第34話 観月宴
真円の月が蒼々と夜空を照らし、星の煌めきは霞んでいる。
障子のわずかな隙間から弓月が空を見上げていた。
影になりその表情は見えない。ただその背中はひどく小さく、山南の眼にはそれが泣きじゃくる幼子のように映った。
「寒くないですか」
見兼ねた山南が、部屋の真ん中で焚かれた火鉢を勧めた。
いえ……と、溜息交じりに弓月が首を振った。
「そうですか」
それ以上かける言葉が見つからず、山南は所在なさ気に火鉢に手をかざした。
その時だった。
どたどたと、わざとらしく階段を昇ってくる足音が響いた。
「悪ぃ悪ぃ。下の店も混んでてよ」
がはは――と、笑い声ともに、柔志狼が襖を開けて入ってきた。
器用にもその手には、三人分の膳に酒の支度を持ち、小指の先に鉄瓶を引っ掛けている。塞がった両手の代わりに足先で襖を開け、再び器用に閉めた。
お待たせ、お待たせ――と、火鉢を囲むように、料理の乗った膳を置き、ふたりに勧めた。
あの後――山南たちは直ぐに毬屋を後にした。柔志狼に
賑わう店内に入ると、柔志狼の顔を見つけた若い娘が声をかけた。
どうやら馴染みの店らしい。
柔志狼が手短に説明すると、娘は三人を二階へ案内した。
「ほれ姐ちゃんも、風邪ひくからこっちに来いって」
弓月の袖を引き、半ば強引に座らせた。
「つくづく――」
敵わないな――と、自分に出来なかったことを、さらりとやって見せた柔志狼に、山南は自嘲した。
「弓月さん、一緒に温まりましょう」
膳の前に腰を降ろしかけた時、
「お前ぇには言ってねぇ」
――と、柔志狼が冷たく言い放つ。
「お、おい」
冗談だ――と、柔志狼が口角を上げた。
ともあれ、窓を背に腰を降ろした二人に、柔志狼が燗酒を酌する。
「最初の一杯だけだ」
あとは手酌でやってくれ――と、柔志狼は襖側に腰を降ろす。湯呑を手にすると、自分だけは鉄瓶から手酌する。
「温まらなきゃ、口も回らねぇだろ。先ずは一献――」
二人に向け湯呑をかざすと返事も待たず、ぐい――と、仰いだ。
「弓月さん」
山南が促すと、俯いていた弓月が盃に口をつけた。
その姿を見て山南も盃を口に運ぶ。冷えた身体が温まり、腹の底に熱が広がる。手酌で酒を注ぐと、もう一杯飲み干した。
それを確認して、柔志狼は皿の上に置かれた握り飯を口に放り込み、湯呑を飲み干した。
見れば山南たちの膳と、柔志狼の膳は上に乗ったものが異なっている。
山南たちの膳には、葛餡のかかった豆腐が湯気を上げている。ほかにも根菜の煮物や青菜のからし味噌和えなどが乗っているが、柔志狼の膳には握り飯と、香の物だけである。
「良く酒を呑みながら、握り飯を喰えるものだな」
呆れたように、山南が言った。
「白湯だよ」
酒は性に合わん――と、柔志狼は拗ねたように鼻を鳴らす。
「存外、お子ちゃまなのだな」
先ほどの意趣返しとばかりに、山南が皮肉気に言った。
煩ぇ――と、吐きながら、柔志狼は鉄瓶から注いだ白湯を飲み干す。
そんな山南たちのやり取りにも、弓月は遠い眼を向けるばかりであった。
「この店。地味だが酒と料理は旨い。そっちの姐ちゃんも、騙されたと思って喰ってみな」
柔志狼は徐に立ち上がると、弓月の側に行き、別嬪さんだから特別にもう一献――と、銚子をかざす。
一瞬、弓月は躊躇いを見せながらも、柔志狼を見上げる。
「ぐいっと――な」
柔志狼が、なんとも人懐っこい温かな笑みを浮かべた。
その顔に釣られるように、弓月が盃を飲み干す。
「いい呑みっぷりだぜ姐ちゃん」
柔志狼が肩を揺らしながら席に戻った。
その背を見つめる弓月の唇に、色が戻ったのを見て、山南は安堵に頬を緩めた。
それから暫しの間、三人は黙々と眼の前に置かれたものを腹に収めていった。
「そう言えば、まだ礼を言っていなかった」
助かった――と、山南が頭を下げる。
