第21話 迷霧
どうしたものか――と、山南は焼き餅を口にいれた。
参道を賑やかす人の流れを見ながら、溜息を吐いた。
豊壺屋を後にしたのは、昼すぎのことである。
空腹を覚えた山南は、祇園社の前にある茶店に腰を降ろした。
先ほど聞かされた話に、思考が追いついていない。
それにしても――――
「天羽四郎衛門か…………」
山南は、天羽の白磁のような顔を思い浮かべた。
幼少の頃、漁で遭難しオランダ船に救助され西洋に渡り、その後フランス商人の養子となり『ベタニア商会』なる貿易商として日本に戻った男。
「キクノス・マス・ダ・シィロ」なる名を持ち、切支丹の本山ともいえる『教皇庁』の代理として、ゼスの遺品――聖遺物である『聖杯』を探しに来たという。
天羽の話によれば、諸外国がこぞって開港を迫ったのも『聖杯』を求めての事であるという。にわかには信じられぬ話ではある。
しかし、天羽が嘘を言っているとは思えなかった。むしろ山南には、天羽の語った事は、ほぼ全て真実なのであろうとの確信があった。ただ、意図的に語っていないものがあると思っている。
そしてもう一つ分かったことがある。
二つの場所で見つかった裸の女の遺体。この事件の裏には間違いなく天羽四郎衛門の存在がある。
子袋に詰め込まれた黒塗りのまりあ観音。
遺体に刻まれた西洋の文字。
いずれも切支丹とは無関係ではないこれらは、なにか呪術的儀式の為に仕掛けられたものであろう。
考えられることは一つ。『聖杯』を見つけ出すためだろう。
どのような術理であるのか分からないが、天羽が仕掛けた西洋の術式と考えて間違いはあるまい。
だが何故、山南を呼びつけてまで、あのような話を聞かせる必要があったのだろうか。いずれにせよ、分からぬことだらけである。
いまだ確たる確証も無いこの状況で、新撰組を動かすわけにはいかない。或いは近藤であれば、山南の話に耳を傾け一考してくれるかもしれない。だが問題は土方だ。
『怪力乱神を語らず』
徹底した合理主義者である土方は、己の眼で見えるもの――剣で斬れるもの――しか信じない。
昨夜の験者が逃げた一件からして、土方の関心の無さがうかがい知れる。『呪』などという見えないモノを語る験者よりも、それを逃がしてしまった隊士の不手際こそに関心をおくのだ。
近藤も、そうしたことを充分に理解しているから、伏見丹の一件は土方に任せ、こちらの案件を山南に預けたのだ。
同じ副長という立場なれど、山南と土方の立ち位置はまるで違う。局長である近藤を支えるという意味では同じであるが、実務を取り仕切っているのは土方である。
会津藩との折衝も多く、対外的に動くことの多い近藤に代り、新撰組の実働を指揮しているのは土方である。
そもそも、あの二人は旧知の仲である。そんな土方に対し、近藤が厚い信をおくのは当然であろう。また土方もそれに足るだけの能力を持っている。
それは山南自身も認めている。だからこそ山南は、土方と同じ副長でありながらも、一歩引いた立場でいることを、良しと思っているのだ。
山南と土方の事を、近藤は己の両の腕と評してくれるが、そうではない。
新撰組を船と例えるならば近藤は舵であり、土方は帆なのである。山南などはせいぜいが櫂のようなものである。
近藤が
そう思うからこそ、昨夜の一件。土方に対し黙っているわけにはいかなかった。
土方の作った『局中法度』は、寄せ集めの隊を纏めるには必要なのは分かる。武士以上に武士らしくあらねばと思う気持ちも分からなくはない。
だが純粋すぎる清廉さは、時に血を好む。それは『天誅』に酔いしれていった攘夷派たちが証明している。
船は、舵と帆だけで進むものでは無い。そこには人が乗り、向かうべき場所が有るのだ。
血桶のような
ただでさえ、殺伐とした任務をこなす
人の
