第17話 人外辻
路地に背を向け中背の男が立っていた。
その向こうには、大柄な男が二人。
無造作に髪を垂らした若い男と、禿頭の男だ。
大柄な男たちに腕を掴まれ、先程の娘が佇んでいる。
下卑た好色な二対の眼が、娘の白い胸元を舐めるように見下ろす。
ぐい――と、路地に背を向けている男が顔を突出し、下から娘を嬲るように見上げる。
「けへっ。堪らんぜよ」
そう呟いて、やや年かさの上の男は、引きつったように肩を震わせた。
腰に剣は佩いているが、髷もほつれ薄汚れた風体は、どう見ても食い詰めた浪士にしか見えない。濁った黄色い眼が、飢えた野良犬のようにぎらつく。
連られるように、大柄な男たちも品のない声で笑った。
「……ねぇや――どこ?」
そんな連中を前に乱れた
「――姉や、どこ?」
それは
「ねえや?」
娘の右側に立つ、禿頭の男が首を傾げた。
「あぁあ、
兄貴分なのだろう。正面に立つ中背の男が大きく頷いた。
「――ひきっ。まだ乳臭ぇガキかと思うちょったが、満更でもなさそうじゃの嫌じゃの」
娘の左腕を掴んでいる、若い男が分厚い唇を舐めあげた。
「そうかそうか、閨がいいのか。ほじゃったら、ええ所へ連れて行っちゃるきに」
兄貴分が若い二人に同意を促した。
娘を捕らえる男たちは、互いの顔を見合わせ、卑猥な笑い声をあげた。
「そない豚が殺されるみたいな笑い声の男はんは嫌いやどすえ」
抑揚のない棒読みの台詞がいい気分に水を差した。
「な、なにっ」
男たちが一斉に少女の顔を見る。
「おまん――」
腑に落ちん――ばかりに、兄貴分が首を傾げた。
「だからよ、その下品な顔近付けるなって言ってるんどすえ」
一転。ドスの利いた太い声が路地の方から響いた。
びくり――と、弾けるように振り返ると、すぐ後ろに獰猛な笑みを浮かべ、柔志狼が立っていた。
「――な、なんじゃぁ?」
腰も抜かさんばかりに男は取り乱した。
いつから背後に居たのか。柔志狼が声を発するまで、全く気が付かなかった。
娘の腕を掴んでいる男らの驚きはそれ以上である。ずっと路地の方に顔を向けていたにもかかわらず、全く気が付かなかったのだ。
事態が把握できず、男らが硬直したように立ち尽くす。
「お前たち、何をしているんだ!」
そこへ、柔志狼を追って来た沖田が声を上げた。
「せやから、その臭い息をかけないでって言ってるんどすえ」
男たちを小馬鹿にしたように、尚も柔志狼は胡散臭い喋りを止めない。
「な、な、な、ななんだ。お、おまんら、邪魔すんじゃ無ぇ!」
兄貴分が叫んだと同時に、娘の両脇の男たちが動いた。
場馴れしているのだろう。思いの外に連携のとれた、良い反応だった。
兄貴分の両脇をすり抜けるその手は、すでに剣の柄に伸びている。
だが、それよりも柔志狼の方が速かった。
一瞬早く前に出た柔志狼が、二人の肩を軽く抑えた。
「ぐべっ」
それだけで、大柄な男たちが、蛙が潰されたような呻きを漏らし、潰れるように地に崩れた。
「……あぁ――」
眼前の状況が理解できず、残された兄貴分は眼をむいて唖然とした。
柔志狼はその脇をすり抜け、娘の腕を掴むと引きよせた。
鶏のように頭を巡らすが、兄貴分は混乱するばかりである。
「天下の往来で下品な真似するんじゃねえよ。この田舎侍が」
呆気にとられる男の胸倉を、柔志狼が指先で軽く突いた。
若い男たちと同じだった。柔志狼が力を込めた様子は無いのに、男の身体は転がるように尻もちをついて地面に倒れた。
「こんなガキんちょ相手にしねぇで、女抱きたきゃ、ほか行けよ。なあぁ――」
沖田に同意を求めようとしたが、柔志狼の耳元を甘く温かな吐息がくすぐった。
「里姉ぇを探してよ……」
柔志狼の耳元で、潤んだ瞳の娘が吐息のように囁いた。
その表情は、まだ幼さの残る娘とは思えぬほど淫靡で、妖絶な甘い香りを放つ。