だが、隣で表情を固くする弓月の顔が視線を掠めると、言葉に詰まった。
「気にするな」
俺なら後腐れねぇだろ――と、柔志狼が、弓月を見つめた。
「それにな仕事のひとつだ」
柔志狼が鼻を鳴らす。
「仕事とはどういう事だ」
「どうもこうもねぇよ」
仕事だ――と、柔志狼が
「だから、その仕事というのはなんなのだ。破れ寺の時といい葉沼屋の時といい、何故に私の前に現れる」
「山南さんよ、そいつは自意識過剰ってもんだぜ」
くくっ――と、柔志狼が肩を揺らす。
「伏見丹か」
探るように、山南が言葉をこぼす。
「それともまさか――」
「天羽四郎衛門と関係があるのか――と言いてぇんだろ」
柔志狼が嗤う。
「関係がないと言えば嘘になる」
「説明してもらえるかな」
山南の声が一段低くなる。
「あの晩、葉沼屋に天羽の野郎が居たのさ」
「なんだって」
「お前等が
何故かバツが悪そうに、柔志狼の声が小さくなった。
「あの場に天羽が? 何のために」
山南の言葉は自問するかのようだった。
「はっきり言っておくがな。俺は、お前ぇさんたちの敵じゃねぇ」
今のところはな――と、柔志狼が言った。
「どういう意味だ」
「言葉通りだよ。この後の転がり方次第じゃ、お前ぇ《山南》が俺の敵にならんとも限らんだろ。それに今や俺は――」
弓月を見やり、
「仇みてぇなもんだしな」
――と、自嘲気味に嗤った。
その言葉に、弓月が身を固くする。
「と、兎に角。その仕事というのを話してもらおうか」
話題を逸らすように、山南が言った。
「『なざれの道化』西方より来たる」
ぽつりと、柔志狼が呟いた。
「なざれの道化?」
なんだそれは――と、山南が首を傾げる。
「流石に知らんか――」
柔志狼は、山南ではなく弓月を見つめていた。
それに気が付いた山南が向くと、弓月が視線を逸らすように俯いた。
「弓月さ――」
「おいおい。俺の話を聞きてぇんだろ。気の多い野郎だな」
山南を揶揄するように、柔志狼が嗤う。
「ならば、聞かせてもらえるんだろうな」
山南は一瞬、憮然としながらも柔志狼に向き直る。
「依頼主に不義理になることは話さないぜ」
信用第一なんでな――の言葉に、山南が頷く。
「まず『なざれの道化』とはなんなのだ」
「知らん」
「おい」
柔志狼は肩を竦めた。
「実のところ、俺にも良く分からん。ある人物を指す一種の符丁のようなものらしい。『なざれの道化』と呼ばれる、厄介なヤツを探れというのが俺の仕事だ」
「それが天羽四郎衛門ということか」
「まぁ、そういうことだ」
「なにが厄介だというのだ」
「奴が向こうの《西洋》の生活が長く、強い縁故を築いて戻ってきた――それだけで充分に厄介と感じる輩はいる」
「それだけではあるまい」
鈍くはないな――と柔志狼が呟く。
「それじゃ奴が、幕府に武器の売り込みをかけていることは?」
長崎ではトーマス・グラバーなる西洋人が、諸藩に対し武器を売りこんでいると聞いている。柔志狼の話では、天羽はそれと同様の事をを幕府に行おうとしているのだ。
「長州の一件もあるしな。幕府としては最新の武器は、咽喉から手が出るほど欲しい」
「ならば、幕府としては願ったりな話であろう」
「そんな簡単な話じゃない。天羽は仏蘭西の紐付きだ。はい、そうですか――と、迂闊に手を出して、代わりに仏蘭西に口を出されたんじゃ面白くない」
一番初めに開国を差し迫ったアメリカは南北戦争の影響により、日本とは距離を置いてはいる。だがそれに代り、日本に対し猛烈に興味を示している国がある。イギリスとフランス。それにロシアである。ロシアに関しては蝦夷の辺りで燻っているが、イギリスとフランスに関しては、主導権を握ろうと虎視眈々と狙っている。
