第19話 陰陽発止
白い障子越しに、柔らかな日差しが射しこんでいる。
だがそれが、師走の空気を暖めるには足りない。
山南の斜め前に、火鉢が置かれていた。
そこから伝わる温もりが、部屋をじんわりと温めている。
まだ湯気を上げる茶を手に取ると、山南は一口すすった。
「それにしても……」
なんの香りだろうか――部屋の中が爽やかな香りに満たされている。
その甘く芳醇な香りに馴染みはない。だが、不思議と心を落ち着かせる。
――と、山南は床の間に置かれた燈明皿に眼をやった。
青磁の四角い皿の上に、橙色の炎が揺れている。
どうやらこの香りは燈明皿で揺れる炎から発しているようだった。
そうではない。正確には、そこで燃える油が発している香りなのだ。
椿油とは違う。
まだ固く青い、もぎたての果実のような芳香。
「お気に召していただけたようですね」
と、気配もなく障子が開いた。
はたと、山南が声の方へ顔を向ける。
「オリーブ油と言うのですよ」
菩薩にも似た笑みを浮かべ、天羽四郎衛門が立っていた。
「
「おりーぶ油?」
山南の脇を通り過ぎると、天羽は床の間の前に腰を降ろした。
「本来は薬用や食用に用いるのですがね。私はこれに果実や花の香りを加えて灯りとして用いるのです。悪くないでしょう」
そう言って、紅い唇の端を持ち上げた。
「なにせ、お世話になっているこちらの『豊壺屋』さんは油問屋ですからね。互いに益になる事があればと、試していただいているのです」
「成程、そういう訳ですか」
眼尻に皺を刻み、山南が微笑んだ。
天羽四郎衛門は、この豊壺屋を宿として滞在している。
「無理をいってお呼び立てしておきながら、お待たせして申し訳ありませんでした」
天羽が深々と頭を垂れた。
「いや、心地の良い時間でした。おりーぶ油とやらの香りを堪能させていただきましたので、お気になさらず」
山南の言葉に、天羽は満足そうに頷いた。
昨夜の事。
どういう事なのだ――前川邸に戻った山南は、土方の部屋へ跳び込むなり声を荒げた。
普段あまり声を荒げることのない山南の姿に、周囲にいた隊士たちも驚きを隠せなかった。
だが土方だけは、それを気にした様子もなく「責任は取らせた」と言った。
「私が言っているのはそういうことではない。なぜ取り調べ中の験者を逃がしたからといって、住之江君が腹を斬らねばならぬのだ」
「己の不始末の責任を取る為、自ら腹を斬ったのだ。止められるわけがなかろう」
立派な士道ではないか――と、土方は、文机から顔も上げない。
「住之江は、同室であった久慈が胡散臭い薬に手を出していたことを止められなかったと、酷く悔やんでいたようだ。そこへ持ってきての不手際だ」
責任を感じたのだろう――と、土方は冷たく言い放った。
「君が追いこんだのではないか」
「なんだと」
その言葉に、土方の筆が止まった。
「何が言いたい」
土方は徐に立ち上がると、山南に詰めよる。
「局中法度などと、隊士を規律でがんじがらめにして、君はこの新撰組を何処へ持って行こうというのだ」
「山南さんよ。あんた何か勘違いしちゃいないか」
「なんだと」
「俺たちはな、餓鬼の使いでもなけりゃ、仲良し集団のお遊戯ごっこでもねぇんだぜ」
「当たり前ではないか」
「喰詰め浪人やら行き場のねぇ極潰し、おまけに
不逞浪士以下だぜ――と、土方は吐き捨てた。
「それとも何か。山南さん、あんたはこの新撰組をまた芹沢一派のようにしたいのか」
くっ――と、山南は唇を噛みしめた。
局長不在に、両の副長がいがみ合う異常事態に、周囲を取り巻く隊士たちに不安が走る。
だが、副長助勤のほとんどが不在である。そんな中、唯一場を納められそうな沖田は戻ってはいるものの、呼びに行っても返事もない。
周囲がほとほと困り果てた時、井上源三が戻ってきた。
「どうしたのだこの騒ぎは」
副長助勤の中では最年長であり、土方の兄弟子にもあたる井上は、この二人に意見出来る数少ない存在だった。
「平隊士たちの前で副長同士が声を荒げるなど、恥ずかしいと思わんのか」
井上の怒りに、二人はその場の矛をおさめた。
取り巻く隊士たちを掻き分け、その場を後にする山南。その背へ井上が客が訊ねて来ていることを伝えた。