たとえ血で血を洗うような任務であろうとも、それは人の世の業、すなわち『陽』の世界のこと。だが、神や魔物の
それ故に「どうしたものか」と山南は思う。
賑やかに人の行きかう往来に、山南は眩しいものでも見るように眼を細めた。
眼前に広がる京の町は、江戸で眼にしていた光景とは趣を異にしている。
喧騒に溢れ、人々の活気が脈動するかのような江戸の町に対し、千年悠久の刻の流れの中で紡がれる京の人々の暮らしは、緩やかな大河の流れを思わせる。
だが一つ確かなのは、京であれ江戸であれ――――否、この国のどの町里であろうとも、人々の笑顔溢れる光景が、山南はなによりも好きだった。
西洋列強諸国の進出や佐幕派と尊攘派の対立。そのようなもの、市井の人々には関係の無いことである。
ましてや神や魔物など、物語の中だけで紡がれていけば良いのである。この世の理の向こう側。陰の理が市井の人々を脅かすことなどあってはならぬ。
「矢張り逃げることなどできませんか……」
山南は己の掌を見つめ、諦めたように苦笑した。
よし――と、山南は立ち上がった。
「そういえば……」
あの男はどこに絡むのだ――――脳裏に、あの飄々とした漢の顔が思い浮かんだ。
それは本当なの――と、弓月が柳眉をしかめた。
「はい」
ここのは頷いた。
喧騒に賑わう人波から気配を消すようにして、二人の女は路地のとば口に立っている。
弓月が奥に立ち、その前にここのが立っている。それはまるで、弓月の姿を庇うようにここのが立っているようだ。
「山南はんが豊壺屋に……」
弓月が溜息を吐いた。
「警戒が厳しく、侵入することが適わないので、取り急ぎ報告をと思いまして」
ここのが悔しそうに首を振る。
「良いのよ。無理してここのに何かあったら大変だもの」
そんなここのに、弓月が優しく微笑みかける。
「それにしても、どうして山南はんが――」
白い顎に手をあて、弓月はどこか寂しそうに眉根を寄せた。
「例の廃寺に続き、今度は天羽と接触。蔵美屋での事もありますし、山南敬助がただの侍であるとは思えません」
「そうね…………」
弓月が顔を曇らせる。
「あの時――――」
指先を見つめる弓月の脳裏に、山南の手の温もりが思い出される。
「山南敬助に話すのは、もうしばらく様子を見てからの方が宜しいのでは」
ここのの言葉が、弓月の心を引き戻した。
「なぜ? あなたも山南はんは信頼がおけそうだと言ったじゃない」
「ですが、それはあくまでも見立ての事。実際、天羽との接触によりどう転ぶか分からないでは――――」
「山南はんは、そんなお人や無い」
思いもかけぬ強い口調に、ここのが眼を剥く。
「ご、ごめんなさい」
俯くここのに、弓月が頭を下げた。
「――もう、良いのではありませんか」
「えっ?」
「全てを忘れて、このまま普通の生活に紛れてしまっても良いのではありませんか」
視線を落としたまま、はっきりとした口調でここのは言った。
「な、何を言うの――」
「ここで止めてしまっても、文句を言う人も喜ぶ人もいませんよ」
「――止めて」
「あの日。村が滅んだあの日、あなたの御役目も全て一緒に消えてなくなった――それで良いじゃないですか」
「止めて」
「京じゃなくてもいい。江戸でも長崎でも行って普通の生活を続けましょう。私もどこまでも一緒に行きますから――」
「止めて!」
叫びにも近い言葉が、弓月の口をついて出た。
その様子に、思わずここのが言葉を飲み込む。
だが、弓月は頬を強張らせたまま、ここのの向こうの人波を見つめていた。
山南敬助――――弓月の唇が動いた。
ここのに視線を合わせぬまま、弓月は軽く首を垂れると、足早に立ち去る。
その様子に、背後の気配を察したここのは、人の波に紛れた。
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