薩英戦争以降、薩摩とイギリスが急速に接近しているとの話も聞く。幕府にしてみればフランスとは上手く付き合いたいのだろうが、下手を打てば柔志狼の言う通り、幕府は己の首を縛る事にもなりかねない。慎重になるのも当然である。
「まぁ、出来立てのぜんざいみてぇなもんだ」
「ぜんざい?」
「熱々の美味しいところを、がっつきたいところだが、下手に飲み込めば大やけどだ」
柔志狼がおどけてみせる。
「だがせめて、天羽のご機嫌ぐらいは取っておきたい」
ぜんざいだけに、ぞんざいには扱えないってな――と、柔志狼は膝を叩く。
「そんな理由で、天羽の自由にさせているというのか」
「そんなところだろう」
だが幕府は、切支丹の秘宝を探しに来たという天羽の真の目的を知るまい。それを知ったとして、今と同様に天羽を扱うのだろうか。
「次はお前ぇの番だぜ、山南さんよ」
「私はなんの約束もしていないが」
惚けたように、山南が笑む。
「この期に及んでお惚けはよそうぜ。それとも何かい、その姐さんを前にしても――」
無関係だって言い張るのかい――と、弓月を見やり、柔志狼が鼻を鳴らす。
「そのような事を言う気はない」
「なら、ここはひとつ呉越同舟としゃれ込もうじゃねぇか」
「ならば我らの立場は敵同士――と、理解していいのかな」
山南が眼を細める。
言葉の綾だ――と、柔志狼が口を尖らせた。
「山南よ。豊壺屋でなにを聞いてきた」
「どうしてそれを」
蛇の道は蛇ってやつさ――と、柔志狼が惚ける。
「で、奴が探してるお宝の正体は教えてもらったか」
「何をどこまで知っているのだ」
つくづく油断のならぬ男である。
「そうさな――多分お前さんより、ちっとばかりは知ってるかもしれんな」
柔志狼は最後の握り飯を平らげた。
「切支丹の至宝を探すために来たと言っていた」
柔志狼の腹を探るように、山南が言葉を選んだ。
成程――と、柔志狼は指についた飯粒を口に入れた。
「奴が言うには、ゼス・キリヒトの遺体より流れ出た血を受けた杯――」
「――
「この狸め」
ふふん――と、柔志狼が惚ける。
「奴はなぜ、そんなものを欲しがっているんだ」
「自分は教皇庁の代理だと言った」
「教皇庁?」
山南は、天羽から聞いたことを掻い摘んで話した。
「へぇ、黒船がやってきたのも、聖杯を探す為ってか。どっから何処までが真実なんだか」
「どういう意味だ」
「お前ぇの話を疑っているんじゃねぇよ。俺が言ってるのは天羽の立ち位置さ」
「教皇庁の代理ではないと?」
「天羽って野郎、向こうじゃ、ちっとは名の知れた『
「
「貿易商ってのは表の顔。奴の真の顔は、西洋で秘術を学んだ外法の呪術使いだよ」
「――矢張りそういうことか」
柔志狼の話を聞いて、山南も確信に頷いた。
「では伏見丹も――」
やっと繋がったか――と、柔志狼が嗤う。
「だが葛城君の言う通り、天羽の本性が外法の
これは俺も聞いた話だが――と、前ふりをして、
「連中――とりわけ教皇庁の奴らは、ゼスだかデウスだか知らんが、そいつらの起こした奇跡は信じるが、それ以外の力は認めないらしい」
つまりだな――と、咳払いし、
「外法の
「見直しました」
なんだよ――と、柔志狼が眉を寄せる。
「貴方が思いの外に、事情に詳しいもので」
「商売柄、嫌でも耳に入ることがあるのさ」
受け売りだよ――と、柔志狼が鼻を鳴らす。
「しかし、しかしだ。天羽が
仮に天羽の話が本当だとするのならば、聖月杯は西洋では国を動かすほどの影響力をもつ。天羽がそれを手に入れれば、教皇庁に対して優位な立場に立つことが出来るはずだ。
そうなれば教皇庁の影響下の国においては、天羽は絶大な権力を握るだろう。常識的に考えれば、それだけで充分な理由になる。だが、あの天羽四郎衛門という男からは、そのような様子は微塵も窺えなかった。
「錬金術の究極の目的を知ってるか」
「錬金術師の目的――」
神の力を紐解き、人の力を持って神に近づくこと――松恋はそう言った。
