第29話 月輪秘


 結月ゆいづきと名乗った。


 まだ幼さの残る小鳥のような娘だった。


「弓月姉さんがお待ちです」


 そう言って山南を案内したのは、祇園白川沿いの「毬屋」という小さな置屋だった。


「お呼び立てして、申し訳ありません」と言って、山南を出迎えたのは、あの日と同じように、しっとりとした憂いのある瞳だった。

 ひとつ違いがあるとすれば、その表情には、なにか迷いのようなものが浮かんでいた。


 弓月は、結月に礼を言い駄賃を渡すと、山南を置屋の中へと向かい入れた。

 置屋の奥にある座敷に通されると、すぐに中年の女が茶を持ってきた。


「女将の楼月ろうつきです」


 すっと、背筋の伸びた線の細い女だった。

 眼尻に刻まれた皺が、年相応の美しさを際立たせている。

 どこか雰囲気が弓月に似ているが、ゆったりとした落ち着きと品は、弓月にはまだ無いものである。


「おかあさん、おおきに」


 と礼を言った後、

 は――と、小声で続けた。

 それに対し、楼月は静かに首を振った。


「お気張りや」


 落胆したように小さく溜息を吐く弓月の肩を、楼月は優しく叩いた。

 ほな――と、山南に頭を下げ、楼月は部屋を後にした。


「突然お呼び立てをして、申し訳ありません」

「いや、私ももう一度、弓月さんに会いたいと思っていたので、ちょうど良かったです」


 山南は、恐縮した様子の弓月の頭を上げさせた。


「それよりも、聞こえてしまったのだが、ここの――と言うのは?」

「――ここのは、うちの付き人……」


 そこまで行って言葉を詰まらせると、弓月は天井を見上げた。


「その事についても、お話いたしますので、少しの間うちにお付き合いいただけまへんか」

「もちろんです。そのつもりで来たのですから」


 どこか腹を括った様子の弓月に、山南は微笑んだ。


「この前、お座敷に呼んでもらった時、うちの生まれ故郷の話をしたの、憶えてはります?」

「琵琶湖の畔にあるという村ですよね」

「はい。かつて安土城のあったところから、そう遠くないところにある、師内山しないやまの奥に小さな、小さな村……」

「あったというのは?」

「文字通り、今はもう……」


 静かに首を振る弓月の顔に浮かんだのは、初めて会った座敷の席で見た時と同じ、悲哀と怒りの入り混じった、複雑な感情の色だった。


「沖田はんと座敷にいらしてくれた時に、言ぅてらしたお話――」

「『聖遺物見聞覚書』の事ですか」

「そこに書かれていたという、織田信長公に献上された切支丹の宝物、憶えてはりますか?」


 憶えているも何も、その話をしたのは山南である。


「うちの育った村――戸浦とうら村は代々、あるものを守るために存在する村でした」

「それはもしかして、聖月杯の事を言っているのですか?」

「はい」

「なんと……」


 繋がった――山南の背に、何とも言えぬ興奮のようなものが走る。


「月より零れし天の甘露を、神に献上する聖なる杯――それが聖月杯であると聞いております」

「では、弓月さんの村で聖杯――いや、その聖月杯を守っていたというのですか」


 伴天連の宣教師ルイス・フロイスによって日本に持ち込まれ、織田信長に献上されたという切支丹の秘宝・聖月杯。ルイス・フロイスの供として日本に戻った、あんじろうの残した『聖遺物見聞覚書』にもその名が残されていた。

 そして天羽の話を信じるのであれば、それは切支丹たちの信仰そのものである『ゼス・キリヒト』の遺体より流れ出た血を受けた杯であるという。西洋列強諸国はそれを探し求めるために、日本に開国を迫ったのだという。

 そもそも天羽四郎衛門自体が、切支丹の教皇庁の代理人として聖杯を探しだすために日本に戻ったのだという。


「いいえ、それは少し違います」


 弓月は小さく首を振った。


「どういうことですか」

「村では聖月杯を守っていたのではなく『封印の巫女』を守護まもっていたのです」

「封印の……巫女――?」


 山南が眼を見開いた。


「聖月杯は、そのあまりにも強力な霊力の為、手にしたものを狂わせる。それは魔王とも恐れられた織田信長であっても、抗うことの出来ぬほどに恐大な力だったと聞いております」


 確かに、延暦寺の焼き討ちや一向宗門徒に対しての残虐なやり口は、常軌を逸していると疑いたくなるところがある。それが全て、聖月杯の霊力に憑りつかれた信長が起こした蛮行であるとするならば、その力の凄まじさは想像を絶する。


「第六天魔王か……」


 淫欲や食欲など、衆生の持つ欲界の天主大魔王である他化自在天の別名である。その名を自ら称した織田信長。神の力に呑まれ、魔に堕ちたというのであれば、なんとも皮肉なものである。


「戸浦村と言うのは、聖月杯を封印するための仕組みを講じる為に造られた場所なのです」

「信長公が聖月杯を封じるように命じられということなのですか」

「真偽のほどは分かりません。ですが少なくとも、村にはそのように言い伝えられておりました」

「では弓月さんの村の御先祖が、聖月杯をどこかに封じたということなのですか?」


 山南の問いに、弓月は俯き唇を結んだ。


「どうかされましたか?」

「そのあたりの事情を、なんと説明してよいやら」

「構いません。ゆっくりと話してください」


 山南は眼もとを緩めた。


「そもそも戸浦村というのは、織田信長より密命を受けた明智光秀が作ったのです」


 その様子に安心したのか、弓月は整理するように話し始めた。


「明智日向守光秀ですか」

「光秀は近隣諸国より修験者や僧、それに陰陽師など様々な術者を集めました。さらに、ルイスフロイスと共に日本にやってきた伴天連の協力によって、聖月杯を封じるための術式を構築させたといいます」

