第9話 観月酒

 

 べべん――と、小気味の良い三味線の音が耳をくすぐる。

 

 別段、上手とも思えない。

 といって下手なわけでもない。

 だが不思議と、酒が旨く感じる。

 音色の一つ一つが人肌の熱を持ったおりのように、心の奥の方に残る。

 その熱が、じんわりと腹の下を温かくしてくれる。

 沖田までも聞き入っている。

 なんとも心地よい音色を奏でる芸妓であった。


 情が深い娘なのだろう――と、山南は漠然と思った。

 まるで、波ひとつない湖面に浮かぶ月を見ているようだった。

 張り詰めた緊張感の上に刹那に浮かんだ、儚い真円の月のような――弓月は噂に違わぬ美しさだった。

 芸妓特有の、媚びたような艶めかしさは微塵も感じさせない。

 むしろその佇まいはある種の気品をまとい、神秘的な表情はまるで巫女を思わせる。

 それでいて、ほんのり艶やかに香る色香と相まって、何とも言えぬ不思議な魅力を作りあげていた。


 べべん――と、三味線をつま弾く。

 ちらりと山南を見つめる瞳が、芳醇な色香を醸し出したかと思うと、つぎの瞬間、沖田に向けられた瞳が幼子のように煌めく。

 そして再び、潤んだような瞳がこちらに戻った瞬間、山南と弓月の視線が絡み合った。

 その水晶のような瞳に吸い込まれそうになるのを、山南は必死で堪えた。


 だが不思議なことに、それは情欲が湧きあがってくるといった類のものではない。

 ただ――そう、眼が離せなくなる。


 山南は気付かれない様に、小さく細く息を吐くと――臍下三寸、丹田に意識を集め呼吸を整えた。


 だがその瞬間。

 ふっ――と、弓月が眼元を綻ばせた。

 気恥ずかしさに山南が視線を逸らした瞬間、三味の音色が止まった。


「お粗末さまでした」


 弓月がしゃなりと首をたれる。


「素晴らしいじゃないですか」


 興奮した様子で沖田がはやし立てた。


「なんとも心に染みる音色だった」


 山南が手を叩く。

 わたしもですよ――と、沖田が無邪気に笑う。


「なんでも、ずっと昔に、海の向こうからやってきた、異国の方から伝えられた曲やそうです」

「異国の?」


 弓月が頷く。


「うちの生まれた村に、古くから伝わってたもんです」


 濡れたような光沢を放つ紺地に、白々とした刃のように鋭い上限の月を染め上げた着物をしゃなりと捌き、空になった山南の盃に酒をついだ。


「なるほど道理で。どこか異国情緒溢れるというのか……なんともいえぬ調べ」


 感心したように、山南が頻りに頷く。


「生まれはどちらなんですか?」


 山南が盃に口をつけた。


「琵琶湖ほとりの奥まった山の中。なんの変哲もない――寂れた村です」


 遠くを見るような瞳に、複雑な色が揺らめいた。


 哀切――

 望郷――

 悲哀――

 そしてほんの一瞬――山南はその瞳の奥に、怒りの感情を見たような気がした。


「弓月さ――」

「――それ!」


 逡巡する山南を遮って、沖田が声を上げた。


「それってもしかして、さっきの話に出てきた織田さんのところに来た、伴天連のお風呂さんに教えられた曲だったりして?」


 沖田がはしゃぐように手を打つ。


「お、お風呂――ですか?」


 弓月が眼を丸くする。


「沖田君、違う。お風呂じゃないですよ『ルイスフロイス』ですよ」


 慌てたように、山南が訂正する。


「そうそう。その御風呂椅子さん」

「名前までは知りませんが、その昔に伴天連の宣教師が伝えたと聞いてます」