「さ、里姉ぇ?」
思わず柔志狼が、身悶えるように身をよじる。
こくり――と、娘が頷く。
「ね、姉さんを探してるのかい?」
柔志狼の言葉に、娘は虚ろな瞳で微笑んだ。
「ああっ!」
その様子を見ていた沖田が、突然声をあげた。
「なんだよ」
「この娘、誰かに似ているんだよ」
「誰だ?」
「だが誰だか思い出せない」
沖田は娘の肩を掴むと、顔をまじまじと覗き込んだ。
「やっぱり分からない」
眉間に皺を寄せ、肩を落とす。
「知り合いか?」
「思い出せない。だけど、どこかで見たことがある気がするんだ。それは――」
間違いない――と、沖田が力強く頷く。
そんな沖田を、艶やかに潤んだ瞳で娘が見つめる。
「――お、おぉ……」
それには、流石の沖田も視線を逸らさずにはいられなかった。
「ふ、ふ、ふざけるなよ!」
その声に、柔志狼と沖田が面倒臭そうに振り返った。
いつの間にか、男たちが剣を抜いて立ちあがっていた。
「わ、わしらをコケにしおって。後から出てきて横取りするたぁ、舐めたマネは許るさんぜよ」
兄貴分が威勢よく啖呵を切る。
「覚悟しぃ。叩切っちゃる!」
「そいつを犯しまくってから、女衒に叩き売っちゃるき、邪魔ぁすんなや!」
若い男たちも威勢よく唾を飛ばす。
男らの眼は血走り、一様に殺気立っているのが良くわかる。
はぁ――と、柔志狼は面倒くさそうに溜息を吐くと、
「――だって。どうするよ新撰組の沖田クンよ」
柔志狼が、にやりと嗤った。
「し、新撰組じゃと?」
その名に、男たちの間に動揺が走った。
狩る者と狩られる者――今や新撰組の名は、不逞浪士にとっては畏怖の代名詞である。
「は、はったりだ!はったりに決まっちゅうぜよ。壬生狼に、そげん優男がいるわけ無ぇが!」
虚勢を張るように兄貴分が吼える。
「み、壬生浪じゃろうが新撰組じゃろうが、構うことは無ぇ!」
――殺っちまえ!
――殺っちまえ!
ぎりりと、殺気が膨れ上がり白刃が鈍く煌めく。
「――だそうだ」
柔志狼は娘を連れ、するりと、沖田の背後に回る。
任せるぜ――と、沖田の背をポンと押した。
「お、おい!」
突然、矢面に立たされた沖田がたたらを踏む。
「優男からかぁ!」
威嚇するように、剣をちらつかせる。
「お前等、土佐者だよな」
沖田の言葉に、男らの動きが止まった。
「図星のようだな」
沖田の手が剣に伸びる。
「しぇからしかぁ《煩せぇ》!」
男らが襲い掛かった。
「ふん――手加減しないぞ」
沖田の腰元から白刃が煌めくと、鋭い金属音が二度鳴り響く。
「ぐぶっ」
「ぎゃん」
若い男と禿頭が鈍い音をたて、地に転がった。
沖田は、男らの刃を抜刀と同時に弾き、すかさず刃の峰で叩いたのだ。その動きはまさに飛燕が舞うが如き。
だが、峰打ちとはいえど無傷な訳はない。
若い男の鎖骨は折れ、肩が外れたように伸びている。禿頭に至っては、折れた骨が腕の肉を破り突き出している。
「手加減はしてあるぞ」
男らにそう言い放つと、沖田が振り返る。
柔志狼に対し、己の力を誇示するかのように、口の端を持ち上げる。
その時だった。
沖田に向かって、柔志狼が動いた。
「えぇっ!」
虚を突かれ、慌てた沖田が剣を構え直す。
だが柔志狼は、そんな沖田の横を、風のようにすり抜けた。
「おい!」
沖田が視線で追うと、そこには一人残された兄貴分が、無言で剣を振り上げ、襲い掛かる寸前であった。
そこへ柔志狼が跳び込んだ。
剣の柄を下から押さえると同時に、男の顔面にむかい分厚い掌が吸い込まれていく。
男の顔面は
呆気にとられる沖田に向かい、柔志狼がにやりと嗤った。
くっ――と、沖田が歯を噛みしめる。
柔志狼の手には、男の剣が握られていた。
「忘れもんだ。返すぜ」
潰れた顔で起き上がろうとする男に向かい、柔志狼は無造作に剣を投げた。