「そうか。そういうことか」
神の御子の死に際の血を受けた聖月杯を手に入れれば、神の力を手に入れられると考えているのだ。
「だがそのような事が可能なのか」
「そんな事は知らねぇよ。本人に直に聞いてくれ」
さて、ここからが本題だ――と、柔志狼が居住まいを改め、
「聖杯だろうが聖月杯だろうがなんでも良いや。本当に存在するのかどうかも分からなんお宝なんぞより、奴の行動自体が問題なんだよ」
柔志狼が語気を強めた。
「いいか。西洋に強い影響を持つキリヒトの遺物が、この京に有るなんて事が知れ渡ってみろ。長州たち攘夷派の連中が黙っているわけがない。それに諸外国に知れてみろ、それこそ奴ら血眼でこの京に押しかけて来やがるぜ」
それこそ手段を選ばずにな――と、柔志狼が舌を打つ。
確かに、事の真偽に関わらず、聖月杯の存在が知れてしまえば、長州ら尊攘派がより過激な行動を起こすであろう。もしもそのようなことが起これば、教皇庁の名の下に西洋諸国が一つに纏まり、この日本に壮絶な報復を行うかもしれない。そうなれば日本は、西洋連合との全面的な戦になろう。
「少なくとも天羽の野郎は、この京に聖月杯があると信じて――否、野郎は確信してやがる。だからこそ御大層な術式を組んで炙り出そうとしてるんだろうよ」
「それが七つの大罪か……」
山南が眼を見張る。
柔志狼が懐から、折りたたまれた紙を取り出した。
「これは――」
それは京の地図だった。
「先ずは『傲慢』」
墨壺を取り出すと、柔志狼は地図の一角に朱で印をつけた。
柔志狼の印したそこは、二条城の西。小堀屋敷の裏手。
燃える瞳の鬼姫と黒い獣――そこは確か、沖田の話にあった場所だ。
食い入るように地図を見つめる山南を促し、柔志狼は別の場所に朱を付けた。
「『嫉妬』」
祇園の破れ寺。高利貸し井筒屋喜兵衛の変死体が上がった場所。そして何より、山南が柔志狼と初めて出会った場所である。
これは――と、山南が唸るように呟く。
『憤怒』――と、その言葉に促されるように、柔志狼が筆を走らせる。
そこは本國寺の東。久慈たちが殺された場所である。
「もしや葉沼屋も?」
あぁ――と頷き、柔志狼が六波羅寺前の葉沼屋に印をつけた。
「七つの大罪と言うからには、あと三つ——」
苦いものを絞るように、山南が呟く。
「いや、あと二つだ」
そう言うと、柔志狼が島原の外れに朱を印した。
「ここは?」
「『怠惰』の呪を仕掛けた場所だ」
「確かそれは――」
松恋の話によれば、怠惰は四番目の罪。葉沼屋こそが、その『怠惰』の呪を仕掛けた場所であろう。
「葉沼屋は五番目『強欲』だよ」
「何だって」
「だから言っただろ。あと二つなんだよ」
「どういうことだ」
「
「まさか志村君か!」
「腹に黒い観音様抱えた女と一緒に、埋まってる」
「何故知らせなかった」
冷静を装うが、山南の声は硬い。
「俺が見つけた時には、もう死んでいた。それに――」
そこまでの義理はねぇ――と、柔志狼は視線を逸らした。
「まぁなにより、
「術式を?」
「奴の術式は七つの大罪の因果を含ませ、この地に呪を残すってことだろうよ」
「因果による結界か」
「この大きさからすれば、相当なものだろうよ」
そう呟きながら、柔志狼が地図上に指を走らせる。
「そうか――」
山南の表情を窺うように、柔志狼が筆を持つと――
「二条城の西の事件を最初の起点として」
祇園の破寺――本國寺東――
柔志狼が朱線を引くと、そこには逆三角が描かれる。
「次に――」
島原の外れ――葉沼屋――と、朱線を引く。
「ここまでくりゃ、馬鹿でも分からぁ」
最後の二か所から、それぞれ斜め上に線を引き、その二本がある一点で交わる。
それは、久慈新之助の関わった三番目の原罪「憤怒」の現場を真っ直ぐ北に上がり、小川通沿いで交わった。