 そう答える弓月の顔に、先程ゆらめいた感情の色は微塵もうかがえなかった。

 弓月はにこりと微笑むと、沖田にも酒をすすめた。


「こないなご時世になったから、こうして話せますけど、少し前でしたら、たとえ御座敷での戯言とはいえ、とてもとても――」


 口元を押さえ、事も無さ気にころりと笑うが、その通りである。


「それにしても今夜はやけに、信長さんだのお風呂さんだのが、わたしの耳に纏わりついてきますね。これはなにか因縁でもあるんですかね」


 盃を一息にあおると、沖田が訳の分からぬ論を言う。


「なんですの?」


 弓月が小首を傾げる。


「いえね。弓月さんが来るまで、山南さんが読んでいた書物の話をしていたんですよ。そこに信長さんだの、お風呂椅子さんだのが出てきて。それに加えて、あなたの話ですからね。こりゃあ何かの因縁だとしか思えないでしょ」


 ねぇ、そう思いませんか――と、沖田が詰め寄る。


「そ、そうですか」


 一瞬、先ほどまでとは明らかに違う光が、弓月の瞳の奥で揺らめいた。


「それってどんなお話なんどすの?」


 聞きたいわぁ――と、弓月が微笑むが、先程までの表情とどこか違う。


「そのね、お風呂屋さんが、信長さんの処に色んなお土産を持ってやって来たって話を聞いていて、そのお土産が何だか――」

「沖田君」


 山南が苦笑する。

 弓月が小首を傾げる。


「つまり、伴天連と信長さんの話をしているところで、弓月さんの登場と相成りましたってことです」


 誤魔化すように大仰に手を開いて、沖田が苦笑いを浮かべる。


「お二人はんは、壬生ろ――いや、新撰組の方ですよね?」

「ええ」


 山南が頷く。


「なんやらよう分かりまへんが、お侍はんはこんな花街に来はっても、難しいお話されるんどすな」

「当然です。侍たるもの、常在戦場の心構えを忘るるべからずですから」


 沖田が胸を張り、わざとらしく咳払いをする。

 まぁ――と、口に手を当て、弓月がころころと笑う。


「沖田君、いささか呑みすぎではないかな」


 訳の分からぬ話の展開に、山南が苦笑する。


「呑みすぎ?そんなことありませんよ」


 沖田が盃を飲み干す。


「そんな事より山南さん。さっき言っていた伴天連のお宝の話をしてくださいよ。そうじゃなきゃ、わたしは今夜眠る事も出来やしない」

「君は興味が無かったのではないか」


 山南が呆れたように息を洩らす。

 すでにここに来た意味を見失った様子の沖田に、山南が困った様に眉を寄せた。


「なんや面白そうなお話ですね。うちにも聞かせてくださいまし」


 弓月の瞳に、強い好奇の光が揺れている。

 やれやれ――と、山南は組んでいた腕を解いた。


「ルイスフロイスが、信長公に献上したのは航海に欠かす事の出来ない羅針盤や地球儀、遠眼鏡やら当時の海図。それに胡椒や辛子などの香辛料。いずれも航海の途中、印度インド辺りで手に入れた珍品奇品。それら物珍しいものに、信長公はたいそう好奇心を刺激され、それはそれは満足なされたとか」


 傾げた小首を掻きながら、山南は観念したように口を開いた。

 その話に静かに耳を傾ける弓月は、どこか冷めた様子だった。


「それは先ほども聴きましたよ」


 沖田が子供のように唇を尖らせた。


「そうじゃなくて、さっき言ってたでしょ。ほら、切支丹の秘事に関わるとか言う――そちらの方が凄いお宝に決まってるじゃないですか。焦らさないでくださいよ。ほらぁ山南さんてば」