「この騒ぎで忘れるところだった」
前川邸の門の前で、右往左往しているところを、屯所に戻った井上が声をかけたらしい。
「部屋に通してあります」
「ありがとうございます」
「歳の言い分も受け止めてやってもらえると、助かります」
そう囁いて井上は、土方の部屋へ戻っていった。
山南の部屋で待っていたのは、京都所司代の北原だった。
「天羽四郎衛門が会いたがっている」と開口一番、北原は挨拶もそこそこにいった。
何故に――と、山南は首を捻った。
先程、多少の
理由がないと、山南は断った。
そこを何とか――と、北原は心底困ったように頭を下げた。
天羽の連れがいなくなった件は、無事に解決したらしい。
「その節には沖田殿にも世話になった」と北原は言った。
「ならば礼は私では無く沖田君に」と山南は固辞した。
礼ではないのだ――と、北原は言った。
「どういうことです」
「理由は分からぬ。だが天羽殿は、山南殿をいたく気に入ったようなのだ」
なんとも迷惑な話だった。
北原は、重ねて頭を下げた。
この一件、大事にする気はないと、天羽は言った。
ですから――山南と会せるようにと、言われれば北原の取るべきは一つしかない。
「だから頼む」
この通りだ――と、北原は半泣きで頭を下げた。
山南の脳裏に、式鬼を握り潰したときの天羽の顔が思い出された。
虎穴に入ってみるか——と、山南は首を盾に振ったのだ。
「――して、私のようなものに、どのような御用件でしょうか」
山南は本題を切り出した。
「そう慌てずとも宜しいではありませんか」
菩薩のような笑みを浮かべた天羽が、湯気の上がる茶と見慣れぬ茶菓子を勧める。
「カステイラという西洋の菓子ですが、甘いものは苦手ですか」
黄色味が濃い四角い菓子を、天羽がさらに勧めた。
「それとも茶などでなく、お酒の方が宜しかったでしょうか」
「いえ、どちらも結構です。今日は京都所司代の北原様の頼みで参ったこと。謂わば公務であると心得ておりますゆえ」
お気になさらずに――と、山南が首を振る。
「北原殿が言う通りの御方ですね」
天羽が朱い唇を綻ばす。
「――山南敬助なる御仁、新撰組において最も謹厳実直な人柄成れど、
「北原様は寛大な御方ですから、お心遣い故に出た言葉かと――」
買い被りですよ――と、山南は苦笑する。
「では、そういうことにしておきましょう」
ほくそ笑むと、天羽は茶を口にした。
「で、本日はどのような御用向きで、私を呼ばれたのでしょう」
山南は眼尻に深い皺を湛えたまま、天羽を真っ直ぐに見つめた。
「意外にせっかちなのですね」
天羽が紅い唇を微かに持ち上げる。
「貴方は『ゼス・キリヒト』という方をご存知ですか」
居住まいを正し、天羽が言った。
「それは
「
熱っぽく語る天羽を、山南は静かに見つめた。
「この日本では邪宗とまで称され、徹底的に弾圧された耶蘇の教えですが、西洋諸国において、ほぼ全ての民が信仰していると言っても過言でない。それほど偉大なる存在――それこそがゼス・キリヒト」
「――――」
「そうであるが故に、時にその信仰は国という枠を超越し、
山南の腹の底を覗くように、天羽が真っ直ぐに見つめる。
「それは西洋の人々にとっては国の律令よりも、ゼスへの信仰心の方が上位であると言う意味ですか」
「ある意味では」
「どういうことですか」
「神の法の代行者として、国に従属するよりも大きな影響力を持つ存在があることは事実です」
「代行者?」
「はい。教皇庁――とでも言っておきましょうか」
「――教皇庁?」
「神の残した教えを全ての人々に正しく伝え、信仰心溢れる皆を、神の御許へ導くための存在」
「仏門の本山のようなものであると考えても良いのですか」
「正確な所は違いますが、概ねそのように考えても、あながち間違いではありません」
「わかりました」
では――と、山南は言葉を切り、
「あなたはその教皇庁と、どのような関わりがあるのですか?」
意を得たりとばかりに、天羽の口角が上がる。
「私は、その教皇庁の代理人として日本に戻った――と言えばどうです?」
「代理人?」
その言葉に、山南は表情を固くした。