柔志狼が地図上に引いた朱線は、互い違いに重ねた二つの三角形を浮かび上がらせた。
「これは篭目紋。いや――」
六芒星か――と、山南が唸るように呟いた。
正三角と逆三角を重なるように描いたそれは、六つの頂点を持つ星にも似た『六芒星』と呼ばれる図形だった。
「そしてここが、第六の原罪「暴食」の因果を含ませる場所とみて間違いないだろう」
柔志狼が指示した場所は、因幡の池田屋敷の西。すぐ東には御所の中立売御門がある。
それに――
「施楽院か……」
中立売御門の隣には近々、松平容保の移る施楽院がある。
「これを見ては反論の余地もない」
山南が嘆息した。
「葉沼屋じゃ一歩遅れたからな……」
柔志狼の表情が悔恨に曇る。
「あの時は――」
ちらりと、山南を横目に、
酷ェ目にあった――と、柔志狼が嫌味っぽく唇を歪めた。
「そこまで義理はない」
「そりゃそうだ」
二人は顔を見合わせ苦笑する。
「だがな、これで六つだ。残りのひとつ『色欲』の呪も仕掛けにゃならんが、そもそも六芒星作るにゃ、これで充分。だが大罪はひとつ余る。ってことは――」
柔志狼がちらりと、山南の様子をうかがう。
「ならば最後はここしかあるまい」
地図上に描かれた六芒星の中心を、山南は指さした。
そこしかないよな――と、柔志狼が額を叩いた。
そこは天羽の逗留している油問屋『豊壺屋』だった。
「もしかしたら天羽は、最初から聖月杯の在処を知っていたのではないだろうか」
山南の言葉に反応したように、弓月が視線を上げた。
「どういうことだ」
「天羽の術式。これは聖月杯を探し出す為ではなく、封印を解く為に行っているのではないだろうか」
「おいおい。封印の巫女である『真具陀羅尼のまりあ』がいなくちゃ封印が解けるはずが――」
「だからこその『七つの大罪』なのだ」
落ち着かぬ様子の弓月を窺いながら、山南が続ける。
「封印の巫女である弓月さんがいないがゆえに外法を用いて封印を解かんとする方法が、天羽の仕掛けた『七つの大罪』の術式なのではないか」
よいか――と、二人を見つめ、
「切支丹たちの崇めるゼス・キリヒトなる方は、万人の罪を背負って天に召されたという」
奇特な野郎だ――と、柔志狼が鼻を鳴らす。
「何故ゆえに天羽は殺した娘の子袋にまりあ観音を入れたと思う。しかも七つの罪の名を刻んでまで」
「確か、マリアってのは、キリヒトとやらの母親じゃなかったか」
「そう。生みの母親であり、最後を看取った妻の名でもあるのだ」
確か天羽はそう言っていた。
「つまりこれは――」
まりあ観音に人の罪を刻み、若い娘の子袋の中に入れ戻す。最初のマリアと最後のマリアにより、キリヒトの誕生と最後に見立てた呪。封印のために仕掛けられた術式に、新たな呪を上書きするようにして、術式を組み変えようとしているのだ。
「聖月杯の在処が分からぬのに、このような術式を組むはずがない」
山南は確信したように頷いた。
「悪趣味な野郎だな」
嫌悪感丸出しで、柔志狼は表情を歪めた。
「しかし、ならば伏見丹は、何のために必要なのだ」
山南は顎に手をあて、自問する。
「葉沼屋によって、相当な量が市中に出回っているみてぇだな。たがその割には、葉沼屋から天羽に対して目立った金の流れは無かったようだ」
新撰組の探索方でも、金の流れまでは追えていないのに、良くも調べたものだと、山南は感心した。
「それはそうとして」
突如、柔志狼が弓月に向き直った。
「弓月さんだったよな」
改まり、神妙な顔をする。
「あんた、えらい別嬪さんだよな」
「葛城君。こんな時に何を言い出すのだ」
驚いたように、山南が咎める。
「さっきから考えてるんだが、あんたの顔、どこかで見たような気がするんだ。こんな別嬪さんなら、わすれることぁないんだが――」
思い出せん――と、頭を掻いた。
