第28話 月輪秘


 結月ゆいづきと名乗った。


 まだ幼さの残る小鳥のような娘だった。


「弓月姉さんがお待ちです」


 そう言って山南を案内したのは、祇園白川沿いの「毬屋」という小さな置屋だった。


「お呼び立てして、申し訳ありません」と言って、山南を出迎えたのは、あの日と同じように、濡れたような憂いのある瞳だった。

 ひとつ違いがあるとすれば、その表情には、なにか迷いのようなものが浮かんでいた。


 弓月は、結月に礼を言い駄賃を渡すと、山南を置屋の中へと向かい入れた。

 置屋の奥にある座敷に通されると、すぐに中年の女が茶を持ってきた。


「女将の楼月ろうつきです」


 すっと、背筋の伸びた線の細い女だった。

 眼尻に刻まれた皺が、年相応の美しさを際立たせている。

 どこか雰囲気が弓月に似ているが、ゆったりとした落ち着きと品は、弓月にはまだ無いものである。


「おかあさん、おおきに」


 と礼を言った後、

 は――と、小声で続けた。

 それに対し、楼月は静かに首を振った。


「お気張りや」


 落胆したように小さく溜息を吐く弓月の肩を、楼月は優しく叩いた。

 ほな――と、山南に頭を下げ、楼月は部屋を後にした。


「突然お呼び立てをして、申し訳ありません」

「いや、私ももう一度、弓月さんに会いたいと思っていたので、ちょうど良かったです」


 山南は、恐縮した様子の弓月の頭を上げさせた。


「それよりも、聞こえてしまったのだが、ここの――というのは?」

「――ここのは、うちの付き人……」


 そこまで行って言葉を詰まらせると、弓月は天井を見上げた。


「その事についても、お話いたしますので、少しの間うちにお付き合いいただけまへんか」

「もちろんです。そのつもりで来たのですから」


 どこか腹を括った様子の弓月に、山南は微笑んだ。


「この前、お座敷に呼んでもらった時、うちの生まれ故郷の話をしたの、憶えてはります?」

「琵琶湖の畔にあるという村ですよね」

「はい。かつて安土城のあったところから、そう遠くないところにある、師内山しないやまの奥に小さな、小さな村……」

「あったというのは?」

「言葉通りです……」


 静かに首を振る弓月の顔に浮かんだのは、初めて会った座敷の席で見た時と同じ、悲哀と怒りの入り混じった、複雑な感情だった。


「沖田はんと座敷にいらしてくれた時に、言ぅてらしたお話――」

「『聖遺物見聞覚書』の事ですか」

「そこに書かれていたという、織田信長公に献上された切支丹の宝物、憶えてはりますか?」


 憶えているも何も、その話をしたのは山南である。


「うちの育った戸浦とうら村は、代々あるものを守るためにだけ存在する村でした」

「もしやそれは、聖月杯の事を言っているのですか?」

「はい」

「なんと……」


 繋がった――山南の背に、何とも言えぬ興奮のようなものが走る。


「月より零れし天の甘露を、神に献上する聖なる杯――それが聖月杯であると聞いております」

「では、弓月さんの村で聖杯――いや、その聖月杯を守っていたというのですか」


 伴天連の宣教師ルイス・フロイスによって日本に持ち込まれ、織田信長に献上されたという切支丹の秘宝・聖月杯。ルイス・フロイスの供として日本に戻ったあんじろうの残した『聖遺物見聞覚書』にもその名が残されていた。

 天羽の話を信じるのであれば、それは切支丹たちの信仰そのものである『ゼス・キリヒト』の遺体より流れ出た血を受けた杯だと。西洋諸国はそれを探し求めるために、日本に開国を迫ったのだという。

 そもそも天羽四郎衛門が、切支丹の教皇庁の代理人として聖杯——聖月杯を探しだすために日本に戻ったのだ。


「それは少し違います」


 弓月は小さく首を振った。


「どういうことですか」

「村では聖月杯を守っていたのではなく『封印の巫女』を守護まもっていたのです」

「封印の……巫女?」


 山南が眼を見開いた。


「聖月杯は、あまりにも強力な霊力のため、手にしたものを狂わせる。それは魔王とも恐れられた織田信長とて、抗うことの出来ぬほどの恐大な力」


 確かに、延暦寺の焼き討ちや一向宗門徒に対しての残虐なやり口は、常軌を逸していると疑いたくなるところがある。それが全て、聖月杯の力に溺れた結果であるならば、その力の凄まじさは想像を絶する。


「第六天魔王か……」


 淫欲や食欲など、衆生の持つ欲界の天主大魔王である他化自在天の別名である。その名を自ら称した織田信長。神の力に呑まれ、魔に堕ちたというのであれば、なんとも因果なものである。


「戸浦村と言うのは、聖月杯を封印するための仕組みを講じる為に用意されたのです」

「信長公が聖月杯を封じるように命じられということなのですか」

「真偽のほどは分かりません。ですが少なくとも村では、そのように言い伝えられておりました」

「では弓月さんの村の御先祖が、聖月杯をどこかに封じたということなのですか?」


 山南の問いに、弓月は俯き唇を結んだ。


「どうかされましたか?」

「そのあたりの事情を、なんと説明してよいやら」

「構いません。ゆっくりと話してください」


 山南は眼もとを緩めた。


「そもそも戸浦村というのは、織田信長より密命を受けた明智光秀が作ったのです」

「明智日向守光秀ですか」

「光秀は近隣諸国より修験者や僧、それに陰陽師など様々な術者を集めました。さらに、ルイスフロイスと共に日本にやってきた伴天連の協力によって、聖月杯を封じるための術式を構築させたのです」