「ぎゃんっ」
投げた刀が肩に刺さると、男は犬のような情けない悲鳴を上げて転げまわった。
「手加減しないって言ったろ。なぁ、沖田ク――」
「馬鹿な!」
――眼を剥く沖田に、今度は柔志狼が慌てて振り返る。
そこには、肩から剣を生やしたまま、平然と立ち上がろうとする男の姿があった。
柔志狼に殴られた分だけでも、直ぐに立てるようなものではない。それに、致命傷こそ外してあるが、剣の刺さっているのは、左の胸に近い場所である。動けるわけがない。
だが――
「へ、へへへ、痛ぇぇっきへっへへ……」
くふっ――肩から剣を生やしたまま、男は下卑た笑みを浮かべている。
「こ、こいつは、やっぱぱ、効くぜぇぇ」
肩口に刺さった刃を握ると、自ら傷を広げるように抉り、剣を引き抜いた。
血飛沫を跳ばしながら剣を投げ捨てると、傷を指でこねくり回す。その指をしゃぶると、口の周りに血を塗りたくる。
「ぇぇぇぁ――堪らんぜょぉ」
酔ったように男が恍惚の表情を浮かべる。
男が抉った傷から、細く黒い糸が沸き立つように現れた。
それは蟲がのたうつように蠕動すると、互いによじり合い絡み合うと、見る見るうちに傷口を塞いでいく。
「こ、こいつ……」
吐き気をもよおすような光景に、さすがの沖田も無意識に後退る。
それを合図としたかのように、沖田にやられた若い男たちも、のっそりと立ち上がる。
兄貴分の男と同じように、黒い糸のようなものが傷を覆い、異常な速度で傷を覆っていく。
かぁぁ――
くふぁぁ――
酔ったような表情で、虚ろな眼を泳がせる。
男たちの傷口に生じた黒い糸は、まるで線虫が湧くように増殖していく。
それが見る見るうちに、
「な、なんなんだよ、こいつら!」
それは蟲では無く、黒い毛だった。
黒く短い、獣毛のようなものが傷口から湧きだし、全身を覆うように包んでいく。
それとともに、男らの身体にも別の変化が現れていた。
めきめきと、骨が軋み、肩を竦めるように背が曲がる。
頭骨が歪んだのか。鼻筋から顎にかけてが、僅かだが前に突き出していく。
耳が尖り、めくれ上がる唇からは、異様に尖った犬歯が覗く。
虚ろな眼から一転。その眼には狂犬にも似た獰猛な光が灯る。
「そうか、手前ぇら伏見丹を呑んでやがるな」
柔志狼が吐き捨てるように言った。
「ふしみたん?」
沖田が問う。
「お子ちゃまは知らねぇのか?」
柔志狼が面倒臭そうに鼻をならす。
「なんだと!」
「そんなことより、ねぇちゃんは逃げな――」
沖田を無視して、柔志狼が振り返ると、そこに娘の姿は無かった。
「あらぁぁ?」
思わず拍子抜けし、辺りを見回す。
「が、ガキは逃げちまったがぁ――お、おおぉめぇらには落とし前付けてもらうじぇぇ!」
三人が奇声を発しながら、一斉に襲いかかった。
「ちょうどいいや。こっちも手前ぇらに聞きてぇことができたしな」
柔志狼は獰猛な笑みを浮かべ、拳を握りしめた。
「待て!」
柔志狼よりも一瞬早く、沖田が奔った。
「その役目、京都守護を仰せつかっている新撰組に任せてもらおう!」
柔志狼を押し退け、飛燕の如き速度で沖田の剣が煌めく。
鎖骨を折られたはずの若い男が、片手殴りに振るう剣を寸前で躱すと、沖田が横一文字に剣を薙いだ。
峰には返さない。本身の刃が男の腹部を切裂く。
これだ――掌に伝わる確かな肉の感触に、沖田が悦に入る。
「口がきける奴は、一人で充分だよな」
返す切っ先が、次の獲物を求めて翻る。
だが、腹を斬られた男の剣が、沖田に襲い掛かる。
「なに!」
疑問を感じる暇はなかった。
沖田の本能が咄嗟に身体をねじり、紙一重で剣を躱す。
速い――尋常では無い剣速の二撃目を、沖田は剣で受けるしかできなかった。
だが、その衝撃は凄まじく、沖田は塀に叩きつけられた。
「ぐぅ――」