弓月は困惑したように、苦笑した。
「そんな事より葛城君。どうして君が、毬屋に現れたかをまだ聞いていないと思うのだが」
妙な空気感に、山南が話を変えた。
「あぁ、そういや忘れていた。俺も伝えなきゃならん事があったんだ」
柔志狼が手を叩いた。
「葉沼屋でのあの夜――」
「待ちたまえ。それが私の質問と何の関係が――」
「慌てるなよ。物事には順序ってのがあるんだ」
「
助けられた――と、柔志狼が苦笑した。
柔志狼の言葉に、弓月が眼を見開いた。
「そ、その娘は、ここねと言いませんでしたか」
慌てたように、弓月が身を乗り出した。
「確か、そんな名前だったな」
天井を見上げ、柔志狼が顎を掻いた。
「あぁ……」
弓月が安堵に崩れる。それを支えるように、山南が傍らに寄り添った。
「ここねは――ここねは今どこに?」
ようよう顔を上げた弓月が声を絞り出す。
「――死んだ」
眉をしかめ、柔志狼が呟いた。
「えっ?」
「俺を助けた時、酷い傷を負ってな。今際に、毬屋という置屋にいる弓月という芸妓に伝えてくれと」
「な、なにをです」
「『全てを忘れて暮らせ』――と」
「そ、そんな。そんな――」
「復讐や役目など忘れろとも言っていたぜ」
「今更、そんなこと……」
眉間に皺をよせると次の瞬間、弓月の瞳から大粒の涙が零れた。そのまま顔を覆い、弓月は泣き崩れた。
「それを伝えに出向いたら、あの場に出くわした」
弓月から視線を外し、柔志狼がそっと溜息を吐いた。
「葛城君。君は意外に下手なのだな」
「なぬ?」
嘘なのでしょう――山南が微笑んだ。
「理由は分からない。だが、ここねさんから命を救った代わりに、そのように伝えてくれと頼まれたのでしょう。違いますか」
「ほ、本当なのですか。ここねは、ここねは生きているのですか」
顔を上げた弓月が、縋るような眼で見つめる。
困ったように顔をしかめ、柔志狼が頭を掻きむしる。
「葛城様!」
「分かった、分かった。俺の負けだ。どうにもこの手の嘘は苦手だ」
柔志狼が溜息を吐いた。
「ここね――といったっけ。あの娘は無事だ。少なくとも昨夜、別れるまでは生きていた」
その言葉に、弓月が息を洩らした。
「葛城君」
山南に諌められると、
悪かった――と、柔志狼が頭を掻く。
「理由は知らんが、兎に角、自分は死んだことにしてくれと」
だがな――と、弓月を見つめ、
「弓月さん。あんたに全てを忘れて、普通に暮らして欲しいと言っていたのは本当だ」
でもどうして……と、弓月は首を振った。
「いえ。そんな事より、ここねは今どこに」
「自分には役目がある――そう言って、行っちまった」
「役目?ここねは確かにそう言ったのですか」
柔志狼が頷くと、弓月は肩を落とした。
しかし――山南は腑に落ちなかった。
ここねの本来の役目は、封印の巫女、つまり弓月を護ることである。そのここねが自らの意志で、弓月の前から姿を消す必要があるのだろうか。
「もしや――」
「山南はん?」
まさか、ここねは独りで、天羽の命を獲りに向かったのではないだろうか。
もしも封印の巫女を護ることを、至上の命と考えているのならば、それを脅かす元凶である天羽を殺すことが最妙手と判断したのではないか。
「なんです?言うてください山南はん――」
悲痛な面持ちで、弓月がにじり寄る。
「山南はん」
弓月の肩が小さく震えている。
家族を殺され、生まれ育った村を失い。身を寄せていた毬屋すら失った。この上、共に村を出たここねまで失ったとしたら、弓月の依るべきものは何も無くなってしまう。
数百年に渡る役目の重さに加え、この細い肩の上には、大切な者を失う悲しみと孤独感が圧し掛かっているのだろう。先ほどまで自分を殺してくれと気丈に振る舞っていた姿と、この震える肩が重なり、山南はなんともいえぬ愛おしさを覚えた。
