第8話 剣盃


 ゆるゆると、くすぐったくなるような三味線の音が空気に溶けている。

 津川を流れる紅葉をうたった端唄だ。

 紅葉を愛でる時期には、物見遊山の暇もなかった。

 だが、いまだ行った事のない三千院の風景に思いを馳せさせるには充分だった。


 祇園。

 蔵美屋の二階――


 間も無く暮れ六つを刻むころである。

 祇園社に向かう四条通。南北に広がる祇園の花街。

 その四条通の北側、白川に面した一角に蔵美屋はあった。

 東に行けば東大路に抜け、南に下れば建仁寺までは一本道だ。

 勤皇佐幕攘夷を問わず、志士たちが日参した京随一の花街は、長州の没落もどこ吹く風と、今宵もその賑わいに陰りはなかった。

 長州がいなくなれば、それに代わりこんどは薩州。

 花街に参ずる顔ぶれは変われども、その華やかさに変わりがあるわけでもなく、艶やかさにはいささかの陰りもない。

 しかし、金払いも良く、遊び上手だった長州贔屓の芸妓はいまだに多い。

 沖田から新撰組を名乗って座敷を取ったときけば、山南が尻の座りの悪さを感じるのは仕方あるまい。 

 だがそんな山南の心中など微塵も気にすることなく、沖田は童のように嬉々とした面持ちではしゃいでいる。その姿を見れば、微笑ましいをとおりこして内心呆れるばかりだった。


「そういえば、芹沢さんの部屋で何を読んでいたのですか」


 四半刻ほど経つがいまだ件の芸妓は現れなかった。

 沖田はそれを気にした様子もなく、山南と膝を突き合わせ、一献交えながら話すことに夢中だった。

 先程も聞かされた、昨夜の事件に関するを皮切りにして、二月に上洛して以来の事をつらつらと語った。

 長州が都落ちすることとなった八月の政変の流れから、芹沢たち水戸派への粛清の話に触れたとき、山南の表情が微かに曇った。

 だが沖田は話を続けた。


「傍で見ていてなんだかとても面白そうに見えたんですけど。あれはいったい何を読んでいたんですか?」

「あぁ……あれですか――」


 どう答えるべきか山南は躊躇ったようだ。

 山南敬助とは不思議なおとこだった。

 そこに静かに佇んでいるだけで、一服の清涼感を感じさせ、穏やかさを周囲にもたらす。

 この不思議な佇まいは、剣の世界に生きてきた沖田にとっては、なんとも異質なものであった。

 それは、沖田が幼きころから兄のように慕っている師匠の近藤や土方はもちろんのこと、試衛館の仲間たちの中にあっても、ひと際異彩を放つ存在だった。

 そんな山南とて、剣の腕は名門『北辰一刀流』免許皆伝。新撰組にあっても剣を持たせれば十指には入ろう。

 だが色白く細面、常に柔和な笑みを絶やさぬこの男は、ある意味このような血生臭い組織新撰組には、一番似つかわしくない存在だと思っている。


 沖田が見るに、そもそもが武士や侍など不似合いなのだ。どちらかと言えば、商家の若旦那か書家、あるいは学者などがお似合いである。

 しかし、剣の腕はもちろんのこと、その豊富な知識に冷静沈着な言動。加え周囲に細やかに眼端の利く洞察力は、年長者ゆえの落ち着きの一言では片づけられない。

 近藤が懐刀として重宝するのは当然のことながら、あの土方ですら、一目も二目も置いている。

 土方の性格を良く知る沖田にとっては、それだけでも山南の凄さを認めざるを得ない。

 だからと言うわけではないが、近藤や土方とは違った意味で、沖田はこの男を兄のように慕っていた。


「んん――」


 なんとなく困ったように、山南は微笑んだ。


「なにを勿体ぶっているんですか。らしくないなぁ」


 沖田が口を尖らせる。


「ねぇ、いいじゃないですか教えてくださいよ」


 一方、沖田総司と言う青年は童のような好奇心が、湧水のようにあふれ尽きる事がない。

 どんな時でも、自分が興味を抱いたものに対し、とことん喰らいつく。つまりは童がそのまま成りを大きくしたのが、のちに動乱の京に天才剣士の名を轟かすことになる、沖田総司という青年なのだ。


