第49話 混渦堂


 次々と落ちてくる人の数は、既に五十近い。叩きつけられ、這いずるように累々と蠢く様は凄惨の一言。まさに阿鼻叫喚の地獄絵図だった。


 だが――


「いよいよ始まりますよ」


 そんな光景に笑みを向け、天羽が天を仰いだ。

 蠢く群衆の腕が、その視線に釣られるように伸びていく。それはまるで、天に救いを求めているようである。


 否。


 それは、宙に磔られた弓月を掴もうと必死にうごめいているのだ。

 床の上に降り重なる者を踏みつけ。或いは他人を掻き分け這い出し、狂ったように宙に手を伸ばし続ける。


 天窓から落ちてくる群衆は留まる事を知らず。

 折り重なる人の山は高さを増し、次第に弓月に迫っていく。

 その群衆の欲望に煽られるのか、白く均整のとれた身をよじらせ、弓月の唇からは甘い吐息が零れる。


 意識の無い弓月から匂い立つ、艶めかしい芳香に刺激され、蠢く群衆が歓喜の雄叫びを上げる。


「人間の持つ、もっとも根源的かつ業深き罪である『色欲』をその身に満たし、穢れしマグダラのマリアは、純潔を保ちし永遠の処女たる聖母マリアとして、その身に神を身籠りたもう」 


