第16話 迷盲剣
夕暮れの雑踏の中を、沖田はあてもなく歩いていた。
祇園――八坂社前を一本入った路地。
雨が上がったせいで、空気は冷えている。そこかしこに灯った明かりが、いつも以上に温かく感じられた。
魚の焼ける芳ばしい香りやら、味噌の煮立つ香りが漂ってくる。
道を歩く人の足が、今宵の酒の肴などを思い描き、心なしか急いでいる気がする。
そんな雑踏の中を、沖田は
昼すぎの事だ。
「山南さん、どこに行くんですか」
いそいそと、八木邸の門を出て行こうとする山南の姿が眼に入った。
「昨夜の件を調べるつもりなんでしょ」
ずるいなぁ――と、沖田は呟く。
「ずるい?」
「あの
沖田の声には苛立ちがあった。
そんな沖田の姿を見つめ、山南が大きく溜息を吐いた。
「沖田君。君が何のことを言っているのか分かりかねるな」
散歩ですよ、散歩――と、山南は涼やかな笑みを浮かべた。
「なんでしたら、君も一緒にどうです」
「誤魔化さないでください。こんな雨の中、散歩に行くわけないでしょ。近藤さんと何やら話しこんでいたのは、昨夜の件ですよね。あの
怒りを抑えきれなかった。
「沖田君――だから、散歩だと言っているじゃありませんか」
「山南さん――」
なおも食い下がろうとする沖田に対して、山南が困ったように苦笑を浮かべた。
「沖田君」
「なんですか?」
「沖田君」
「なんですか?」
「沖田君」
「だから、なんですかぁ――」
「留守を頼みます」
いきなりだった。
ぱちり――と、山南が、沖田の眼前で指を鳴らした。
「何するんですか」
声を荒げ、その手を払う。
「あれ?山南さ……」
だがそこに、山南の姿はなかった。
ほんの一瞬――指を鳴らされ、意識を外された。
その僅かの隙に、山南は姿を消していた。
慌てて後を追ってみたものの、既に山南の姿は何処にもなかった。
そのまま沖田は、八木邸を出た。
山南を探すのだが、当てなど有るわけがない。
唯一、思い至ったのが弓月だった。
だからといって、茶屋を一件一件探し回るわけにもいかず、途方に暮れた。
すると、前から歩いてきた男と肩が当たった。
「どこに眼ぇつけとんのや!」
沖田は今、新撰組のだんだら羽織は身に着けていない。
男は舌を打ち鳴らすも、錆びた刃のような眼をした沖田と、腰のもの《剣》を交互に見ると、慌てたように去っていく。
「はは……」
町人相手に、自分は何をやっているのか。沖田は乾いた笑いを洩らした。
自分の心がささくれているのが分かる。いつもであれば、道場で汗を流せばすっきりするのだが、そんな気にもなれない。
昨夜は多くの事があり過ぎた。
昨夜の全てが生まれてこの方、見たこともないことばかりだった。
常の沖田であれば、それらは嬉々とした興味の対象であり、好奇心を掻き立てられたであろう。
だが、そうはならなかった。
己の剣が通じぬ――
ただその一点が、沖田の心を
この世に、剣が通じぬものが存在するなど、考えたこともなかった。沖田の神速の剣は、宙に舞う木の葉すら寸刻みで斬ることができる。
だがあれは、まるで霞か煙でも斬っているようだった。全身を包まれたとき、泥沼に引きずり込まるような無力感を感じた。
そんな沖田を救ったのは、山南の使う玄妙な術だった。
山南と知り合って、もうずいぶんと経つ。
近藤を除けば、山南との付き合いは、自分が一番深いだろうと沖田は思っている。
しかし昨夜の山南は、沖田の知る山南ではなかった。
近藤や土方とはまた違う意味で、兄とも慕っていた山南の初めて見る顔に、沖田は少なからず驚きを感じた。だが不思議と納得できる自分がいた。
山南が博識であることは承知している。山南であれば、陰陽師や拝み屋の真似事の一つもできても不思議ではない。
山南とて剣が通じぬから、あのような
それよりも沖田の心を激しく掻き乱しているのは、葛城柔志狼と名乗った団子屋である。
最初から、命を
かといって、舐めていたわけではない。
せいぜいが腕の一本。つまり、その程度には沖田は本気だったのだ。
だが結果、屈辱に地を舐めたのは沖田の方だった。
肉の身を持たぬ妖異ではない。
なにより、沖田の剣の通じぬ妖異を、あの男は山南とも違うやり方で破った。
沖田の剣は通じなかったが、柔志狼の拳は妖異を打ち破ったのだ。
あんた《山南》の方が怖ぇな――
薄れゆく意識の中で聞こえた柔志狼の声が、今も耳の奥にこびり付いている。
「くっ……」
あの屈辱を思い出すたび、全身の血流がふつふつと沸き立つような怒りに駆られる。