 沖田が膝を叩く。


「そんな物が……あるんですか?」


 弓月の声の調子が微かに低くなった。

 山南が顔を向けると、弓月は僅かに俯いた。


「そもそもこの話の書かれた『聖遺見聞覚書せいいけんぶんおぼえがき』という書の、真贋が定かではないと言う事を、くれぐれも念頭に置いて聴いてください」


 山南は言葉を選んで話しはじめた。


「聖遺見聞覚書――」


 弓月が呟く。


「御存じなのですか?」

「い、いいえ」


 視線を外し、弓月は首を振った。

 その様子が気になりはしたが、山南は話を続けた。


「まずは、切支丹の教えを説いた『ゼス・キリヒト』と言う御方。我々の言うところの天照大神――んんっ、違うな。お釈迦様のような立ち位置のお方と言えば……いや、これも本質的な言葉ではないですね」


 山南を持ってしても説明に歯切れが悪い。


「成程、西欧のお釈迦様ですか」


 だが沖田は、何かを納得したように頷く。


「いや、だからそうとは言えないと――」

「いいですよ。そんな細かいことは」


 ねぇ、弓月さん――と、沖田が同意を求める。

 えぇ――と、曖昧な表情で弓月は答えた。


「各々の教義の成り立ちや、風土気候など色々が異なるのですから、同じと言うのは乱暴な言質だと思うのですがね。まぁ、そのようなお方であると感覚的には考えてもらえれば良いのではないかという程度ですから、無理に理解する必要はありませんよ」


 二人は同時に頷いた。


「この、ゼスなる御方は、西洋でその当時の主流であった『ジュダヤ』と言う元々ある神の教えを信望する者たちの中にあって、より革新的な解釈を説いた結果、時の為政者から疎まれる事となり、最終的には死刑に処されてしまったと伝えられています」

「それも書かれていたのですか」

「いや。これは私が別の書で読んだ話です」


 流石――と、沖田が感心する。


「でも、そのゼスとやらは、お釈迦様みたいな偉い方なんでしょ?それがどうして?」


 納得いかないとでも言いたげに、沖田は眉間に皺をよせた。


「たとえ神を説く聖人君子だろうと、為政者にとってみれば自らの意にそぐわなければ、事の善悪に関わらず、平然と命を奪う」


 山南が、沖田と弓月を交互に見つめる。


「それはなにも西欧や清国など外国の話だけでは無い。我々だとて太古の昔より、まつろわぬ民として、蝦夷や土蜘蛛などと称して排除してきました。現に今だとて佐幕だ尊王だ、開国だ攘夷だ――などと御託を並べ分け隔てる。皆、天子さまの下に同じ日の本の民でありながら、自らの意を通す為に平然と相手を殺す」


 その言葉に、沖田の顔が曇る。


「日々を精一杯生きている無辜むこの民には、そのような事は関係ない」


 だが、山南は続ける。


「彼らの犠牲の上に自らの意を押し通すなど許されざるべき事ではない。この僅か数年の間に、この京の都――否、この日の本にどれだけの血が流れたのか」


 ならば――と、沖田が呟いた。


「ならば何故、山南さんは剣を握っているのです?」


 沖田が絞り出すように言った。


「あなたの腰に差しているものは何なんですか?山南さんだって侍では無いのですか?その剣を握り、天子さまの為にその剣腕を振るうために、わたしたちはこの京までやって来たのではないですか!」


 沖田が声を荒げる。


「――沖田く……」

「いい加減にしてくださいよ。山南さんが、芹沢さん達を斬るのに反対していた事は知っています」


 沖田の視線が痛かった。


「でもね、山南さんだって承知したんでしょ。だからあの夜あなただって、あの場に行ったんだ」

「沖田――」


 己を貫く真っ直ぐな沖田の視線が痛かった。


「……殺らなきゃ駄目だったんですよ。この京を護るために存在する私たち《新撰組》が私利私欲に走ったんじゃダメなんですよ。それこそ無辜の民を苦しめてたんじゃ本末転倒じゃないですか」