「……沖田君は、織田信長という御仁を知っていますか?」


 山南は言葉を選ぶように話しはじめた。


「唐突ですね。知ってますよそれくらい。戦国の大名ですよね。それって確か、殺した武将の〝しゃれこうべ〟でお酒を呑んだ人じゃありませんでした?」


 杯をくいと仰ぐと、沖田はにこりと答えた。


「変な事を知っていますね」

「なんでしたっけね?なんちゃらマオウとか呼ばれたり、お寺を燃やしたり、金色のしゃれこうべで酒を呑んだりと、まるで本当の悪鬼羅刹のような武将だったんですよね」

「『第六天魔王だいろくてんまおう』ですよ。仏道でいう他化自在天たけじざいてん。信長公は自らそう名乗ったそうです」


 山南が酒で唇を湿らせた。


「確かに、浅井父子の首級を薄濃はくだみとして酒の肴としたり、一向宗門徒に対する仕打ちや比叡山の焼き討ちなど、その非道ぶりは凄まじかったとは聞きます」


『信長公記』によれば、薄濃はくだみとは、首に金泥などで彩色を施し、艶やかに装飾をしたものと記されている。

 元亀元年――信長は、姉川の戦いにおいて打ち取った浅井久政・長政父子と朝倉義景の首級に薄濃を施し、酒宴の席で晒したと言われている。


「それで、その話と芹沢さんの部屋の書物と、なんの関係が有るのですか」

「信長公の事が書かれてたのですよ」

「へぇ。それはなんとも意外ですね」


 いや、そうでもないのかな――と沖田が言った。


「案外、芹沢さんは信長に憧れて、マオウにでもなりたかったのですかね」

「成程。そういう見方もありますか」


 沖田の言葉に、山南は素直に感心した。


「山南さん。そんな事よりも、マオウの信長さんの何が書かれていたのですか」


 顎に手をあて、何か考えこんだ山南を、沖田の声が呼び戻す。

 

「確かに信長公と無関係ではないのですが、あの方のことが書かれたものではない。少し違います」


 自分の盃に銚子を傾けようとした山南に、沖田が銚子を差しだす。


「信長公というお方は先見の明に優れた聡明なお方だったのでしょう」


 山南が盃を口に運び、途中で止めた。


「だが確かに、その一方で傍若無人な振る舞いも多く、神仏も恐れぬ所業も数多かったようですね。だがそれは古き因習を打ち捨て、新しきことわりを用いてこの国を変えようとしていたのではないかと、私は思います」

「ちょっと待ってくださいよ。なんかそれって、長州たち尊攘の連中と似ていません?」

「えっ?」

「だってそうでしょ。奴らは幕府のいう事を聞かずに、自分たちで仕切ろうと騒いでるわけでしょ?それってある意味、新しい理なんじゃないですか」


 けろりと言い放ち、沖田は盃をあおいだ。


「君は本当に鋭い事をいう。そうですね。言われてみれば確かに」


 山南はいたく感心した。


「事の善し悪しは兎も角、時代の流れの中にはそのようなことが起こるものなのでしょう」

「わたしには良く分かりませんけどね」

「確かに、尊攘派の理にも耳を傾けなければ――」

「あぁ、その話はもういいですよ。せっかくの御座敷でそんな難しい事言われても頭に入いりません」


 沖田が話の腰を折る。


「そんなことよりも私が聞きたいのは、マオウさんの話です」


 もう結構――と、ばかりに手を振る沖田に、山南は溜息を吐いた。

「今から三百年ほど昔。信長公の下に、『ルイスフロイス』という切支丹の宣教師が身を寄せていたことがありました」

「るいす風呂……椅子?せん狂死?それはなんとも面妖で恐ろしい。矢張りマオウのところに来るんだから、妖怪の類ですか?」

「沖田君――君はなにか間違っていないか?」


 だが沖田の興味は戻ってきたようだった。


「まぁとにかく、切支丹の布教の為にやってきた伴天連。まあ、僧のような人とでも考えてください」

「なんだ……」


 人間か――と、沖田が肩を落とす。


「その連れの中に、『あんじろう』と言う日本人がいたと書いてありました」

「日本人ですか?そんな三百年も昔に?伴天連と一緒に?」


 子供の様に瞳を大きく開き、沖田が身を乗りだす。


「ええ。当時は諸外国と積極的に貿易をしていた時代ですからね。この『あんじろう』なる男。余談ですが、どうも今の薩摩の辺りにゆかりのある者だったようです」


 言葉を切ると、山南は酒で口を湿らせた。


「その男が書き記した覚書おぼえがきの様なものなんですよ」

「まさか芹沢さんが隠れ切支丹だったとか?」

 沖田が目を丸くする。

「無い無い。そんなこと絶対に無い。あるわけが無い」


 冗談ですよ。冗談――と、沖田が笑った。



 そもそも新撰組は、庄内藩士・清河八郎の幕府への献策により江戸にて結成された『浪士組』を前身に持つ。

 文久三年に、将軍・徳川家茂上洛の際、その前衛として上洛。

 だが京に着くや否や、清河の口から浪士組の真意が将軍警護でなく、尊皇攘夷の先鋒であることを告げられる。それに対し、近藤とともに上洛した試衛館の仲間たちと芹沢鴨を中心とした水戸一派が、これに強く反発。