予想以上に重い斬撃に受けた両手が痺れた。剣を落とすまいと指先に力を込める。
確かに、沖田の剣は男の腹を斬った。先ほどと違い、生かすつもりのない斬撃である。死なぬまでも、躊躇なく剣を振るうなど出来るわけがない。
馬鹿な――と、沖田は男を見つめ、言葉を失った。
それはあまりにも常軌を逸した、奇怪な光景だった。
げひゃ、ひゃ、ひゃ――
若い男は、沖田に斬り裂かれた傷からこぼれる
「なんだ……これは――」
この世の物とは思えぬその姿に、全身が粟立つ。
沖田の脳裏に、昨夜の厭な記憶が甦る。
剣が……通じない――
足場を失い泥沼に沈んでいくような――なんとも言えぬ不安感が腹の底から湧き上がる。
手足が冷たく痺れ、己の気が急速に萎えていく。これが恐怖というものだということに、沖田は気が付いていない。
「ぎゅ、ぎゅ。た、たたいしたもんぜょ。流石に噂の伏見丹。高いだけはあるきぃぃぃ」
唾を飛ばし、兄貴分が壊れた笑い声を上げる。
「し、しん、しんせン組だかなんナんだか、なんだかんだ、知らねねぇが、かまワねぇ殺っちまえ!」
その声に背を押され、ふたりの男が沖田に襲い掛かる。
「しゃぁぁ!」
だが沖田とて、並みの剣士ではない。伊達に「天才」と評されるわけでは無いのだ。
身体に湧き上がる恐怖を吹き飛ばすかのように、
飛燕の如き沖田の剣が、この程度のことで精彩を欠く理由にはならない。
沖田は自ら前に出る。
男たちの剣は空を切り、平青眼に構え直した沖田の剣が、ふたりの咽喉元を突き穿つ。
咽喉を突き破った切っ先が、正確に脊髄まで貫いた感触を、沖田は確信した。
だが、男たちの動きは止まらない。
それどころか、その動きはさらに凶暴になっていく。
その異形と化した容貌と相まって、獣が爪を振るうかのようである。
その動きは出鱈目で、凄まじく速い。
「ば、馬鹿な……」
冷たい氷の爪が、沖田の心臓を鷲掴みする。
指先が冷たく痺れる。
沖田が初めて剣を志したのは、十にも満たぬころだった。
剣を持てば斬れぬものなし――そう確信したのはいつの頃であったか。
そんな沖田の
これが生まれて初めて感じる、恐怖という感情であることに、沖田は気づかない。
その瞬間、宙を舞う飛燕は地に落ちた。
人間離れした力で振り回される男たちの凶剣を、沖田は必至で避ける。
地を転がり、膝を着き、這うようにして避ける。
息つく間も与えず襲いくる妖異の剣に、沖田の心が無言の悲鳴を上げようとしていた。
その悲鳴を聞いてしまったら、二度と剣を握れなくなる。
それが分かる。だから沖田は、必死でそれを噛み殺す。
だがそれも限界だった。
塀に追い詰められると、剣を握る指先に力が入らなかった。
その時だった。
「働き過ぎだぜ、沖田クンよ」
まさに沖田に襲い掛からんとする異形の男らの背後に、柔志狼が立った。
突然現れた仁王像のような姿に、異形の男らが反応した。
その肩に柔志狼が軽く手をかける。
柔志狼を振り払おうと、異形の男らが剣を振り回す。
だが、それよりも一瞬早く、柔志狼の身体が沈んだ。
それと一緒に、男らの身体が押し潰されるように崩れていく。
男らの身体が、地面に叩きつけられた。
こぉぉぉ――
笛のような呼気が口から迸ると、柔志狼の全身から青白い燐光が吹き上がった。
「吩っ!」
柔志狼の両の拳鎚が、もがく男たちの頭部を同時に叩くと、蒼白い火花が弾けた。
異形の男たちは大きく痙攣すると、全身からどす黒い体液を洩らし動きを止めた。
それと同時に、全身を覆っていた黒い獣毛も、ぞぶりと抜け落ちる。
瞬く間の出来事に、沖田は言葉も出ない。
「――お、お前……」
安堵の溜息を漏らしたことに、沖田は気が付いていない。
「お前の剣は人を斬る剣だ。気にするな」
柔志狼が、惚れ惚れするような、なんとも太い笑みを浮かべた。
さて――と、立ち上がり、柔志狼は残された男に向き直った。