「それは西洋と日本、双方の呪術を掛け合わせ、新たな術式を作り出したということですか」

「そう考えて良いと思います」

「なんともそれは」


 凄まじい話である。今より三百年以上も前に、洋の東西の呪術の融合があったということだ。山南は興奮が隠しきれなかった。


「ですが……」


 それに水を差すように、弓月の顔が曇る。


「どうしたのです?」

「術式が完成前に至る前に、織田信長は京の本能寺において命を落としました」

「明智光秀の謀反――ですね」


 はい――と、弓月が頷いた。


「まさか……明智光秀が聖月杯を奪うために――」


 いや――と、山南は首を振る。聖月杯の封印を命に受けた光秀である。その霊力の恐ろしさは充分に認識していたはずである。ましてや光秀は、信長の信厚く才知に溢れた重臣である。深慮であったと言われる光秀が、そのような理由で暴挙に出る筈がない。


「危険故に……か」


 山南は誰にともなく呟いた。


「光秀はその直後に羽柴秀吉に破れ、小栗栖において落ち武者狩りにあい、命を落としていると伝えられている。戸浦村にて封印の術式を完成させる間などなかったはずだ。ならば誰が術式を完成させたのです?」


 光秀の謀反により、信長が死んだのである。戸浦村とて混乱であったはずだ。


「最終的には羽柴秀吉――いえ、太閤となった豊臣秀吉の命により、封印の秘術はなされたと伝え聞いております」

「――太閤秀吉が」

「実際に封印の儀が成されたのは、秀吉が晩年になってのことだったようです」


 そこまで聞いて、山南は深い息を吐いた。

 信長より聖月杯を奪うために光秀が謀反を起こす。その光秀を打ち取った秀吉が聖月杯を手に入れ、亡き主君である信長の意を汲み、封印を施した――絵図としては良く描けているのだろう。

 だが、本当にそうであるならば、光秀は聖月杯を御する方法を手にしていた筈である。そうでなければ、光秀ほどの男が無策で聖月杯を奪おうと考えるとは思えない。


 ならば、秀吉とて聖月杯を御する手段を知っていたはず。ではなぜ、封印されたのは晩年なのだ。光秀を打ち取った「山崎の戦い」から秀吉の死没には、十五年以上の間がある。その間、聖月杯はどうしていたのだろうか?


「どうにも――」


 腑に落ちない――と、山南は呟いた。


「山南様?」


 先ほどより独り呟く山南を、弓月が心配そうに見つめている。


「あぁ、すまない。確かに複雑な成り行きですね」


 山南は眼もとを緩めた。


「秀吉は聖月杯を封印する際に、伴天連追放令を行いました」

「協力を仰いでいたのではないのですか?」

「それは明智光秀のなされていたこと」


 弓月は首を振った。


「聖月杯は、伴天連たちからもたらされた。だが秀吉は、彼らにそれを再び奪われることを恐れた」


 つまり秀吉は、聖月杯を護るために、南蛮西洋との交易まで制限し、伴天連追放令までだしたということになる。だが、様々な術式を使い封印せねばならぬほど厄介な代物であるならば、伴天連たちに返してしまえば良かったのだ。


 信長にしてもそうである。彼らほどの人物であるのなら、イスパニアやポルトガルとの交渉に用いて、交易を有利に進めることも出来た筈である。


 そこまでして手放したくない理由――


「では封印の巫女というのは?」

「鍵であると伝えられております」

「鍵?」

「はい。聖月杯の封印を解くための鍵であると」


 危険なものであるというのならば、封印を解く必要はない。封じたままにしておけば良いだ。


「いずれ封印を解く必要があると、秀吉公は考えていたということか」


 秀吉だけではなく、信長もそう考えたのか。

 そもそも信長自体、聖月杯をどうしたかったのだろうか。何らかの手段として利用したかった筈だ。聖月杯に、巨大な利を見た筈である。だが、それが手に余る代物であったが故に封印を命じた。

 それほどまでに危険であるならば、秀吉はなぜ、晩年まで封印を行わなかったのだ。

 弓月が嘘を言っているとは思えない。だが、どうにも腑に落ちない。


「当時の為政者がなにを思っていたのかは、私どもには分かりません。ですが三〇〇年近くもの間、戸浦村ではお役目を、代々絶やすことなく続けてまいりました」


 そう語る弓月はどこか誇らしげであった。


「もしかして弓月さんは――」

「はい。私が最後の……封印の巫女です」

「最後の? 先ほども気になったのですが、どういう意味ですか」

「既に戸浦村は、この世には存在しておりません」


 自嘲気味に弓月が呟く。


「山南様。戸浦村、最後の巫女として第十七代『真具陀羅尼まぐだらにのまりあ』としてお頼み申し上げます。どうか私の頼みをお聞き入れ願えませんでしょうか」

「私になにを望まれるのです」


 心の奥に突き刺さるような悲痛なまでの眼差しを、山南は受け止めた。

 だが――


「どうか私を殺してくださいまし」


 畳を擦るように頭を下げた弓月の願いに、山南は言葉を失った。




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