 阿鼻叫喚の地獄絵図の中、天羽の乾いた声が高らかに響く。


「山南敬助。この期に及んでまだ、この愚民どもを救おうなどと考えているのですか」


 くっ――と、山南が歯噛みする。未だ動かぬ我が身を呪い、唇を噛みしめる。


「彼らの真の望みは、マリアと共に神の聖誕の礎となる事なのですよ」


 天羽の戯言を鵜呑みにする気はない。だがこの状態で、伏見丹に侵された人々を救う術を山南は思いつかない。

 苦悩する山南の眼の前で今まさに、弓月の白い脚先に、蠢く男の指先が掛かろうとしていた。


「弓月さん! 」


 山南の叫びが虚しく響く。


 その時だった。

 弓月の脚に触れようとしていた男の手首が消失した。


 突如、飛来した肉厚の鉈が男の手首を断ち斬ったのだ。無論、伏見丹に侵された暴徒の仕業ではない。

 思いがけぬ光景に、天羽が眼を見張る。


 暴徒の群れの中に異質の影が立ちあがった。


「鼠が紛れ込みましたか」


 頭巾に顔を包んだ柿渋色の装束。開いた眼元からは、感情のうかがい知れない穴のような眼が覗く。その数は十人以上。

 天羽が視線を巡らせ、侵入者たちと天窓に視線を巡らせる。


「そういうことですか」


 侵入者たちは暴徒の群れに紛れ、あの天窓より侵入したのでさだ。

 その証拠に、落ちて来たばかりの暴徒を掻き分けまた一人、柿渋色の侵入者が立ち上がった。


「何者です」


 侵入者たちはその言葉に対し、無言で武器を構える。まるで申し合わせたように、天羽に向かい一斉に走り出した。

 蠢く群衆らを蹴散らし、迫りくる敵を見つめ、天羽が唇を綻ばせる。


「四郎様! 」


 弓月の足元で、草摩が叫んだ。


「これが貴方草摩の言っていた幕府の隠密というわけですね」


 新しい玩具を見つけた子供のように、嬉々として天羽が呟く。


「神の復活を阻止せんがため。それとも――」


 豊臣の血が、そんなに恐ろしいですか――と、天羽の紅い唇が吊り上る。

 突然の事態に、山南も戸惑を隠せない。だがこれを好機と、己の身体を蝕む天羽の呪を破るために、念を凝らす。


 そこへ、侵入者の一人が、そっと近づく。

 女か――眼元以外を全て覆っているため判別しづらいが、他の侵入者に比べ線の細さは隠せない。少なくとも山南に対し、敵意は感じられなかった。


「御助力いただけませんでしょうか」


 ややかすれ気味だが、まだ若い女の声だった。


「幕府の命ですか」

「あの人を助けたいのです」


 女は首を振ると、磔られた弓月を指さした。


 何者だ――なぜ幕府の隠密が、弓月を気遣う。

 女は無言で山南を見つめ返す。


「私とて、そうしたいのは山々。だがご覧のとおり、身体の自由を取り戻すに今少し時間が掛かりそうだ」

「時間を稼ぎます」


 女は駆けだした。

 既に他の侵入者たちは、天羽に襲い掛かっていた。

 天羽と対峙するのは七名ほど。短めの剣を逆手に構え、天羽の周囲を取り囲んでいく。

 残りの侵入者は暴徒たちを排除している。


 ――と、天羽を取り囲む侵入者のふたりが、懐より鎖を放った。

 鎖の先につく分銅が、左右から天羽の手首を絡め取る。


「ほう」


 両腕の自由を奪われた天羽が感心したように笑う。

 そんな天羽に構うことなく、鎖を握る男たちは無言のまま周囲を走りだした。

 それに合わせるように、残りの五名が天羽に向かい間合いを詰める。


「この程度で、どうにかなるとでも」


 白銀の邪眼が妖しく煌めいた。


「眼を見るな!」


 組頭なのだろう。やや身体の大柄な男が、かすれた声で叫んだ。


 だが――


「無駄なこと」


 朱を引いたような天羽の唇が、吐息のように息を吹く。

 それにより生じた空気の渦を絡め取るように、胸の前にあった天羽の指先が小さく輪を描いた。


 瞬間。張り詰めていた鎖が音も無く切れた。

 その反動で、鎖を掴んでいた二人が、たたらを踏み後ろに転がる。


「今度はこちらの番ですね」


 自由になった指先が、指揮棒タクトを振るように振り下ろされると、見えない風の輪が、侵入者を襲う。


 最初に犠牲になったのは、鎖を握っていた二人だった。

 ひとりは、鎖を握る手首を斬り落とされた。もう一人は起き上がり際、首筋を斬られ、血を吹き上げる。


 だが、その光景に動じる事もなく、組頭の指揮により男たちは乱数的に動き翻弄する。


「そっ!」


 組頭が短く発したそれが合図なのか。男たちが一斉に黒い玉を取り出す。

 赤子の拳ほどの大きさのそれを、男たちは天羽に向け一斉に放った。


「甘く見られたものです」


 天羽の指先が躍ると、ラファエルの輪が四つの玉を瞬時に切断する。

 だがその瞬間――閃光と共に、玉が破裂した。


「炸裂玉か」


 山南は顔を背けることも出来ず、眼を閉じた。

 天羽の手前で破裂したそれから、黒い煙が広がっていく。

 しかし、真空の刃が黒煙を切裂くと、何事もなかったかのように、天羽が姿を現した。


 そこへ向け、一呼吸遅れて投げた組頭の玉が迫る。


「子供騙しもいい加減にしてください」


 天羽の指先が振り降ろされると、眼前で玉が両断された。

 だが閃光は上がらず、代わりに白い煙が噴き出した。


「これは――」


 煙を浴びた天羽の鼻腔から、一筋の血が流れた。