まるで幼子のように小さく震える弓月を、抱き締めてしまいたい衝動に駆られる。理屈ではなく、その重荷を少しでも支えてやりたいと思うのだ。もし今、この場に柔志狼が居なければ、そうしてしまったかもしれない。
「弓月さん大丈夫だ。ここねさんはきっと生きている。この葛城という男は、独り死地に
それは保証できる――と、口を曲げている柔志狼を見やり、
「つまりそれは、この葛城とて、ここねさんに死ぬ気が無いことが分かっているということだ」
そうだろ、葛城君――と、言い聞かせるように言った。
「まぁ確かに、死にに行くようには見えなかった。ただ寧ろ――」
「どうした?」
「いやなに。なんであれ、天羽の野郎をぶっ潰すのが、最妙手なんじゃないのかい」
柔志狼の口元に、なんとも不敵な笑みが浮かんだ。
「私も葛城君の言う通りだと思う。天羽の真の狙いが何であれ、無辜の人々を犠牲にし聖月杯の封印を解くなど、許せることではない」
「山南はん……」
「私がこの京に来たのは、日々を
弓月の白い手に、山南は己の掌を重ねた。
「貴女の先ほどの頼みを聞くことは出来ない。だがその代り、弓月さん。あなたの願いを叶える為に、私はこの身を砕きましょう」
「ウチの――願い?」
弓月が眼を丸くする。
「その前に葛城君、一つはっきりさせておきたい」
「なんだい」
「そもそも君は何者なのだ?」
「俺ぁ『
「よろず……荒事屋?」
「やっとうチャンバラ人探しはもとより、呪い怨霊魑魅魍魎。妖怪変化に用心棒。荒事ならば何でもござれ。
てなもんだい――と、柔志狼が膝を打った。
「なるほど。単なる拝み屋にしては腕が立つとは思っていたが、荒事専門ですか。しかも陰陽表裏なんでも有りとは恐れ入った。なんとも――」
節操が無い――と、山南は微笑んだ。
「今回のような面倒な一件。俺みてぇのが一番ぴったりだろ」
なぁ――と、柔志狼が、弓月に向かって口角を上げた。
「だとしたら、そんなあなたが、損得勘定抜きで私たちを助けたとは、到底思えないのだが」
山南の眼から笑みが消えていた。
「ふむ――」
太い指で耳の後ろを掻き、柔志狼が息を吐く。
「さっきも言ったがな。俺の仕事は、天羽の野郎の腹を見極める事だ」
「なざれの道化か――」
そうだ――と、柔志狼が頷く。
「奴の腹が観えなきゃ、どう扱ってよいか分からないんだろうよ」
だからよ――と、柔志狼が手を叩いた。
「ここはひとつ互いに手を組むとしようぜ」
「信じて良いのか」
柔志狼の瞳を見据える。まるで澄んだ水面のように澱みがない。仁王のような体躯をしながら、その瞳は菩薩のようである。悪意こそ感じられないが、だからといって底が見えるわけでもない。迂闊に触れれば斬れる刃のような怖さもある。
「好きにしな。お前ぇが敵だと思ったら、いつでも斬ればいい」
出来るんならな――と言って、大きな声で嗤った。
苦笑しつつ、山南は同意を求めるように弓月を促す。
「はい」
弓月が頷き、
「葛城様。どうか私に御助力下さいませんでしょうか」
深々と頭を下げた。
「おいおい、止めてくれ。山南みてぇな酔狂な野郎と違って、俺のぁ仕事だ。貰う所からお代は貰ってんだ。そんな改まって頭下げる必要はねぇよ。そんな事よりも――」
柔志狼が二人の間に眼を落とし、
「いつまで手を握り合ってんだい」
にやにやと、下卑た笑みを浮かべる。
「えっ?」
そこで初めて山南は、未だ弓月の手を握りしめていたことに気が付いた。
「あっ」
どちらともなく、ふたりは手を引き戻した。
「見ちゃいられんな」
呆れて、柔志狼が溜息を吐いたその時だった。
「なに!」
「むっ!」
山南と柔志狼が、同時に窓を見つめた。
「――うっぅ……」
眼元を押さえ、弓月が苦悶に顔を歪めた。
「弓月さん!」
慌てて振り返れば、押さえた指の隙間から、仄かに紅い光が漏れていた。