「それは、この日本にいま一度、耶蘇の教えを布教するということですか」
いやいや――と、天羽が首を振る。
「それは今の私の仕事ではありません」
「では――」
「教皇庁には布教の他にも重大な役目があるのです」
「布教以上に?」
「それはある意味、教皇庁にとっては最重要といっても良いでしょう」
「それはなんですか」
「神の存在の証明」
ぞくり――と、山南の背筋が総毛立つ。
「不治の病を完治させる泉や、神の御使いの現れる祠……。人々の巷説に上がる人智を超えた出来事に対し、真偽のほどを確かめ、神の御力としてお墨付き――即ち、『奇跡』として認定すること。それが教皇庁の大切な役目です」
「神の奇跡を、人が認定するというのですか」
「そうです。教皇庁が認めなければ、それは呪い師の戯言と変わることはありません。神の奇跡であるかどうかを判じるのは、神に最も近い自分達であると考えているのですよ。彼らは」
「つまり代理人であるということは、天羽殿はこの日本にある何かに『奇跡』のお墨付きに来たというのですか」
いいえ――天羽は首を振った。
「教皇庁には重大な仕事が、もう一つあります」
「それは?」
「神の残した痕跡を集めること」
「神の……痕跡――」
「我々はそれを『
「聖遺物?」
「神がこの地上に現れた際に残された品々――残滓とでもいいましょうか。それを集め、大切に保管すること。これこそが神の存在を証明する為に、教皇庁が取り組む最重要な使命なのです」
「それは、どのような?」
天羽の言葉を聞き、山南の脳裏に芹沢の遺品の書物が浮かんだ。
「例えばそれは、主ゼスの
天羽が遠くへ視線を遊ばせる。
「或いはそれは、主の命を天に返した槍。或いは、主の使った皿でも良いのです。それらは、神がこの地上に確かに存在したと示す物証であると同時に、神の力を宿したものであると考えられています」
ですが――と、天羽が視線を戻した。
「その中でも特に重要と定められたものが三つあります」
「三種の——」
「それはまず主ゼス誕生以前に、預言者モウセが神と交わした契約を納めた聖櫃。次に、主ゼスが磔刑に処された時の十字架。そして何より彼らが追い求めしもの――」
どくん――と、山南の心臓が高鳴った。
天羽が何を言おうとしているのか、山南には理解できた。
「主ゼスの遺体より流れし血を受けたホーリーグレイル」
「ホーリーグレイル?」
「こちらの言葉に直せば『聖杯』とでも言えばよいでしょうか。或いは聖月杯と呼ばれることもあるかも知れません」
「――聖……杯」
山南は言葉を飲み込んだ。
「聖遺物の多くは悠久の時の流れの中で、その行方が知れず教皇庁としては途方に暮れていました。ですが、その中のいくつかが、この日本にあるということが分かったのです」
「そうですか」
「おや、あまり意外そうではありませんね」
天羽が微笑んだ。
「いえ、あまりの話に、驚くことすらできぬのです」
乾いた咽喉に、山南が唾を飲み込む。
「今よりおおよそ三百年ほど前、永禄年間にイエズス会宣教師であるルイスフロイスの手により、聖杯がこの日本に運び込まれたといわれております」
「ルイスフロイス――」
――矢張りか……と、山南が息を呑む。
「ご存知でしたか?」
「いえ、まさか。そのような話、全く知りませんでした」
山南は静かに首を振った。
「聖遺物の中でも特に重要と思われる三つの品は、主・ゼスの最後の地である聖地エルサレムより聖堂騎士団の手により運び出され、いまから五百年ほど前、何処かへ封印されたと伝わっております」
「それがまさか、日本にあるというのですか」
「この話、半分は正しくありますが、半分は誤りでもあると私は思っているのです」
天羽が首を傾げた。
「そもそも、聖堂騎士団が本物の聖遺物を保有していたかどうかが怪しいこと。少なくとも教皇庁は信じてはいません」
「それは貴方もですか?」
天羽は答えない。
「そもそも、聖櫃に関してはさらに遥か昔に、その行方が分からなくなっていたようですし、聖杯に至っては――」
と、言葉を切り、
「そもそも聖杯は、主であるゼスの遺体より流し血を受けたと言ったのを憶えていますか?」
ええ――と、山南は頷いた。
