、天羽が気圧される。

 だが、その身の内で猛り狂う三つ巴の怨念が、それを許さない。頭上にある金色の光輪が輝きを増した。


 それに応じるかのように天羽の背中の肉が蠕動し、蟲が蠢くように波打つ。

 再び、背の肉を突き破り、血肉を纏わりつかせながら、肥大化した肉のひだが噴き出す。身の内に溜め込んだ瘴気が出口を求めて噴き出したのだ。


 血肉に塗れながら、めりめりと音をたて大きく広がった翼が、ばさり――と羽ばたいた。

 それは先に生じた灰色の翼とは異なる、雪のような白い翼だった。

 まるで卵の殻を破り生誕するひな鳥のように、絡みつく血肉を弾き飛ばしながら、四枚の翼が躍るようにうねる。


「や、ヤマナミ敬助ヶぇ――」


 それは発した言葉だったか。天羽は身を震わせ、一瞬で五間ほど上空に浮かび上がる。

 大きく翼を広げると、暴風と共に刃の欠片のような羽が放たれる。


 山南が呪を唱えると、青龍帝が咆哮を上げ、羽嵐の中に身を躍らせた。

 強烈な氣と氣のぶつかり合い――高密度の呪と呪の激突は、地下聖堂を今まで以上に揺るがせた。


 天羽の羽が青龍帝の身を切り裂けば、山南の頬が裂ける。

 青龍帝の爪が天羽の羽を裂けば、天羽が喀血する。

 鎬を削るような強烈な呪力の激突は、そのまま術者に跳ね返る。


 攻防は一見、互角に見えた。

 だが柔志狼は、その光景に違和感を覚えた。

 怪鳥のごとき翼を振るう天羽が、獲物を前に猛る猛禽のように勢いを増すのに対し、青龍帝は決め手に欠け、躊躇いが見える。


 その身に膨大なの氣を取り込み呪力を奮う天羽の前では、将門流の護法鬼と言えど、なす術がないのか。


 否。

 そうではない。

 時折、山南の視線が集中を欠く。まるで何かに苛立ち、心が揺らいでいるようだ。それが青龍帝に同調するのだ。


「そういうことか」


 山南の視線の先――宙に浮かぶ天羽に纏わりつく錆色の瘴気。そこに微かではあるが、仄かに青白い霊氣の糸が絡みついている。

 錆色の瘴気の中に引きずり込まれようとしているそれは、山南の張った結界の中で動かぬ弓月から伸びていた。


 あの時――弓月の身体から引き剥がされたはずの高台院。だがその際に、弓月の霊脈を掴んで離さなかったのだ。

 つまり天羽の中には、秀吉と高台院に加え、完全ではないにしろ弓月の一部が繋がったままなのだ。


 もし青龍帝の力を最大限に振るえば、弓月も無事では済まない。その山南の迷いが、使役神である青龍帝に如実に伝わるのだ。それ故、青龍帝の本来の力が出せずにいるのだ。

 高度な呪術を行使している最中に迷いを持つということは即ち、死を意味する。


「あの馬鹿!」


 だがそんな山南を、柔志狼は嫌いではない。

 崩れそうになる膝を殴りつけ、柔志狼は奔る。


 一方、天羽の金色の輪が一際強い光を発すると、放たれた羽が六尺余りの槍に姿を変えた。

 それが立て続けに七本――投擲槍とうてきそうの如く放たれると、青龍帝の身を貫いた。

 それは術者である山南に同調し、その身を斬り裂いた。


「ぐっぅ――」


 膝が崩れそうになるのを、山南は辛うじて堪えた。

 機を得たとみたか。天羽の翼が波打つように、一層大きくうねる。

 金色の光輪が眩く輝き、翼の羽が一斉に鋭角化する。

 その一つ一つが、刃と化して山南に狙いを向けた。


「唵っ」


 山南が青龍帝に氣を籠める。

 だが、天羽の背後に弓月の姿が重なった。


「弓月――」


 印を組む指先が僅かに緩む。

 駄目だ――

 一瞬先の光景に、山南は己の死を覚悟した。


 その時だ。

 天羽の翼の間に、漆黒の影が躍り出た。

 屍人を踏みつけ、跳躍した柔志狼が、天羽の背後に取り付いたのだ。


「かつらぎゅい、柔志狼ぉおがぁ!」


 天羽の頭頂日に浮かぶ金色の光輪をぶち抜き、肘を叩きつける。

 耳鼻から血を吹き出し、天羽がぐらりと崩れた。

 追討ちをかけんとする柔志狼を、怪鳥の翼が激しく叩く。


「がぁあ!」


 次の瞬間、天羽の身体が柔志狼ともつれ、床に向け落下していく。

 鈍い音と共に、柔志狼たちが石床を砕き叩きつけられた。

 間髪いれず、転がりながら立ち上がる柔志狼に対し、浮遊するように立ち上がった天羽の羽が一斉に蠢動する。


「葛城ぃ!」


 山南の血を吐くような絶叫と、羽が放たれたのは同時だった。


 刹那、柔志狼の身体が紫電と化した。

 自らを襲う剣の暴風より、尚も疾く奔る。

 身を切り裂く刃嵐を引き裂いて、柔志狼が天羽の懐に飛び込んだ。


「将門流の奥義の礼だ。俺の技も拝みやがれ!」


 とん。


 菩薩の掌のように緩やかに握られた拳が、天羽の腹に触れた。

 次の瞬間――


 吩っ――と、柔志狼が氣を発した。


 柔から剛。 

 緩から急。

 静から動。

 零から極大。


 柔志狼の脚が大地を踏みしめる。

 足の裏から生じた螺旋のけいが全身をはしり、一瞬で拳まで伝わる。

 柔志狼の拳が、身震えるように突き込まれた。


 刹那――天羽の腹で爆発したそれは、一瞬で体内を透り、背に突き抜けた。

 それはまるで、零距離で放たれた砲弾。


「葛城流奥義 死電しでん


 天羽の頭頂に浮かぶ金色の輪が、弱々しく明滅する。

 喘ぐ口から、どす黒い血を吐きだし、天羽の身体が力なく崩れていく。

 その瞬間、天羽に絡められていた弓月の霊氣が、潮が引くように離れていった。


「山南ぃ!」


 柔志狼がダメ押しとばかりに、天羽を蹴り飛ばす。


「おぉぉう!」


 山南が叫ぶ。


「ひふみよ、いつむなや――」


 吠える山南から氣が迸ると、呼応するように青龍帝が咆哮を上げた。


「――こことぉぉ!」


 山南が眼前に晴明紋五芒星を描きながら指を打ち鳴らす。


「ふるえ、ゆらゆらと。ふるえゆらゆら――」


 その旋律に合わせ、青龍帝は躍動すると天へ昇る。


「歴史が変わろうとしている今この瞬間、人は自らの力で明日を切り開いていかねばならない。そこに過去の遺物など必要ない!」


 手にした楓の枝を、山南は頭上に掲げた。

 山南の描いた五芒星が、天羽に向かって大きく広がった。

 空中に描き出された光り輝く五芒星に向かって、青龍帝が翔ける。

 天羽の瞳が大きく見開かれ、その口からは声なき絶叫がほとばしる。



 エリ・エリ・レマ・サバクタニ――


 天羽が天を仰ぐ。


 純白の翼が断末魔の白鳥のように大きく羽ばたき――

 天羽四郎衛門は白き結晶と化して、音も無く散った……。

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