弓月の瞳が紅く朧に光を発している。
「それは――」
山南が手を伸ばそうとした時、
「山南!」
柔志狼の声に振り返る。
障子が開いた窓の外に、まるで生まれたてのような、小さな黒い猫がうずくまっていた。
「ふうインのミコ、まぐだらノまりあと、やマなみケイすケ一条戻はしにて、かりそめノみことともにまツ」
金色に瞳を揺らし、黒猫が喋った。
「式神か」
柔志狼が音も無く動き、黒猫の首根っこを掴んだ。
「吩っ!」
その瞬間、柔志狼の手の中で光が弾けた。
すると、黒猫の姿は霞が
「なんじゃこりゃ」
柔志狼が掌を開くと、そこには薄汚れた一枚の紙片があった。
ぐしゃぐしゃに丸められたそれを開くと、そこには『霊』と書かれてる。
だがその字は朱で大きく消され、その上には見たことのない、記号のようなものが書かれている。
「これは……」
その紙片を受け取った山南は眉をしかめた。
「間違いありません。私の式鬼の呪符です」
それは山南の放った式鬼の一つ。あの雨上がりの後、天羽が手にしていた、山南の式鬼のなれの果てだった。
「どうやら私の放った式鬼を返されたようですね」
上に書かれたのが『ルーン』と呼ばれる古代ゲルマン文字であることを、山南は知らない。だがそれを持って、己の呪を上書きされたことは理解できる。
「まぐだらにのまりあ?」
なんだいそりゃ――と、小首を傾げる柔志狼。
弓月に同意を得ると、山南は毱屋での話を簡潔に説明した。
「成程ね。それが先ほどから出ている、封印の巫女って訳か」
柔志狼が大きく頷いた。
「ならば仮初の巫女とは――まさか!」
連れの娘が居なくなって――北原はそう言っていた。
「どうした」
「天羽の連れに、若い娘がいた。もしやその娘を弓月さんの代わりに――」
まさか――と、次の瞬間。抜身の刃を突きつけられた様な殺気が、柔志狼から放たれた。
「葛城……どうした?」
反射的に間合いを取ると、無意識に剣に手が伸びた。
だが、山南に見向きもせず、柔志狼が背を向けた。
「待ちたまえ葛城君」
無言で部屋を出て行こうとする柔志狼の肩を、山南が掴んだ。
「離せ」
「落ち着け。どうしたのだ急に」
「どうやら俺はお呼びでないようだが、ちょいと先に行かせてもらうぜ」
溢れんばかりの殺気に、山南の背に冷たい汗が流れる。飢えた虎を素手で捕らえるとこのような感じなのだろうか。
「抜き返すつもりが、また後手に回っちまったみてぇだ。十中八九罠だろうがな行くしかねぇんだ」
お前ぇ《山南》と遊んでる気にもならねぇ――と、言い放った。
「どうしたというのだ。説明しろ」
「その連れの娘とやらにな、ちょいとばかり縁が出来ちまってな」
ぎり―ーと、柔志狼が牙を軋らせる。
「なんだって?」
胸糞悪い――と、柔志狼が吐き捨てた。
「もしや、弓月さんの代わりに誰かを『真具陀羅尼のまりあ』に仕立て上げたというのか」
「姐ちゃんの代わりだと?」
山南の手を振り払うと、柔志狼はまじまじと弓月を見つめた。
「――まさか、そういうことなのか」
不安そうに見つめる弓月に、柔志狼が呟く。
その様子に、弓月は戸惑いを隠せない。
「どうしたというのだ?」
割って入るように、山南が詰め寄る。
「いや、何でもねぇよ。兎に角、俺ぁ……行くぜ」
どこか歯切れの悪い柔志狼。
「ちょっと待ちたまえ」
「止める気か?」
殺気が痛い。
「そうではない。万が一に備え、布石を打っておこう」
「面倒臭ぇ」
「どちらにせよ、今から敵の土俵に上がったのでは後手に回らざるを得ない。ならば今だからこそ、三手ほど先の手を用意しておくのだ」
「なにか考えがあるんだろうな」
「勿論です」
今度こそ抜き返すんだ――と、山南が不敵に微笑んだ。
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