 隊内で、誰よりも芹沢に可愛がられていたのは沖田だった。


「芹沢さんが話して効かない人だって事は、山南さんだって良く知っているでしょ」


 山南が頷いた。


るしか無かったんですよ。そうでなければ……新撰組私たち未来は無かった。そうでしょ?」


 わたしだって何も好きで――唇を噛みしめ、沖田が身を震わせた。


「獅子の身体に頭は二ついらない――土方君が言っていましたね」


 山南が、苦いものを噛みつぶすように呟いた。


「――わたしは斬りますよ」


 芹沢に引導を渡したのは、この沖田だった。


「天子さまの為、いや我ら新撰組の――そう、近藤さんと土方さんの為に、わたしは剣を存分に振るいますよ。斬って斬って斬りまくる。ねえ山南さん、そうでしょ違いますか」


 山南の眼を真正面から見つめる瞳は、まるで清流のごとく澄んでいた。

 新撰組の中で沖田総司ほど純粋で濁りの無い男はいない。この透き通った透明な純粋さに穢れが生じた時、この青年はどうなってしまうのだろうか――山南にはそれが、なによりも怖かった。


「分かった。この話はもう止めよう」


 さぁ――と、銚子を差し出す。

 暫し、沖田は山南の眼を見つめ、無言で盃を受けた。

 話を戻そう――と、山南が言った。


「聖遺見聞覚書によれば、先ほど名前の出た、あんじろうが書き記したところによれば『いこん』と呼ばれる画や『くるす』なる十字の首飾り。黒茶けた染みだらけの布――」


 沖田の盃を呑み干すのを待ちが、山南は話し始めた。


「それらは全て、彼ら切支丹にとっては大変にありがたい信仰の対象。ある意味、神そのものにも等しい品々だった様ですが、信長公はさして興味を示さなかったとありました」


 ただ――と、山南が言葉選ぶ。


「ただ、なんですの?」


 言葉を挟んだのは沖田で無く弓月だった。

 その表情は、酔客の会話に合の手を挟んだと言う風では無く、真剣そのものだった。

 山南はそんな弓月を見つめ、


「その中のひとつに、信長公はいたく興味を持たれたと記してありました」


 眼尻に深い皺を刻み、山南は続けた。


「それってなんですか?」


 気を取り直したのか、弓月に負けじとばかりに、沖田も眼を輝かす。


「黄金のです」

「黄金の盃ですか?もしかして髑髏の?外国にも薄濃はくだみってあるんですかね?」


 先程までの様子はどこ吹く風と、瞳を輝かせた沖田。

 それとは対照的に弓月は押し黙り、山南の次の言葉を待っているようだった。

 その薄濃はもういいでしょう――と山南が苦笑した。


というよりですね。『聖杯』というそうです。あんじろうは『聖月杯《せいげつはい)』と呼んでいました。これは主ゼス・キリヒトが、今からおよそ一八〇〇年ほど昔、彼の死に際にその血を受けた杯であると記されています」

「成程、そりゃあそうですよね」


 沖田が大きく頷いた。


「黄金とはいえ普通の杯じゃ、なんたら魔王の信長さんが喜ぶわけありませんもんね。でも――」


 これでしょ――と、沖田が自分の指に唾をつけると眉をさすった。


「それはよく分かりませんがね」


 と、山南が苦笑した。


「というのも、この辺りの表記がいかにもあやふやだ。その他の献上品は素材や色、質感その来歴などを事細かに記し、信長公が珍品の一つ一つにどのように感嘆し興味をもたれたか、そう言った事までしっかりと書かれている。それは後世に記録として残そうと言う意図が見て取れる。しかしこの聖月杯なるものに関しては、あまりにも雑駁ざっぱく過ぎる」


 山南は溜息とともに、つるりとした顔を撫でた。


「この聖月杯なるものだが、信長公がいたく気に入り、喜んで受け取ったとまでは記されている。だが私が思うにどうにも、あんじろうなる者――この聖月杯に関してだけは、あまり声高に語りたがっていないように読み取れる。むしろ出来うる事ならば可能な限り目立たせたくは無い……そんな風に私には感じられます」