「毒か」


 山南の周囲にも、微量だが刺激臭が漂う。

 ぐらり――と、体を揺らし、天羽が膝を着く。


「ざっ!」


 組頭の合図に合わせ、小太刀を逆手に構えた男たちが、天羽に襲い掛かった。


「多少は楽しめました。冥途の土産に良いものを見せてあげましょう」


 胸の前で十字を切ると異国の呪を唱える。

 天羽は両手を組み、祈りを捧げるように首を垂れる。

 その瞬間、周辺に漂う霊気の濃度が増した。


 突如、壁の燭台の炎が噴き上がった。

 踊り狂うようにのたうつそれは、炎の蛇であった。

 それは、生きているかの如く天羽の周囲でとぐろを巻く。


 天羽はその炎蛇を掴むと、徐にその手を天にかざした。


「大天使ミカエルよ!汝の御力の顕現たる炎の剣よ。聖誕祭の守護者たるその御姿を現し、祝福の凱歌を奏でん」


 異国の神を讃える祝詞に合わせ、天羽の指先から炎の柱が迸る。

 四つに分かれた炎が襲い掛かると、侵入者を一瞬で炎に包む。

 生きながらその身を焼かれ、無言であった男たちの口から身の毛もよだつような悲鳴が上がった。


 男たちが炎に塗れ、焼き尽くされる寸前――宙に向け天羽が六芒星を描いた。

 すると、炎に焼かれ崩れ落ちるかと見えた男の背から、別種の炎が噴き上がった。


 侵入者たちの背から吹き上がった一対の炎に、山南が眼を見張る。

 炎はまるで鳥の翼の如く、うねるように羽ばたく。


「なんと――」


 そこには侵入者たちを触媒として、炎を纏う異形が顕現した。


「大天使ミカエルの現身ともいえる炎の天使。薄汚い飼い犬も、聖なる守護者として役に立てれば、救いも有ろうというもの」


 その手に燃え盛る両刃の剣を携え、四体の炎天使は軍神の如き威容で、そこに在った。


「山南敬助。そこで己の無力を特と噛みしめなさい」


 天羽の命令により、燃える翼をはためかせた炎天使たちが飛んだ。


 伏見丹に侵された群衆も、仲間であるはずの侵入者たちも関係ない。ただ眼前に存在するもの全てに対し、灼熱の塊は平等に襲い掛かった

 悲鳴と炎が立ち昇り、辺りは阿鼻叫喚の坩堝と化した。

 すると面妖な事に、その身を焼かれ絶命した者から赤黒い霞のようなものが立ち昇る。


 山南の眼前に、熱に炙られ赤い霧がかかったような光景が広がる。

 だがそれも一瞬の事。赤黒い霞は、空中の一点に向かい吸い込まれていく。


「な、なんだあれは……」


 赤黒い霞は宙の一点。即ち、未だ意識のない弓月の身体に吸い込まれていくようだった。

 そうではない。正確には、弓月の首に掛けられたあの十字架ロザリオ。それも紅玉石に吸い込まれていく。その証拠に、赤黒い霧を吸い込み、紅玉石は輝きを増し、白銀であった十字架ロザリオが紅く染まっていく。


 その光に照らされ、白衣のマリア像が紅く不気味に彩られた。


「いかん!」


 その光景に、山南は本能的な恐怖を感じた。

 見れば、あの女隠密が弓月の足元に立ち、それを阻もうと刃を振るっているが、あまりにも虚しい徒労に過ぎない。


「くそッ! 動けぇ!」


 指先が引きつれたように痙攣する。

 悔しさのあまり、山南は唇を噛みしめた。


「そうか!」


 はたと、山南は口の中を噛みちぎった。

 鈍い痛みと共に血の味が広がる。その痛みに、身体が反応した。


 良し!


 口中で素早く呪を唱えると、山南は溜まった血を吹いた。


「――雷っ!」


 眼前に漂う血霧に呪が応じ、雷が迸った。


「ぐぅっ!」


 雷が、山南の身体に纏わりつき火花を弾けさせた。


「なんと!」


 ぐらりと膝を着く山南を見て、天羽が驚嘆の声を上げた。


「そのような破り方をよくも――」


 山南は噴き出した血を触媒に呪を掛け、己の身体に雷を放つことにより、天羽の瞳術を破ったのだ。

 右手に剣を抜き、山南は左手に剣印を構える。


「いいでしょう」


 天羽が懐より手を抜くと、そこには歌留多のような絵札が握られていた。


「座興です。少し遊んであげましょう」


 六芒星の描かれた札を天羽が宙に放つと、無数の紙片はたちまち純白の鳥へと姿を変じる。天羽が腕を振り降ろすと、無数の鳥たちが一斉に山南に襲い掛かる。


しきか」


 山南も懐より符を取り出すと、宙に放つ。

 五芒星の描かれた符は黒い鴉に変ずると、天羽の放つ鳥を迎え撃つ。

 無数の式鬼が二人の中間で激突すると、弾かれ火花を上げ、対消滅していく。

 だが、圧倒的物量を誇る天羽の式神の方が、山南の式鬼を圧していく。


「その程度ですか山南敬助」


 だが、嘲笑うかのような天羽の表情が一変。その刹那、天羽の全身を冷たい殺気が襲う。

 突如、天羽の圧勝かと見えた式の打ち合いを、一刃の光が切り裂いた。


「な、なにぃ――」


 脊髄反射の反応で、天羽が身を躱す。

 その脇を、殺気の刃が奔り抜ける。

 ぼとり――と、乾いた音をたて天羽の右腕が石畳に転がった。


「こ、これは……」


 天羽を襲った白い殺気の刃は、光の如き速さで地を駆けると、暴徒を襲っていた炎天使の一体を屠った。


 號――と、雄叫びを上げるその姿は、白銀に煌めく虎であった。



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