「もしやそれは西洋と日本、双方の呪術を掛け合わせ、新たな術式を組んだということですか」

「そう考えて良いと思います」

「なんともそれは」


 凄まじい話である。今より三百年以上も前に、洋の東西の呪術の融合があったかもしれないというのだ。山南は興奮が隠しきれなかった。


「ですが……」


 それに水を差すように、弓月の顔が曇る。


「どうしたのです?」

「術式が完成前に至る前に、織田信長は京の本能寺において命を落としました」

「明智光秀の謀反――ですね」


 はい――と、弓月が頷いた。


「まさか……明智光秀が聖月杯を奪うために――――」


 いや――と、山南は首を振る。聖月杯の封印を命に受けた光秀である。その霊力の恐ろしさは充分に認識していたはずである。ましてや光秀は、信長の信厚く才知に溢れた重臣である。深慮であったと言われる光秀が、そのような理由で暴挙に出る筈がない。


「危険故に……か」


 山南は誰にともなく呟いた。


「光秀はその直後、羽柴秀吉に破れ、小栗栖において落ち武者狩りにあい、命を落としていると伝えられている。戸浦村にて封印の術式を完成させる間など無かったはずだ。ならば誰が術式を完成させたのです?」


 光秀の謀反により、信長が死んだのである。戸浦村とて混乱であったはずだ。


「最終的には羽柴秀吉――いえ、太閤となった豊臣秀吉の命により、封印の秘術はなされたと伝え聞いております」

「――太閤秀吉が」


 山南は腕を組み、眉間に皺をよせた。


「実際に封印の儀が成されたのは、秀吉が晩年になってのことだったようです」


 そこまで聞いて、山南は深い息を吐いた。

 信長より聖月杯を奪うために光秀が謀反を起こす。その光秀を打ち取った秀吉が聖月杯を手に入れ、亡き主君である信長の意を汲み、封印を施した――絵図としては良く描けているのだろう。だが、もし本当にそうであるならば光秀は、聖月杯を御するための方法を手にしていた筈である。そうでなければ、光秀ほどの男が無策で聖月杯を奪おうと考えるとは思えない。


 そうと仮定するなら、秀吉とて聖月杯を御する何らかの手段を知らぬはずがない。ではなぜ、封印されたのは晩年なのだ。光秀を打ち取った「山崎の戦い」から秀吉の死没には、十五年以上の間がある。その間、聖月杯はどうしていたのだろうか?


「どうにも――」


 腑に落ちない――と、山南は呟いた。


「山南様?」


 先ほどより独り呟く山南を、弓月が心配そうに見つめている。


「あぁ、すまない。話を聞いて良く分かったが、確かに複雑な成り行きですね」


 山南は眼もとを緩め微笑んだ。


「秀吉は聖月杯を封印する際に、伴天連追放令を行いました」

「協力を仰いでいたのでは無いのですか?」

「それは明智光秀のなされていたこと」


 弓月は首を振った。


「聖月杯は、伴天連たちからもたらされたもの。秀吉は、彼らにそれを再び奪われることを恐れたようです」


 つまり秀吉は、聖月杯を護るために、南蛮西洋との交易まで制限し、伴天連追放令までだしたということになる。だが、様々な術式を使い封印せねばならぬほど厄介な代物であるならば、追放するさいに伴天連たちに返してしまえば良かったはずだ。信長にしてもそうである。彼らほどの人物であるのなら、イスパニアやポルトガルとの交渉に用いて、交易を有利に進めることも出来た筈である。


 そこまでして手放したくない理由――


「では封印の巫女というのは?」

「鍵であると伝えられております」

「鍵?」

「はい。聖月杯の封印を解くための鍵であると」


 危険なものであるというのならば、封印を解く必要は無い。封じたままにしておけば良いのである。


「いずれ封印を解く必要があると、秀吉公は考えていたということか」


 秀吉だけでは無い。それは信長も同じなのだろう。

 そもそも信長自体、聖月杯をどうしたかったのだろうか。何らかの手段として利用したかったのではないだろうか。ならばそれだけの利を見た筈である。だが、それが手に余る代物であったが故に封印を命じた。それほどまでに危険であるならば、晩年になるまで秀吉が封印を行わなかったのは何故だ。

 弓月が嘘を言っているとは思えない。だが、どうにも腑に落ちない。


「当時の為政者がなにを思っていたのかは、私どもには分かりません。ですが三〇〇年近くもの間、戸浦村では封印の巫女を受け継ぐというお役目を、代々絶やすことなく続けてまいりました」


 そう語る弓月はどこか誇らしげであった。


「もしかして弓月さんは――」

「はい。私が最後の……封印の巫女です」

「最後の?先ほども気になったのですが、どういう意味ですか」

「既に戸浦村は、この世には存在しておりません」


 自嘲気味に弓月が呟く。


「山南様。戸浦村、最後の巫女として第十七代『真具陀羅尼まぐだらにのまりあ』としてお頼み申し上げます。どうか私の頼みをお聞き入れ願えませんでしょうか」

「私になにを望まれるのです」


 心の奥に突き刺さるような悲痛なまでの眼差しを、山南は受け止めた。

 だが――


「どうか私を殺してくださいまし」


 畳を擦るように頭を下げた弓月の願いに、山南は言葉を失った。




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