「人を捨てるその薬。どこで手に入れたか、ゆっくり聞かせてもらおうか?」
怖い笑みを貼りつかせた柔志狼が、異形化した兄貴分に詰め寄る。
「お、おおぉぉ、おい……は、は橋爪ぇぇ…か、加藤ぉお、ぉお――」
震える声で二人の名を呼ぶが、男たちは泥のように動かなかった。
「て、てテてぇ、てめえは、ナンな、な、何者ぜょ!」
「越中富山の薬売り――」
柔志狼が口の端を持ち上げる。
「で、誰から買った?」
先ほどまでの威勢は何処へやら。異形と化した男が、柔志狼に気圧されしていた。無意識に脚が後退していく。
それを見た柔志狼が、獰猛な笑みを浮かべ、さらに脚を踏みだす。
それに押され、男がさらに後ろに退がる――が、
「きぃぃィいい!」
突如、怪鳥のような奇声を上げ、男が前に出た。
肩に刺さった剣を引き抜くと、出鱈目に振り回し柔志狼に襲い掛かる。
既に動かぬ二人に比べ、その動きは素人そのものだった。
とは言え、その剣速は常人のそれを凌駕している。太刀筋の読めない分、それはある意味恐ろしい。
それに対し柔志狼は、慌てる様子も無く剣を躱す。眼前を流れていく剣を、掌で下から突き上げる。
軽く叩いただけなのに、それだけで男の剣が弾き飛ばされた。
「あぁ?」
何が起きたのか理解できず、男の視線が泳ぐ。
柔志狼は、男の頭と顎を挟み込むように掴む。
そのまま捻るようにして、地面に崩し落とした。
地に叩きつけられた男の頭部に、柔志狼が掌底を打ち下ろすと、蒼白い火花が弾けた。
びくり――と、男が震えると、全身からどす黒い体液が漏れる。
立ち上がった柔志狼が、後ろで倒れている二人を顎で示し、
「あいつらより手加減してやったんだ、口くらいきけるだろ」
と、嗤った。
「――がぁ……だ、誰がぁ――ぐぶっ!」
身を震わせ、顔を背ける男に、柔志狼がさらに掌打を叩きつけた。
柔志狼の掌打には、あの人間離れした回復力も意味を成さぬのか。男は苦しそうに顔を歪ませ悲鳴を上げる。
尚も容赦なく、柔志狼が掌打を叩きつけると、蒼白い火花に焼かれたように、黒い獣毛が剥がれ落ちていく。
すると、漸く観念したのか。
「――は、は、葉沼屋……」
苦いものを絞り出すように、男が苦悶の呻き交じりにこぼした。
「はぬま屋?」
その言葉に、柔志狼は振り上げた掌を止めた。
「おい!それはいったい何処なん――」
だが突然、柔志狼が弾かれたように身を転がした。
次の瞬間。男の顔面に刃が突き刺さるのを、沖田は見た。
華美な装飾の施された直刀。見慣れぬそれは、西洋様式の短刀ナイフだった。
それが男の眼と眼の間――眉間のやや下方に深々と刺さっていた。
男の身体は激しく痙攣すると、全身からどす黒い体液がを吹き上げ、糸が切れたよう動かなくなった。
「危ないところでしたね」
まるで詠うような美しい声色だった。
「誰だ」
ゆっくりと、柔志狼が振り返る。
沖田も立ち上がり視線を上げた。
路地の入口に、異様な空気を纏う人影が二つ。闇に溶けゆく夕暮れよりも、なお黄昏る影法師。
それは先ほど京都所司代を連れ立って山南の前に現れた、天羽四郎衛門とその従者である
武蔵のその手には、男の顔に刺さっているのと同じナイフが煌めいている。
投げたのはこの男なのだろうか――沖田は思う。
何故に柔志狼の攻撃や、この男のナイフは異形の男を倒すことが出来るのだ。自分の剣と何が違うのか。
眼前に現れた男たちの正体よりも、千々に乱れた自尊心と喪失感が、沖田の心を掻き乱す。
「礼を言った方が良いのかな?」
そんな沖田の心中を知るよしもなく、柔志狼が嗤う。
「礼など及びません。むしろ、礼を言わねばならぬのは、こちらの方ですから」
幽鬼の如き白い影が、ゆるりと歩み寄ってくる。
その後ろには武蔵の巨体が付き従う。