ぎりと、歯軋りしたその時だった。
雑踏の中を、こちらに向かって飄々と歩いて来る男に眼がとまった。
夕闇に溶け込むかのような、墨染の着物。使いこんでよれた皮袴。
寒さを感じぬのか。捲り上げた袖からは、
短く刈った髪。
眼の横に走る刃傷。
まるで山門を逃げ出した仁王像だ。その強面は天下の往来に有って、明らかに目立つ。
だがそれでいて、どこか人が良さそうであり、道行く人々の中に違和感なく溶け込んでいる。
時折、片手に持った饅頭を頬張りながら童のように眼を輝かせては、夕暮れの街並みを見渡しては、感心したように頷く。
「あの野郎っ!」
間違いない。昨夜、沖田に屈辱を刻んだ男――葛城柔志狼だった。
柔志狼は饅頭を口の中に放り込むと、脇にあるうどん屋の暖簾に眼を輝かせる。
格子からは、なんとも芳しい昆布の利いた
柔志狼は鼻の穴を広げ、大きく息を吸い込んだ。
一瞬、満足そうに微笑み、店に入るのかと思いきや、眉間に皺をよせ、未練を断ち切るように通りに顔を向けた。
「待て!」
そこに沖田が声を掛けた。
肩を怒らせ、柔志狼の眼前を遮るように立ちはだかった。
「んん?誰だお前ぇ――」
眉間に縦皺をよせ、小首を傾げる。
「忘れたとは言わさんぞ。昨夜持ち去ったモノを返してもらおうか!」
沖田の声がささくれ立ち、反射的に剣の柄に手が伸びる。
「おっぉおぉ。お前さん、昨晩の。確かぁ――
柔志狼が手を打ち鳴らした。
「沖田だ!」
「あぁ、そうそう、そうだ。沖田。オキタ」
柔志狼が嗤った。
「愚弄する気か!」
かっ――と、頭に血が上る。
衝動的に鯉口を切る――が、沖田の剣は鞘に収まったまま、ぴくりとも動かない。
柔志狼の分厚い掌が柄尻を押さえていた。
「いくら新撰組が天下御免の人斬り集団だからって、こんな往来でやっとう振り回すのは無粋ってもんだろ」
沖田の耳元に口を寄せ、柔志狼が囁く。
ぞくり――と、沖田の背が総毛立つ。
柔志狼の指先が、沖田の剣の柄に触れていた。
その指先に力が籠っている様子は無い。むしろ軽く触れているだけだ。
それなのに、沖田は鞘から剣を抜くことができない。
「ちぃ!」
咄嗟に、腰を割って鞘を引こうとしても、身体が居ついたように動かなかった。
「ぐっ――」
いくら力を込めようと、
「そういきり立つなって。大方、山南に置いてきぼりでも喰らって、後を追いかけまわしてるんだろ」
「なぜそんなことを!」
沖田の顔が羞恥と怒りで朱に染まる。
「図星かよ」
にやり――と、柔志狼が口角を上げた。
「くっ!」
なんとか剣を抜こうと足掻く、身体は杭を打たれたように微動だにしない。
なす術のないこの状況に、沖田の脳裏に昨夜の苦い記憶がよみがえる。
だが昨夜のあれとは違う。
肩の上から巨大な石を乗せられているようなそれは、紛れもなく物理的な力である。
沖田が感じているそれは、動こうともがく自分自身の力だった。それが己の身体を縛り上げ圧し潰し、息をすることすらできない。
ならば打破る術はあるはずだ。
「無駄なことは止めろって」
柔志狼が苦笑する――と、一瞬、視線が沖田の背中越しに泳いだ。
それを好機とみた沖田は
遂に耐え切れず、沖田の身体が腰から崩れ落ちた。
その瞬間、嘘のように身体が軽くなった。
柔志狼がふわりと、離れたのだ。
突然の事に身体が泳ぐ沖田を構いもせず、柔志狼が脇をすり抜ける。
「おい!」
よろめきながらも、体勢を取り戻した沖田が振り向くと、柔志狼の視線の先に白い影があった。
その辺りの遊郭から逃げ出したのだろうか。十六・七ばかりの若い娘だ。
乱れた胸元を隠す事もなく、夢でも見ている様な虚ろな瞳で辺りを見回している。
肉厚な唇。
上気した頬。
ほつれ波打つ乱れ髪――
それが、まだ幼さを残す顔立ちと合わさり、なんともいえぬ淫靡な空気を醸しだしていた。
すでに夜陰の香りが漂う花街である。
甘露な酒のように醸し出す雌の匂いと、まだ青く固い果実のもつ瑞々しさに、道行く男たちの視線は遠慮がない。
ちっ――と、柔志狼が舌打ちをした。
その少女が細い路地を曲がると案の定、その背後から薄汚い浪士風の男たちが後を追うように付いていく。下卑た笑みを浮かべた駄犬のような男たちである。
「言わんこっちゃない」
ひとり勝手に呟き、残った饅頭を口に放り込むと、柔志狼が路地に向かう。
「お、おい。話はまだ済んでいないぞ!」
慌てて沖田もそれを追った。
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