 幕府はこの一件に対し、浪士組を江戸に呼び戻すも、近藤らは袂を分かち京へ残留した。


 その後、芹沢が京に残った水戸派と試衛館派をまとめ上げ、『壬生浪士組』を結成。京都守護職として手駒不足に悩む会津藩に取り入り『会津藩お預かり』として後ろ盾を得る。


 筆頭局長となった芹沢の手腕は世が世であれば、一城の主すら望めたのではないかと思えるものであった。だが同時に、その豪快で奔放な振る舞いは横暴極まりなく、取り締まるべき不逞浪士以上の蛮行を繰り返す。

 結果、会津は暗に芹沢の排除を望んだ。

 そして、試衛館一派により、芹沢らへの粛清が強行されたのが、ひと月ほど前の事であった。


「土方君は遺品など、まとめて捨ててしまえと言うのですがね。国許の家族へなにかと思い整理していたのですが――」


 山南はそう呟くと、格子の外に広がる花街の灯に眼を泳がせた。

 そんな山南の姿に、沖田も視線を泳がせた。芹沢鴨を斬ったのは、誰あろう沖田だ。


「それで、その覚書にはなにが書いてあったんです?」


 ささくれ立つ気持ちを誤魔化したいのか、沖田が話を急かす。膳を脇によせると、山南ににじり寄った。

 一瞬、沖田をじっと見つめ、山南は目元をを僅かに綻ばせた。


「『聖遺見聞覚書せいいけんぶんおぼえがき』と言うのですかね。内容の殆どは、あんじろうが見聞きした西洋の生活や、切支丹の教義や儀式。それに伴天連の生活が殆ど。だがその中に、信長公に拝謁した時の様子が書かれていました」


 ふぅん――と、沖田が心無い相槌を打つ。


「ルイスフロイスなる伴天連の宣教師は、信長公に遠眼鏡やら球状の地図――地球儀ですかね、他にも様々な物を献上したみたいですね」

「そんなの今では、大店おおたな商人あきんどやら学者なら普通に持ってるじゃありませんか」

「その当時は大層なお宝だったのですよ。まして信長公は先見の明と好奇心の塊の様な御方だったようです。大層な喜びようだったのでしょう」


 まるで沖田くんのようですね――と、山南は笑った。


「それにね、ルイスフロイスなる人物、何やら伴天連にとって、かなり貴重なモノまでも、信長公に献上したと記されていた」


 山南の眼にある光が灯っていた。

 山南敬助という男、剣の腕は一流であるにも関わらず博識な学者肌。頭脳明晰で弁も立つのである。普段はその博識ぶりをひけらかす事はないが、何かの拍子に興が乗れば、その口は饒舌に語り出し止まる事を知らない。

 図らずも沖田は、山南の背中を押してしまったのだ。


「我が日の本。天子さまの下に三種の神器なるご神物が有る様に、仏教回教景教耶蘇教などなど、ありとあらゆる教えには己が宗派の者ですら、おいそれと晒してはならない教えや秘事秘宝と言うものが数多に存在します――」


 山南はすくと立ち上がると沖田に背を向けた。窓に寄ると、遊郭の明りにほんのりと染まる白川を見下ろした。


「たとえば――」

「ちょ、ちょっ、一寸まってください。もういいですよ。分かりましたから」


 これ以上は堪らない――とばかりに、沖田が声を上げる。


「ここからが面白いところなのですが」


 興が乗ってきたところを遮られ、山南が口を曲げる。


「もうお腹いっぱいですから」


 沖田が苦笑する。


「そうですか――」


 山南が肩を落としたその時だった。

 衣擦れの音と共に廊下に人の気配がした。


「遅くなりました」


 襖の向こうで、鈴を転がすような声がした。

 音もなく襖が引かれると、大きな輪を二つ結んだ蝶々髷の芸妓が、深々と頭を下げかしこまっていた。


 座の空気が一瞬で変わった。

 沸き立つような甘い香気が、座敷を満たしていく。


「弓月にございます」


 伏し目がちに顔を上げると、眼尻の下がった切れ長の瞳が、二人を見つめ微笑んだ。

 


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