「厄介もの……」

「えっ?」


 山南と沖田が同時に、弓月を見つめた。


「捨てられるものならば捨ててしまいたい……」


 ぽつり――と、今まで黙っていた弓月が、溢すように言葉を吐いた。


「弓月さんもしかして、この話を知ってるの?」

「いえ。ただ――」

「なにか?」


 山南が柔和な笑みを蓄え、弓月を見つめた。


「きっと、捨てるに捨てられない厄介ものを、信長公に押しつけたかった……なんとなく、そう、ただなんとなく、そう思っただけどす」


 言葉を千切って、吐き捨てるように呟く。

 溜息を一つ吐くと、弓月が静かに顔を上げた。

 その瞬間――ぴんと空気が張り詰めた。


「弓月さん」


 山南が眼を見張る。


「ゆ、弓月さん、それ、あぁあ――め、眼、弓月さん瞳が!」


 沖田が興奮したように指を指す。

 弓月の瞳が、仄かに紅い虹彩を放っていた。


 はっ――と、弓月は慌てたように袖口で顔を覆い隠し、


「見んといてください。お恥ずかしい」


 山南たちから、顔を逸らした。


「お侍はんの前で、出過ぎたこと言うて、ほんに申し訳ありません」


 必死に隠そうとするその姿は、どこかとても儚く見える。


「うちは興奮したり恥ずかしゅうなると、頬で無く瞳が紅くなるんどす」

「弓月さん……」


 その悲痛さすら漂う様子に、山南が眼を細めた。


「ほんまお恥ずかしい。どうかこのことは忘れてやってください」


 堪忍え――と、弓月は身を捻り、尚も隠そうとする。


「そんな事ないって、ものすごく綺麗じゃないか。こんなに綺麗な瞳は見た事ないよ。ねぇ山南さん、そうですよね」


 だが沖田は、そんな弓月に無遠慮ににじり寄る。


「だからさ、ほら恥ずかしがらないでこっちを向いてよ」


 沖田が前に出ると、弓月は身体を引く。


「沖田くん、いい加減に――」


 手を伸ばした沖田をいさめようと、山南が手を伸ばす。

 その刹那、それは突然に起こった。


 もぞり――


 突如、畳の上に黒いかすみが湧いた。

 行燈の影――弓月の背後のわずかに薄暗くなった辺りで、影よりもなお暗いそれは、黒く蠢いた。

 禍々しく歪な闇が、塵を纏い受肉するように形を成して凝っていた。


 黒いかすみもやの様だったそれから見る見るうちに、節くれだった糸のような脚が生えてくる。

 果たしてそれを脚と言ってよいのか。

 黒々とした霞の如き身体をした、足高な蜘蛛に似た姿。

 それは顔を逸らす弓月の視界には入っていないとしても、沖田の視界には充分に入っているはずである。

 だが沖田は気に留める様子も無い。

 まるで気が付いていないのか、顔を背ける弓月の手首を握り、どうにかして瞳を覗き込もうと悪戦苦闘している。


 その霞の蜘蛛が次第に濃く凝り、墨を垂らしたように色づく。

 ――と、異形の速さで、弓月の裾に向かって動いた。


 いかん――反射的に山南の腰が浮く。

 着物の裾に、黒い異形が獲りつくかと見えたその瞬間――弓月が身を躱し、着物の裾をはらった。


 紅く染まる瞳が、凛と煌めいた。

 弓月の突然の動きに、手を伸ばそうとした沖田の身体が畳に崩れそうになる。

 だがさすがの反射で、沖田は身を立て直す。


 その瞬間、蜘蛛の如きもやが宙に跳び上がった。

 ぢぃ――と、嘶き、獣の顎のように鋭利な口を広げ、弓月に襲いかかる。

 だが、山南がそれを許さなかった。

 弓月に取り憑く寸前で、山南の指先がそれを摘んだ。


「あぶないなぁ弓月さんたら。急に動くもんだから転んでしまうところでしたよ」


 のんびりと笑い、沖田が立ち上がった。


「わっ、なんですかそれは!」


 そこで漸く、山南の指に摘まれたモノに気がつき、沖田が声を上げた。


「さすがにここまで凝ると、見えますか」


 山南が顔の前にかざしたそれは、曖昧模糊として霞んでいる。だが、出現当初に比べると明らかにその濃さを増している。

 