清廉な白い華と獣臭漂う獣――なんとも対照的な二人である。
「はて? 初対面だと思うんだけどな。礼を言われる憶えなどないぜ」
柔志狼が首を傾げた。
「その通りです。我々は初対面だと思いますよ」
天羽が天女のようにほくそ笑む。
「なら――どういうことだい?」
天羽が視線で示すと、武蔵が僅かに横に動いた。
「無事だったのか」
そこには、あの娘が立っていた。
「良かった……」
と言いつつも、柔志狼の顔には今までにない険が浮かぶ。
荒い息遣い。
上気した頬。
蕩けるように潤んだ瞳は、淫蕩に堕ちる欲情のそれ。
先ほどにも増して様子のおかしい娘に、柔志狼から笑みが消えた。
「その娘になにをした」
ぎり――と、柔志狼が奥歯を噛みしめる。
ぞわりと、鉛のように重い殺気が、柔志狼の肉を満たしてゆく。
初めて目の当たりにする柔志狼の殺気に、沖田が息を呑む。
「この娘――
そう言って、天羽が微笑した。
「見つけていただいたうえ、暴漢から助けていただいたのです。私が礼を申すのは当然のことでありましょう」
柔志狼の殺気を微風と受け流し微笑するその顔は、白蛇の如く無機質に見える。
「ちっ」
柔志狼が舌を鳴らし前に出る。
それに対し、天羽を庇うように武蔵が前に出る。
猛る獣のような強烈な殺気の壁が、柔志狼に立ち塞がる。
「面白ぇ――」
それに呼応するように、柔志狼の氣も膨れ上がる。
二人の殺気がぶつかり合い、眼に見えぬ火花を散らし始めた。
じりじりと、空気が焦げ付きそうなほど高まる緊張――その時だった。
「い、いかがなされましたか――」
天羽たちの背後――路地の入口から、場違いなほど能天気な声が近づいてきた。
息を切らし、慌てて走り寄ってきたのは、京都所司代の北原だった。
「天羽殿。いか……如何がなされた。おお、お探しだった娘御とお会いできましたか」
肩で息をし、この季節だというのに顔には大粒の汗をかいている。
察するに、天羽らを見失い、血相を変えて探していたのだろう。
「やや、これはなんと!」
地に伏し、どす黒い血にまみれた男たちと、顔面に深々とナイフを突き立て死んでいる男を交互に見ると、
「貴様ら神妙にいたせ!おとなしく縛につき、お裁きを受けい!」
と、腰の刀に手をかけた。
「ちょ、ちょっと待ってください」
沖田が慌てて前にでる。
「ん?なんじゃお主は」
沖田の顔をまじまじと見つめる。
「おおぉ。これはこれは、新撰組の沖田殿ではないか。何故このようなところで?」
北原が目を丸くする。
「山南殿といい、今日は奇妙なところで新撰組の方々と出くわすもんじゃの」
「北原さん。あなたこそ、どうしてこんなところに?ねぇそれより今、山南さんといいましたよね」
沖田が詰め寄る。
「どこで会ったんです?ねぇ教えてくださいよ」
いつもなら、京都所司代の北原は苦手なのである。だがこの時ばかりは、その存在に沖田は藁をもすがる思いだった。
自覚はこそ無かったが、このあまりにも現実離れしたな状況に、沖田は疲れ切っていたのだ。そこへ、山南の名を聞き、あまりにも人間臭い北原の存在が、沖田に生を実感させてくれたのだ。
「北原殿。こちらの方々は、この男たちから蓮を助けてくださったようです」
そうですね――と、天羽の言葉に、蓮と呼ばれた娘は身を震わせ頷いた。
「そ、そうですか。だがこの状況はあまりに……」
無残にも動かぬ三人の男たちを前に、神妙な面持ちの北原は、沖田に助けを求めるように視線を送る。
「その娘さんが襲われそうになっていたので、私たちが助けに入ったんですよ。見れば分かるでしょ」
沖田が面倒臭そうに言い放つ。
「その御方が危なかったので、ナイフは武蔵が投げたものです。幸いにも倒れている二人はまだ息をしています。我らはこの御仁に感謝こそすれども、非を責めるべきはありません」