「主・ゼスはエルサレムを最後の地としなかったと言えば――どうです?」
「それは伝承が違えているということですか」
確かに、そうなれば本物である可能性は低くい。
「或いは、他の地で亡くなったのち、そのえるされむ——とやらに戻されたということは」
「矢張り貴方は聡明な方ですね」
思った通り――と、天羽が嬉しそうに微笑んだ。
「主・ゼスの最後には様々な伝承が残されていますが、エルサレムにて磔刑に処されたのは事実だったようです。だが、そこが終焉の地ではなかった」
「どういう事です?」
「主・ゼスは磔刑から蘇り遥か東を目指し、
「なんと」
釈迦の生まれた地にて、最後を迎えたという話は、些か出来過ぎているような気がする。
「そのような話もあるということです」
天羽は――嗤った。
「もちろん、事の真偽は定かではありません。ですが、ルイスフロイスが日本に来る前に、天竺に滞在していたことは紛れもない事実」
「そこで何かを見つけた——」
山南の反応の良さに、天羽が眼を見開く。
「そもそも、アメリカがこの国を開くように迫ったのが、聖杯を探し出すためだと言ったらどうしますか」
「――そんな馬鹿な……」
「無論、それだけが全てではありませんがね。
だが――と、天羽は言葉を切り、
「結局は教皇庁の知ることとなり、その結果アメリカは一歩退くこととなった――」
そう言って、天羽は哂った――ように見えた。
「私は、ルイスフロイスにより持ち込まれた聖杯を探すために、日本に戻ってきたのです」
「教皇庁の代理人として?」
「そう理解していただいて構いません」
「成程。にわかには信じられぬ話ですが、納得するしかないでしょう。しかし何故、日本人である天羽殿が、教皇庁の代理人として?」
「私を育ててくれた亡き義父の仕事を継いだだけの事です」
「そうですか。では義父殿がご健在であれば、この地に来ることはなかったのですか」
「そもそも徳川幕府は、聖杯の存在を承知していた――と言ったらどうします」
天羽が話を逸らした。
「否。徳川だけではない。かの太閤秀吉もその存在を知っていた――だからこそ、執拗に切支丹を弾圧し、この国より切支丹を閉めだした」
「全ては、為政者が聖杯を隠匿するためだと?」
「正当な継承者の下に聖杯を引き継ぐべく、寛永年間には天草にて切支丹による蜂起が起きた……」
「それは天草の一揆のことを言っているのですか」
「はい」
ぞくり――とするような暗い光が、天羽の瞳の奥で揺らめいた。
山南が無意識に茶に手を伸ばす。
「しかし、そのような話をなぜ私に」
「聖杯を探すのに、協力していただきたいのです」
やはりそう来たか――ある意味、想像できた答えだった。
「それほどの重大事。真を御公儀に伝え協力を仰ぐのが宜しいのではありませんか?」
「それが叶うと思いますか?」
天羽の言葉には嘲るような響きがあった。
無理であろう――それは山南も重々承知している。
このように複雑な情勢の時に、切支丹がらみの案件など幕府が応じるわけがない。未だもって切支丹は、公には邪宗門であるのだ。
それに、幕府が本当に聖杯の存在を隠匿しているのだとすれば、それを認めるわけなどないだろう。
「事が事だけに、幕府に協力を求められぬ事情はお察しいたします」
と、山南が嘆息する。
「ですが、私は京都守護職の下にいる立場。いわば末席の末席なれど、幕府側の人間です」
――と、自嘲気味に首を振る。
「とはいえど、所詮は有象無象の浪士とさして変わらぬ身の上。そもそもが、そのように大それた一件に関わるような立場ではございません」
他をお探しください――と、山南は慇懃に頭を下げた。
「当時、日本で一番の勢力を誇っていた大名である織田信長に、ルイスフロイスは聖杯を献上したようです」
「織田――信長……」
「御承知の通り、信長は天正十年に、明智光秀の謀反に会い、この京で命を落としています。それ以降、聖杯の行方も分からなくなっております」
「本能寺の変ですね」
「一説によれば信長は本能寺より脱し、何処かへ逃げ延びたとの話もあります。その話が本当であるならば、聖杯も共に何処かへ移されたのかもしれません」