 きぃぃ――


 と、癇に障る声を発し、獣の顎のようになった節足で威嚇し、山南に噛みつこうと足掻く。だが首元を摘まれているので、吠えることしか出来ない。


「あっ!」


 沖田が弾かれたように声を張り上げた。


「分かった、これアレですよ。あれ。妖怪。妖怪ですよ魑魅魍魎だ!」


 甲虫かぶとむしを捕えた童のように、沖田がはしゃぐ。


「うわっ、気持ち悪いですね。まるで蜘蛛ですね?なんかもやもやして、黒い煙みたいですね」


 顔を近づけ、しげしげと見つめる沖田に向かって、蟲が顎を噛み鳴らした。


「うえぇ」

「大した害は有りませんから心配はいらない」

「なんですかこりゃ?」

「名づける程のものでもないカスのようなモノ。鵺神ぬえがみにも魑魅魍魎にもなれない微弱な『氣』の穢れ。瘴気が凝った蟲の如き存在」

「ぬえがみ?妖怪――魑魅魍魎ではないのですか?」


 沖田が残念そうに口を尖らせる。


「そんなに立派な物ではありませんよ。ですが……」

「じゃあいったい何なんですか?ねぇ山南さんは知っているんでしょ?教えてくださいよ」


 沖田が焦れる様に身をよじる。


「弓月さん申し訳ないが、そこの塩を少々貰えないだろうか?」


 山南の指さした膳の上には、皿に盛られた塩があった。

 黙って頷くと、弓月がそれを手渡す。

 すでに瞳の色は深い漆黒に戻っていた。

 沖田は眉間に皺を寄せ、遠巻きにそれを見つめ、感心したように唸りを上げていた。


「ありがとう」


 塩の入った小皿を弓月に持たせたまま、山南はお銚子から酒を口に含んだ。

 それを、摘んでいる黒い靄に勢いよく吹きかける。

 黒い顎は大きく身震いをしたようだが、再び小さく嘶く《いななく)と、生意気にも威嚇するかのように口を開いた。


 他にも方法は有るのですが――と呟き、


「まぁ酒席ですから座興も兼ねて、これで充分でしょう」


 山南は塩の乗った小皿を受け取ると、その上に酒で湿った黒い蟲を押し付けた。

 指で押さえたまま、山南が口の中で何ごとかを呟く。


 すると――


 みぃや。みぃぎゃ――


 蟲が苦悶の叫びを上げたかと見えた瞬間、それは黒い重油のように熔け、見る見る間に塩に沁み込んでしまった。

 後には、黒く染まった粘土状の塩が残るだけだった。


「即興ですがね。これで問題は無いでしょう」


 あとはこれを――と、懐紙を取り出し、黒い粘土と化した塩を包み、燭台の上で炙った。すると、それは一瞬だけ激しく燃え上がり、あとは塵も残さず無くなった。


「酒で水の氣。中和させるのに土・金の氣に含ませ懐紙木の氣で包み火の氣で燃やしました。これで『因果』『業』残す事なく散じることが出来ますからね」


 眼もとに柔和な皺を浮かべ、山南が微笑んだ。


「……山南さん。あなたが博識なのは知っていましたけど、今夜という今夜はつくづく感動しました」


 眼を丸く見開いて、沖田がほとほと感心した。

 だが、山南はそれには応えず、厳しい表情で視線を走らせた。


「どうしたんです?」


 沖田がそれにならう。

 すると、弓月が襖を凝視していたのが見えた。


「いかん」


 山南が立ち上がるのと同時に、廊下の向こうで悲鳴が上がった。




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