剣の柄を握る北原の手に、天羽が白い掌を重ねた。
「そ、そう、仰るなら……沖田殿、相違ないのですな」
沖田は頷くしかない。
「その方、大義であったな。もう行ってよいぞ」
渋々とではあるが、柔志狼に顎で促す。
「ふん。そりゃどうも」
納得いかぬと、口の中で呟く北原に、柔志狼は呆れたような一瞥をくれる。
「またな。沖田クン」
すれ違いざま、沖田の胸を拳で叩いた。
「――――」
次に柔志狼は、憐憫を込めた視線を蓮に向けた。
だが一転。
次の瞬間、天羽に向けられた視線には、先程までと同じ殺気が籠っている。
天羽は微動だにせず、それを静かに受ける。
そのまま、天羽の横を通り過ぎようとしたとき――
「面白い技を御使いなのですね」
と、天羽が言った。
「あんた等ほどじゃない」
「宜しければ、お名前を教えていただけませんか」
怖いのですか――と、遠くを見つめ、天羽がほくそ笑む。
「葛城柔志狼だ」
ふん――と、柔志狼が鼻を鳴らす。
「憶えておいても宜しいですか」
「好きにしな」
手前ぇは――と、柔志狼が聞き返す。
「天羽四郎衛門と申します。横濱で『ベタニア商会』という貿易商を営んでおります」
お見知りおきを――と、天羽は言った。
「憶えておくぜ」
吐き捨てるように言う柔志狼に、未だ武蔵が牙を突き立てるような殺気を向けている。
「その者は
「危なっかしい犬っころだな。きちんと縄で繋いどけ」
柔志狼の悪態を聞いているのかいないのか。視線を合わせぬまま天羽は蓮の顎に指を絡める。
「二人は気が合いそうだと思うのですがね」
紅く濡れる蓮の唇を割って、天羽が白い蝋のような指先を捻じ込む。
その姿を尻目に――
「胸クソ悪いぜ」
蒼白い殺気を纏ったまま柔志狼の背が遠ざかっていく。
沖田はそれを黙って見送るしかできなかった。
「ささ、天羽殿。もう遅うございます。蓮殿も見つかった事ですし、宿の方へ戻られませんか」
北原が促す。
「沖田殿、この場を暫しお願いできませぬか」
部下を呼んでくる――と、北原が走り出した。
「ちょ、ちょっと北原さん!」
正直、この世な場所は一刻も早く立ち去りたい。だが、沖田の返事も待たず、脱兎のごとく走り出した北原に、沖田は諦めるしかできない。
「悩み事ですか」
そこへ突然、声がした。
「えっ?」
沖田が顔を上げると、眼の前に天羽の顔があった。
「なにか強い迷いが御有りの御様子」
天羽が微笑する。
「あなたには関係の無い事です」
腹の中を見透かされた様な気恥ずかしさに、沖田が視線を背けた。
「このような形で出会ったのも、なにかの御縁――宜しければ何かお力になれるかもしれません」
背けた視線の先に、動かぬ男の額に刺さったナイフがあった。
「――の――を宿に、今しばらく逗留しております。宜しければいつでもお尋ねくださいませ。きっと、ご相談に乗れると思います」
「えっ?」
沖田は顔を上げた。
眼の前で微笑む天羽の顔は、穢れの無い無垢な赤子のようだった。
だが、沖田は気が付いているのだろうか。
天羽の瞳――本来、黒くあるべき虹彩が白銀に輝き、白眼は墨を流したように黒く染まっていることを。
「――あ、ありがとうござ……」
天羽の浮かべる魔性の微笑に、沖田はぞろりと、引き込まれそうになる。
その時――
「――お待たせいたしました!」
北原が部下を連れ戻ってきた。
その声に、沖田が我に返る。
「い、いや、大丈夫。結構です」
毅然と言い放つと沖田は、足早に天羽の脇を通り過ぎる。
「沖田殿?」と、北原が声を掛けるが。
失礼――と、素っ気なく言い放ち、沖田は路地を後にした。
「お待ちしておりますよ――」
その背に向かい微笑む天羽の瞳は、常人と変わらなかった。
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