確かに、本能寺の焼け跡から、信長の遺体が見つかったという話はない。だからといって、天羽の語るその話は、あまりにも突飛過ぎるような気がする。
「知っていますか。この豊壺屋はかつて、本能寺の有った場所に建てられているのですよ」
「えっ」
山南が眼を見張る。
「信長の死後、本能寺はこの地に再建されました。ですがその後、覇権を継いだ秀吉が己の力を誇示する為に、京の町を作り変えようとしたのをご存知ですか」
「聚楽第の建設や御土居の建造ですね」
山南の答えに、天羽は満足そうに頷く。
「秀吉は、この地に安寧楽土を築こうとしました。その際に、本能寺を含む多くの寺社が現在の場所に移築されたのです」
現在、本能寺はこの場所よりも更に東。寺町通に沿った場所にある。秀吉の手により移築されたことは知っていたが、元々の本能寺がこの場所であったことは山南も知らなかった。
改めて、千年王城とも呼ばれる京の歴史の厚みを、思い知らされたような気がした。
「しかし、何故そのような大事なものをルイスフロイスは、異国の一大名である織田信長に献上したのでしょう?」
聖遺見聞覚書を見た時から疑問に思っていたことを、山南は口にした。
もしも、天羽の話が本当であるのならば、イエズス会にとって――否、ゼスを信ずる全ての者にとって、聖杯は至上の宝であろう。聖杯を持ちかえれば、ルイスフロイスは教皇庁において地位も名誉も望みのままだったはずだ。
それを異教の人間に献上するなど、どう考えても納得がいかない。
「それは私も疑問に思います」
山南の意を察したのか、天羽が静かに頷いた。
「教皇庁に渡せば、無用の火種になる――とでも思ったのですかね」
嘘だ。天羽はそうは思っていない。まだ何かを隠している。
「そうですか――」
だが山南は、天羽の言葉に頷いてみせた。
「聖杯は穢れし純白のマリアと共にあり――ルイスフロイスが、己の残した手記の中で唯一、聖杯について残した言葉です」
「マリアと言うのは……」
山南の脳裏に、漆黒の観音像が浮かんだ。
「マリアとは生娘のまま主・ゼスを産んだ母であり、またゼスの最後を看取った妻であった者の名です」
「ちょ、ちょっと待ってください。母親であり妻であるというのですか?」
「ご安心ください。二人のマリアは別人です。偶々、同じ名前であるというだけの事です」
そう言って、天羽は紅い唇を歪ませた。
「ご迷惑をかけるつもりはございません」
天羽が再び居住まいを正す。
「山南殿には市中見回りなどの際に、それらしい噂話を聞いたら教えていただきたいのです。どのような些細なことでも結構ですので、お願い出来ませんでしょうか。もちろん充分な御礼はさせていただきたいと考えております」
天羽は慇懃に頭を下げ、
「
濡れた血のように紅い唇が、くいっ――と、持ち上がった。
「わかりました。心に留めておきましょう」
溜息をひとつ――苦虫を噛み潰したような顔で、山南は立ち上がった。
――と、天羽に背を向け、障子に手を掛けたとき、山南が思い出したように振り返った。
「ひとつ教えていただきたいことが有るのですが――」
「なんでしょうか」
「『いんヴぃでいあ』という言葉をご存知ですか」
柔志狼から教えられた、あの廃寺の遺体に刻まれていた言葉である。
「妬み――」
ぽつり――と、天羽が呟いた。
「人がその身に住まわせる『七つの大罪』の一つ」
「七つの大罪?」
「教皇庁の教えにある、人を罪に走らせる根源――
そう語る天羽の顔が、どこか楽しそうに見えた。
「それがどうかしましたか?」
「いえ、別に」
眼尻に皺を刻み、山南は静かに首を振った。
失礼いたします――と、山南は再び背を向けた。
「血に染まる眼が、主を見つめ続ける――」
山南の背に向けて、天羽が呟いた。
「――今のは?」
山南が障子を開きかけた手を止めた。
「先ほどの言葉、続きがあったものですから」
天羽が言った。
「ではこれにて」
振り返らず、山南は部屋を後にした。
「山南敬助……
そう呟く天羽の顔には、その容貌に似合わぬ老獪な笑みが浮かんでいた。
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